その後、子孫大いに繁盛し、分家別家と栄えていった。現今、成田における鈴木氏一門はことごとくその子孫であるということであります。一方義経が泊った家は、森の塔の上の古口名兵衛の祖先宅であったという。なお一説には、昔の鈴木平左衛門兼行という人は、同行山伏七人のうちの一人で、やはり義経の家来で彼の娘に保護者として付け残された人であったとも言われております。
果たして娘に形見として残していった日の丸の軍扇は、その由緒書と系図の一巻と共に、その家の重宝となって相伝していったのであります。さらに江戸時代になってからは、家の惣領筋の者が伝えるべきものとなり、回りまわって吉川家に伝えられることになったといいます。しかしながら歳月は流れ、今日では軍扇の存在を確認することはできなくなったとのことです。地区最大の歴史秘話を証言する軍扇は、まさに歴史の闇の中に消えてしまったのでありました。
注:写真はもちろんイメージです。
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