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道標

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釜渡戸にある道標(みちしるべ・どうひょう)です。

道標は道路の辻に建てられた交通標識です。

 

皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して建てられました。

「正面 元中山ヲ経テ中川駅ニ到ル 一里四粁」

「右 吉野村太郎ニ至ル・・・」

「左 金山村ヲ経テ宮内町ニ至ル・・・」と刻まれています。

 

その頃の釜渡戸地区を紹介している新聞記事(昭和16年3月9日朝日新聞)があります。

「三00町程の山林がある資産家は自分の山を売り貧農は伐採に働いてかなり豊かな暮らしをしている。隣の部落では女も農耕に従事して働くがこの部落では女などは働かせない。」

 

山林を持っている村が豊であった時代がありました。

 

参考:ふるさと中川

2020.09.16:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋学校碑パート2

  • 川樋学校碑パート2
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川樋公民館の東側、県道沿いにある明治15年(1882)に建てられた川樋学校碑です。

 

「遠望之巍然如王侯之居」

眺めが良く、(巍然)高くそびえ王侯の建物のようだと、学校を褒め称える文章や、

明治14年に行われた明治天皇東北御巡幸の様子などが、漢文で刻まれています。

 

この碑の題額※は皇族の有栖川宮熾仁(たるひと)親王殿下の御親筆です。

碑の右側に「陸軍大将兼左大臣二品大勛(勲のこと)位熾仁親王題額」と陰刻されています。

撰文は山形県一等教諭の肝月兼武氏で、書は明治の三筆と呼ばれた日下部東作氏、後の鳴鶴(めいかく)先生による大変貴重な文化財です。

 

熾仁親王殿下の御親筆による題額は、山形県内では山形市千歳山公園にある「物部守屋大連之顕彰碑」があります。米沢市松岬公園にある「従三位上杉曦山公之碑」の題字も親王の筆によるものです。

 

※題額(題字)は篆書体(てんしょたい)で書かれているため、篆額(てんがく)とも云います。

 

昭和50年代の子供達もさすがにこの碑で壁打ちはしませんでした。

 

参考:中川風土記(昭和38)、広報よねざわ

2020.09.10:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋学校碑パート1

  • 川樋学校碑パート1
  • 川樋学校碑パート1

明治6年(1873)中川小学校の前身となる川樋学校が創立されました。

当初は川樋の松林寺に設け、明治10年(1877)新たな土地(6軒の家が提供)に校舎を建築しました。

今はその跡地に川樋公民館が建てられています。

 

川樋公民館の敷地には明治10年に学校が落成した時の記念碑が残されています。

安山岩の2メートル余りの自然石に、上に「川樋学校碑表」と刻まれています。

「川樋村、新田村、小岩沢村、元中山村の人々相計り、お互いが力や財を出し合ってここに学校を建てた・・・」と漢文で刻まれています。

 

後年、有難みの分からない昭和50年代の子供達が壁打ちをして遊んでいたため、摩耗して判読できない箇所があります。

誠に申し訳ございません。

2020.09.09:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

巳待塔

  • 巳待塔
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小岩沢字静御前にあるお堂の参道に「巳待塔」(みまちとう)が建てられています。

碑の右側に寛政三辛亥(1791)と陰刻されています。

左側に「講中」と刻まれていることから、巳待講の講中によって造られた巳待供養塔です。

 

巳待講は日待講の一つで、以前紹介した川樋の金華山講も巳の日に行う巳待講です。

「梨郷村史」には「春・秋二回巳の日に講中の男衆が宿に集まり、蛇の掛図をかけ、灯明・だんごを供えて拝みあげ、終って一献酌みかわしたという。」と講の様子が記載されています。

 

養蚕が盛んな地域では蚕を食べる鼠避けとして、巳(蛇)が信仰の対象になりました。

中川地区には巳待塔が一基、金華山塔が四基建立されており、隣の中山地区には高さ3メートルを越える大きな巳待塔が建立されています。

(画像3・4枚目 中山白髭神社の西側)

 

参考:梨郷村史

2020.09.07:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

静御前

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  • 静御前

小岩沢地区には「静御前」とい珍しい字名があります。

吉田橋があるところです。

 

静御前は源平合戦で活躍した源義経の愛妾です。

文治元年(1185)義経は兄の頼朝に無断で、後白河法皇より任官されたことから追討を受け、弁慶ら従者と共に日本海北陸路から奥州平泉に逃げたとされています。

 

伝説では

義経の子を身ごもった静が義経の後を追いこの地まで来たが、急に産気づき旅の疲れもあり倒れてしまう。

そして子を産み落としたが、生まれた男の子は死産であった。

近くの鏡池で亡き我が子に産湯を使い、お寺に埋葬し、再び義経を追って旅立ったという。

 

静がこの地を去った後、夜になると赤ん坊の泣き声が聞こえるようになった。

村人は供養のため地蔵様を祀り、今も夜泣きを治してくれる地蔵様として信仰されている。

村人は静御前をあわれんで、地名を「静御前」と名付けたという。

 

参考:南陽市史 民俗編

 

 

2020.09.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]