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元中山 一字一石経塚

  • 元中山 一字一石経塚
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一字一石経塚(きょうづか)※は元中山公民館西側に所在していました。

平成7年県道改良工事の際、地中に残存する経塚が発見され、調査後隣接地に移設・再埋納されました。

出土したのは経石のみで、その大半は扁平な自然石に1文字ずつ墨書されたものです。

 

経塚の経碑には寛延元戊辰宿十月吉祥日(1748)と刻まれています。

この経塚が建立された時代は、延享二年(1745)から4年間、東北一円が凶作にみまわれています。3年連続の凶作の秋を迎えた村民が経塚を建立し、翌年の豊作と生活の安定を祈願したと考えられます。

 

※経典を土中に埋葬し盛土をした塚。追善供養や現世利益などを目的に平安中期から近世にかけて造られました。

 

参考:南陽市遺跡分布調査報告書(1)

2020.08.19:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

庚申講

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中川地区にある石碑で多いのが庚申講碑(庚申塔ともいう)です。

「庚申講」と彫られた石碑だけでなく、本尊の「青面金剛」(しょうめんこんごう)と彫られた石碑も庚申講碑になります。(画像3枚目)

1枚目の画像には宝暦十二壬午(1762)と刻まれています。後ろの碑も上部に日月(じつげつ)が刻まれていることから、日待ち・月待ち講に関係した碑と考えられます。

 

庚申講は暦日の庚申(かのえさる)の日の夜、講中が集り語り合って日の出を待つ日待ち講です。

庚申の夜、身体の中に住む三尸(さんし)の虫が、眠っているすきに天に昇って天帝に悪事を告げられないよう、寝ずに起きていて夜を明かします。

 

市内各地の庚申講の実態は南陽市史に詳しく記載されていますので、興味のある方はご一読ください。

 

庚申の晩は他人の悪口をいくら言ってもよいとされていました。

お酒も入り、日頃のストレス発散の場でもあったようです。

 

参考:南陽市史 民俗編

 

2020.08.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋 北沢のお不動様

  • 川樋 北沢のお不動様
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かつて、川樋の北沢にはお不動様が鎮座していました。

 

川樋の日影道入口には鳥居があり、文政七甲申(1824)と刻まれています。

常善院(ホーエンサマ)があった場所に隣接する道路です。常善院の本尊も不動尊でした。

(鳥居の前には夜燈が建ち、不動尊の文字が見えます。このような配置になったのは、自動車が通れるように後年鳥居を移動したためです。)

 

現在、日影道は近年の豪雨災害で橋が流され不通になっています。

もし通れるとすると

鳥居から600m程進むと分れ道があるので左に進みます。夜燈が建てられていますので目印になります。

そして北沢沿いの道を進むと、上流にお不動様が鎮座していたのですが、豪雨により土石流が発生し流されてしまいました。なお、沢沿いの道も流されています。

山菜のミズが採れる場所だったのですが、残念です。

 

お不動様が安置していたのは、山の中腹に砂防ダムが作られた所です。(画像3枚目)

 

岩部山第一番観音近くの不動明王像が北沢お不動様の前立仏とみています。(画像4枚目)

2020.08.12:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

釜渡戸 子易大明神

  • 釜渡戸 子易大明神
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釜渡戸地区の白髭神社境内には石の祠が三基あり、真中の祠に子易大明神が祀られています。

 

この像は彫刻が非常に密で、丁寧に彫り刻んだもので、姿態は頭巾を深々とかぶり、自ら抱いている赤児をやさしく見下ろしている。

この像と一緒に石の堂におさめた木札には次の様に書かれている。

  天下泰平  導師別当 南蔵院法印

  国家豊隠  神主 大坂源七

  天保十三壬寅星

 奉建立大宮子易両大明神※如意満 ?

  村内安全 世話方 大坂今朝次 加藤友弥

  産婦無難 施主 一村中

(なお、実物は旧字体で書かれています。4枚目の画像を見ての通り、現在は文字が消えてしまい、ほとんど読めません。)

天明八年(1788)の水帳をみると、吹原に常楽院屋敷というのがあるが、それから50年ほど後に吉野村下荻の南蔵院が導師となってこの像が建てられたということは、当時南蔵院の勢力が相当深く釜渡戸に延びていたこと、また常楽院と南蔵院とは深いつながりがあったものであろうと想像されるのである。

この石像の背面には

天保十三壬寅三月 川樋村石工??右門源宗?

と記され、この像の建てられた年は、天保十三年(1842)に間違いないことが確認できる。

 

引用:錦三郎著「釜渡戸を中心とした社会科資料」

 

※西置賜郡小国町にある大宮神社と子易神社が合祀された「大宮子易両神社」のこと

2020.08.05:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

古峯神社

  • 古峯神社
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「盗人は背中一つ、火事は土台ごと」と云われ、火災は人災の中で最も恐ろしいものとされてきました。

そんな火伏信仰から栃木県鹿沼市古峯原(こぶがはら)にある古峯(ふるみね)神社信仰、通称「こばはらさま」は現在に続いています。

 

置賜地方は、どこに行っても古峯神社のお札納めの石塔がない所はなく、火事が起きないように守ってもらう信仰は広く深いものがあります。

 

毎年2月頃、古峯代参を送り、代参者が帰ると「御御堂(おみどう)入れ」を行います。

 

参考:南陽市史 民俗編

 

画像1枚目は新田、2枚目は川樋、3枚目は小岩沢、4枚目は元中山、5枚目は釜渡戸の古峯(峰)神社です。この他にもあります。

2020.08.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]