大正8年の秋頃だったが3線の中の中央部の線に決定したのだった。線路が決定すると停車場の位置問題がにわかにクローズアップされてきた。それまでノンビリしていた地域の人達も停車場のこととなると、あわてて論議し始めた。区長はじめ村会議員、区会議員等有力者が会合して成田区民の意思を統一してその筋に陳情しようということになり、早速福蔵院を会場に区民総会を開いたのである。大部分の区民が出席したらしく広い会場も溢れる程の盛会であった。この時の区長は安部秀弥氏でなかったかと思われるが確たる記憶はない。司会者が経過報告をして、成田として駅はどの位置を希望するかを諮ったのである。種々論議されたが結局成田中央部即ち赤間伴右エ門の南部と満場一致で決定した。
更に希望通りに設置された場合、区有金2千円を鉄道院に献納すること、又陳情経費其の他の経費も区有金より支出することを決議したのである。この2千円は停車場敷地1町歩の買収価格であった。この時の主導者は誰であったかはよく判らないが、当時村長に就任していた佐々木覚次郎氏が影の人として活躍していた。この佐々木氏に頼まれて、私が成田地区の地図に希望の停車場の位置と県道よりの取付道路を赤インキで書いたのだった。それを持って第1回の陳情団(2名位か)が秋田鉄道管理局に行った。2回目の陳情に行ったのは、8年の暮れ12月頃でなかったか、雪が5、6寸あったのを覚えている。加藤五左エ門、横山辰蔵、長谷部甚作の3名で長井紬をお土産に持って行った。
致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より
【おらだの会】駅の建設にあたって資金を提供するのは昔も今も同じようであるが、成田区として支出するとしたのは興味深い。これについては次回、別の史料を紹介したい。
陳情のお土産に長井紬を持参しているのは、当地域での養蚕と紬の生産が特筆すべきものであったことを示すものであろう。写真は全国の養蚕振興のために長井村を訪れた貞明皇后(大正天皇の后)が、昭和25年五十川にある上杉鷹山公御手植えの桑の木を視察された際のものである。
(写真で見る致芳のあゆみ:平成14年 致芳地区文化振興会発行 より)
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