願上書に対して、藩では両者より言い分をきいている。
延享元年(1744)三ヵ宿の言い分に道理があり、釜渡戸道は藪道(やぶみち)であり、商人荷附通す道筋ではないが、中山の産物や飯米は、御役屋で御判をうけて通ってもかまわないという釜渡戸道差留を下している。
しかし相変わらず釜渡戸道の商人荷通行は続いていたようであり、藪道通過の詫証文が残されています。
参考:南陽市史
画像は金山地区、原の釜渡戸道(県道238号原中川停車場線)です。
宮内から荷を出す場合、赤湯を経て米沢街道を通らずに、宮内から金山・釜渡戸を越えて中山へと行く道があり釜渡戸道と呼ばれていました。
米沢街道の赤湯・川樋・小岩沢の三つの宿駅を通らずに、次に宿駅の中山へ行くことができます。
三つの宿駅の駄賃を払う必要がないため、多くの荷がこの道を通りました。
(釜渡戸は中山村なので、新たな通行料を取ることは出来ませんでした。)
そのため、赤湯・川樋・小岩沢の三宿では、中山・宮内両村に対して「諸荷物釜渡戸通り附送り差留」についての願上書を差し出しました。
引用:南陽市史
画像1枚目は市道元中山中山線から釜渡戸道の入口です。右に曲がると(画像2枚目)花窪を通って釜渡戸に抜けます。
釜渡戸分校が在った場所の裏(字松ケ沢)から中山へ抜けたという話もあります。
街道沿いの村境にお地蔵様を建立することが多いことから、花窪地蔵堂(画像3枚目)のある花窪から釜渡戸へ通る道(県道238号原中川停車場線)が主に用いられたと考えられます。
米沢街道は鳥上坂を越えれば平坦な街道ですが、宿駅が多いので継立に時間を要し、経費も多くかかります。
米沢街道の脇街道として小滝街道※がありました。
この街道は山形領の南館より長谷堂・狸森・小滝・荻・金山・宮内を経て米沢街道の大橋で合流します。
この小滝街道は、米沢街道より遠回りになり、峠(標高356m)もあり冬の雪道は不便でしたが、宿駅が少ないために多くの物資が通りました。
また、最上側舟運の基地、山形の船町で揚げた上方物等を山野辺、長谷堂経由で輸送するのに便利でした。
そのため、米沢街道の各宿駅は荷が通らないため難渋し、最上から商人荷を小滝街道へ送らないよう、数々の運動を行いました。
しかし、実際には荷主は経費のかからない小滝街道を通って送ることを望んでおり、相当量の商人荷が小滝街道を通りました。
さらに、川樋、小岩沢の宿駅が難渋した原因は、小滝街道より釜渡戸藪道の存在でした。
参考:南陽市史・赤湯町史
※その時々に応じて長谷堂道・小白府道・宮内街道などと呼ばれていました。
画像は小滝地区の風景です。
1枚目は小滝峠に向かう八丁坂、2枚目は小滝明神桜、3枚目は街並みです。
宿駅を通過する際の駄賃やその他経費についての記事を紹介します。
まず荷物は37貫から40貫(1貫が3.75kgなので140~150kg)の荷を二つに分けて馬や牛の背の左右につけたらしく、それを一駄といいました。
また背負いの荷もありました。
たくさんの荷物を運ぶ時は宰領(さいりょう)がつき、人馬の監督や経費の勘定等を行っていました。
荷物は馬や牛の背につけられたままの形で宿駅を通過することがあり、これを「附通し」といい、通過料として一駄26文の「鞍下銭」を納めました。
また宿駅に一泊する場合には、泊り料は180文で藁代や飼料代は別にかかり、「庭銭」といって荷物の預り料も支払います。
他国(最上領など)から入ってくる物資には「御役銭」という関税とみられる税金がかかりました。
塩の場合、一斗につき約26文かかりました。
問屋職が預かる形で荷主から受取り、それを後で御番所に届けたようです。
参考:南陽市史・南陽市史編集資料第15号
江戸時代の物価と現代を単純に比べることはできませんが、そば1杯16文を立ち食いそば350円で計算すると、1文が約22円になります。
ただし、物価の基準を何にするかで大きく変ります。
画像は米沢街道沿いに建立された新田地区のお地蔵様です。
宿駅制度とは、街道沿いに宿場を設置し、荷物を継立て(バケツリレー方式)次の宿で送る輸送制度です。
宿場には輸送に必要な人馬を常設し、この費用は宿場の負担になります。
(馬代一疋二両の貸付金は4ヶ年年賦で取り立てられます。)
そのかわり、公用の仕事がない時には、お金を取って一般(商人荷)の仕事を受けることを許可され、下りが米、上りは塩、綿、海産物等が運ばれました。
しかし最上領への街道は米沢街道だけではありません。
公用の物資運搬がない他の街道と対立することになります。
画像は街道沿いに建立された石造物です。
1枚目は小岩沢のお地蔵様、2・3枚目は大洞道近くにある道六神様です。