長井線は大正3年部分開通で長井町まで開通したが、その先荒砥までどこを通るか地区住民の非常な関心事であったが、測量しないうちは誰にも判らなかった。憶測やデマが盛んに乱れ飛んだ。住宅にかからないように西表の真ん中を通るそうだと言う人も居り、又遍照寺の東に街を斜めに横切って、竹林あたりで松川を渡り、森、東五十川から東根に行く等と誠しやかに言うものもあった。ちょうどその頃東分教場建築が決まり敷地も大体内定したけれど、若し汽車が東を通る場合、線路は必ず校舎の前後を通らなければならない。校舎建築を見合わせたらということを真剣に論議されたこともあった。
致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より
【おらだの会】長井~荒砥間の建設は、大正6年12月の鉄道会議で大正8年から3か年で行うことで決定されている。当初鉄道院では最上川の右岸を通って荒砥に向かう路線を計画していたようである。最上川を挟んで鉄路の争奪戦が激しさを増すことになる。
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