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川樋 嶋崎明神

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川樋地区の岩屋堂にある嶋崎明神には「片目の魚」の伝説があります。

 

鎌倉権五郎※1が川樋の岩屋堂※2の戦いで、敵を追い散らして陣屋があった岩屋堂に戻ったとき、どこから飛んできたか、流れ矢が右の目を射抜いてしまった。

権五郎は矢を抜こうとしたが抜けるのを見た部下は、自分が抜いてやろうとして、右手で矢をにぎり抜こうとしたが抜けない。

そこでわらじを履いた足を額にかけて、ようやく抜いたが、それを見た権五郎は、「この矢を射た奴は、わしによほどのうらみがあるのだろう」といって、右の目を傍らの池で洗うと、池は権五郎の目の傷で真っ赤になった。

それからこの池の魚はみな片目になってしまったという。

 

※1平安後期の武士、後三年の役で源義家に従軍し奮闘する。

※2こぶし荘付近の字名(岩谷堂という表記もある)

 

参考:南陽市史 民俗編

 

嶋崎明神の故事は、江戸時代に編纂された「米沢事跡考」や「米沢里人談」にも掲載されています。Hさんの協力をいただきながら、くずし字を解読中です。

なお、このような鎌倉権五郎と片目の魚の伝説は、東北から関東各地に伝承されています。

山形県内でも山形市本沢の蓮沼、天童市の八幡池、立川町(現庄内町)の翁池など各地に伝わっています。

 

嶋崎明神は明治の中頃まで九尺四方の堂宇が建っていたが、乞食が宿って火事を出し焼失したといわれています。

画像1枚目の鳥居が新しいのは、以前の鳥居は倒壊の危険性が高く、10年程前に新しくなりました。

 

2020.09.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

堅磐橋

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三島通庸の土木事業の一環で構築された、上山市川口地内の前川に架けられた堅磐橋(かきわばし)も選奨土木遺産に認定されています。

明治11年(1878)1月に着工し、3月に竣工(竣功)しました。

英国人旅行家イザベラ・バードも同年7月に堅磐橋を渡りました。※

 

この二連のアーチ型の石橋は「川口の眼鏡橋」と称され、竣工した当時は見物人で賑わい、橋の袂には茶屋もできたといいます。

 

案内板にある「石材は同橋上流山手の採石場・・・」とは、天保年間から採石している岩部山石切り場と考えられます。

 

参考:山形県ホームページ

 

※日本奥地紀行に「私はここ(上山)にやってきたのである。ここはそこ(赤湯)から10マイル離れたところで、りっぱな道路を通って・・・」と記載されています。

整備間もない川口新道(新道に架けられたのが堅磐橋)を利用したようです。

2020.08.26:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中山橋

  • 中山橋
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小岩沢・蛇ヶ橋の記事にある「選奨土木遺産」について、平成21年に「山形の石橋群」として県内11の石橋が認定されています。

 

今回は隣の中山地区にある中山橋を紹介します。

中山橋は上山市中山地内を流れるカラジュク川に架けられたアーチ式の石橋で、明治13年(1880)に竣工しています。

アーチの石組は二重になっていて、重厚で堅牢な造りとなっています。

中山橋も初代県令・三島通庸の土木事業の一環で構築されたもので、親柱には「奈可やまはし」と陰刻されています。

 

参考:山形県ホームページ

2020.08.25:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

小岩沢 蛇ヶ橋

  • 小岩沢 蛇ヶ橋
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前川の支流北川に架かる蛇ヶ橋(じゃがばし)は小巌橋(こいわばし)とも呼びます。

明治14年(1881)に竣工されたアーチ式の石橋です。

全長6.0m、幅員6.7mで、手すり部分は両端に柱状の石を立て、3枚の厚い板石を並べています。

平成21年に選奨土木遺産に指定されました。

 

名前の由来は

昔、木橋が洪水で流出した。そこへ旅人が通りかかったが橋がなく川を渡れない。

困っていると、どこからともなく一匹の大蛇が現れ、川を横切り橋になってくれた。

旅人は喜んで杖をつきながら大蛇の背を渡っていった。

ところが誤って大蛇の片方の目を杖で突いてしまった。

大蛇は驚いてどこかへ姿を消してしまった。

それから、この辺に棲む蛇は全部片目になってしまったという。

(殿様が渡ったとする話もあります。)

 

蛇ヶ橋は平成26年の豪雨で被害に遭いましたが、改修工事が行われ平成27年10月に開通しました。

 

参考:山形県歴史の道調査報告書 米沢・板谷街道

 

2020.08.20:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

元中山 一字一石経塚

  • 元中山 一字一石経塚
  • 元中山 一字一石経塚
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一字一石経塚(きょうづか)※は元中山公民館西側に所在していました。

平成7年県道改良工事の際、地中に残存する経塚が発見され、調査後隣接地に移設・再埋納されました。

出土したのは経石のみで、その大半は扁平な自然石に1文字ずつ墨書されたものです。

 

経塚の経碑には寛延元戊辰宿十月吉祥日(1748)と刻まれています。

この経塚が建立された時代は、延享二年(1745)から4年間、東北一円が凶作にみまわれています。3年連続の凶作の秋を迎えた村民が経塚を建立し、翌年の豊作と生活の安定を祈願したと考えられます。

 

※経典を土中に埋葬し盛土をした塚。追善供養や現世利益などを目的に平安中期から近世にかけて造られました。

 

参考:南陽市遺跡分布調査報告書(1)

2020.08.19:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]