加藤酒屋は成田駅前のあんびん屋と松林堂菓子舗の間にあった。写真は大正2年10月26日の米澤新聞に掲載された加藤酒屋の広告である。赤湯~梨郷間が開業した記念号に掲載されたものであり、紙面の約半分を占める程の大きさである。特約店である旭屋が宮内町の事業者であったこともあるのだろうが、当時の加藤酒屋の事業規模を示すものと考えられる。
加藤五左エ門は大正11年に鉄道が開通すると駅前に支店を建て菊地秀蔵氏と佐々木素助(そうすけ)氏の二人に住宅を建てて住まわせ、2年後に劇場栄楽館を自ら社長となって建設したのである。菊地秀蔵氏の住宅は(現在の長谷部本店近くに)総2階建てで料理屋をしていた。佐々木素助氏の一部を酒屋の運送業の事務所にしていた。(沙石集より抜粋;カッコ部分は挿入)
成田には3軒の酒屋があったと言われている。「沙石集 成田の豪商たち」の中では、中の酒屋(佐々木宇右衛門の分家 佐々木太左エ門)、下の酒屋(飯澤半右エ門の分家 飯沢半十郎)を紹介しているが上の酒屋の記述はなく、加藤酒屋が上の酒屋なのかは確認できない。また横山吉治氏の調査(沙石集 資料「組直り面付けと伍什組制度について」)によれば、加藤五左エ門は成田舘地区に居住しているが、宮摂取院の壇家とされている。ふるさとめぐり致芳では「ままの上酒造が酒屋の店を開く」とあることから、当時の長井町との関連も伺えるが、残念ながらこれ以上の確認はできない。
さて加藤五左エ門は「長年長井村第一の資産家を誇っていた」とされるが、その後間もなく没落することになる。鉄道開通に合わせた好景気も大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌、さらには世界恐慌と続く大波に地方も翻弄されることになる。
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