山に宿り、山全体を支配する神が「山の神」とされています。
狩りや木こりなど山で仕事をする人達からは、守護神として畏敬されてきました。
また、山から流れてくる水をたより田畑を耕す農民も、水を司る神として敬われ、作神(さくがみ)として信仰されてきました。
山の神はいくつかの呼び名をもっていて、「十二様」とも「おさと様」とも呼ばれます。
呼び名と共に、山の神の性格も地域によって異なります。
参考:南陽市史民俗編
画像は新田地区の山神です。
この山神様にも木製の男根が奉納されています。
虚空蔵様(こくうぞうさま)の祠も中川の各地区に建立されています。
川樋だけでも私が分かるだけで、虚空蔵山、諏訪神社境内、北山にあり、鷹戸山の山頂の祠も虚空蔵様を祀っています。
画像1は川樋諏訪神社境内にある虚空蔵様の祠です。
手前に牛の置物があるのは、虚空蔵菩薩は丑年・寅年の守り本尊だからでしょうか?
画像2は北山の虚空蔵様です。
中川では江戸時代から養蚕が盛んに行われていました。
蚕は「運の虫」といわれ、気候の変動や桑葉の出来に大きく左右されました。
蚕神として地元では元中山と川樋の諏訪神社、初午の稲荷参りそして虚空蔵様や各家のオシラ様が信仰されました。
虚空蔵菩薩は知恵の菩薩とされていますが、白鷹山の虚空蔵尊の場合、江戸後期の養蚕興隆とともに蚕神として信仰を集めるようになりました。
川樋では会津の柳津(やないづ)虚空蔵様に代参を送っていました。
参考:南陽市史 民俗編・南陽市史編集資料第1号
画像は虚空蔵山館と頂上からの風景です。
天正最上の乱は、天正2年(1574)に起きた最上氏の内乱で、最上義守と嫡男の最上義光の争いです。
天正2年、義守が娘の夫である伊達輝宗に援軍を求め、義守・伊達勢と義光の間で戦いが行われました。
天正最上の乱について、当地に関する箇所を東置賜郡史より紹介します。
輝宗は舅義守の為めに兵を出し、天正二年二月末より八月迄、新宿※1・楢下等に於て戦ひ、互いに勝敗あった。新宿・楢下は当時駅伝を置かれて国道であった。中山道※2は間道であった。
最上義光の将上山満兼が、北条郷川樋を夜盗した。此時目々澤丹後、同肥前守が討死した。(中略)
新宿、高畠の人夫を以て新宿坂(按ずるに小湯より小岩澤に越ゆる山道ならん)の手入れをなし進軍の準備をした。
引用:東置賜郡史
なお、一部旧漢字を新字体に変更しています。
※1 高畠町二井宿のこと。
※2 現国道13号 川樋から元中山間は湿地帯のため、日影道が利用されていました。
川樋集落の西側に標高452mの虚空蔵山が、戦国時代に虚空蔵山館(こくうぞうやまだて)、別名:星見ケ城が築かれました。
山道の整備は行われていませんので、倒木と灌木等が生い茂り(画像2)、藪漕ぎをしないと進めません。
山頂にある主郭には土塁(画像3)が残り、背後には七重もの堀切(画像4)を有しています。
川樋の集落側だけでなく、金山方面からの進攻にも対応した防御性の高い山城です。
平穏な時は山麓に居を構えていました。
「根小屋」と呼ばれ、今も「根小屋」の地名は字名となって残っています。
参考:山形県中世城館遺跡調査報告書