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“御用新聞”のなれの果て…取材拒否に無抵抗な自殺行為!!??

  • “御用新聞”のなれの果て…取材拒否に無抵抗な自殺行為!!??

 

 「図書館の立地場所については様々な意見があり、微妙な問題が絡んでいる。一部の意見が突出して報道されると市民の誘導にもなりかねない」―。まるで、大本営発表の垂れ流しみたいな「日報論壇」(3月31日付当ブログ参照)のショックが冷めやらない中、今度は図書館問題をめぐって当局側が地元紙「岩手日報」に対して、冒頭のような理由をあげて「取材は遠慮してほしい」と要求。新聞社側もこれを唯々諾々と受け入れていたという信じられない出来事が明るみに出た。

 

 新花巻図書館の立地場所をめぐっては、市側が第1候補に挙げる「JR花巻駅前」と「旧花巻病院跡地」の二か所に集約されつつある。ことの発端は今年1月、病院跡地への立地を求める女性グル-プが「イ-ハト-ブ図書館をつくる会」を結成して、当局側に要望書を提出した際のこと。新聞社側が写真撮影などの現場取材を要求したが、当局側はこれを拒否し結局、1週間後に写真なしのベタ記事が申し訳程度に掲載されただけだった。当市を取材範囲に持つ花巻支局の山本直樹支局長は「支局日誌」(2月1日付)にこう書いている。「両案に賛同の声がある中で判断が求められるが、波及効果やまちづくりの方向性を明確に示し市民の納得を得たい」

 

 ならばこそ、事実上の“取材拒否”に断固として抗議すべきではなかったのか。同じ釜の飯を食った同業者としてとても残念な気持ちである。この一件をあえて取り上げようと思ったきっかけは、12年前の東日本大震災の際の“悪夢”がよみがえったからである。当時、議会傍聴に来ていた内陸避難者に対し、議員の一人が「さっさと帰れ」という暴言を浴びせるという“事件”が起きた。1年生議員だった私はその真偽を求めたが、逆に「でっち上げだ」として、懲戒処分を受ける憂き目にあった。その時の支局長は「直言」と題するコラムで私を面罵して、こう書いた。

 

 「(懲罰特別委の)8人の委員が文言の細かい仕上げに入ったが、議会事務局員も最大で4人が張り付いた。まさに膨大な労力。しかし、市民の生活には直接の関係はない。議会人は議会のル-ルに従い、無用な混乱は避けるべきだ。混乱で不幸になるのは市民。忘れないでほしい」(2011年12月3日付「岩手日報」)―。「言論の自由」を守るべきメディアがそれに背を向ける…“被告席”に祭り上げられたこの時の体験を私はトラウマのように引きずっている。古巣(朝日新聞)も含め、「言論の危機」が叫ばれて久しい。それを食い止めるのは現場記者である。現場取材が長かった私自身のこれが教訓である。奮起を切に望みたい。

 

 

 

 

(写真は岩手日報本社の建物。地元紙としての矜持を示してほしい=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~高校生の“使いまわし”に足元からも??

 

 新花巻図書館の立地場所に関連し、3月15日開催の花巻市社会教育委員会議の質疑の中で、高校生など若い世代の“駅前待望論”に疑義を呈する意見が出された。生涯学習のプロ集団から高校生の“使いまわし”に「??」が出されたことになり、今後の立地論争に一石を投じそうだ。以下はいずれも会議録からの抜粋(要旨)―

 

 「この資料等では若い人たちの意見が非常に駅がいいという。若い人たちの意見、それはそれで大事なんですが、今後進めていく中で、様々な地域に住む、列車利用じゃなくてね、できない、あらゆる年齢層の意見とか様々聞いて、検討なさっていただければ。車の運転が不安になったとき、立体駐車場に停めて駅の図書館を利用するの はいかがかなと」、「高校生とか呼んでですね、ワ-クショップやったりなんかするというようなことで、もうちょっと広い市民の意見を聞いていかないと。高校生であれば当たり前かなと感じもするわけです。もうちょっと市民の多くの年齢層から聞いて、どうすればいいのかということを、そろそろ集約していくっていう作業も必要なんだろうなと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報道の使命はいずこへ!?…“御用新聞”と化す地元紙~議会介入も何のその!!??

  • 報道の使命はいずこへ!?…“御用新聞”と化す地元紙~議会介入も何のその!!??

 

 「図書館建設/若者の声聞いて」―。31日付地元紙「岩手日報」の論壇の記事を見て腰を抜かした。現下の最大の市政課題である新花巻図書館の立地場所をめぐる内容(コメント欄掲載)で、投稿者は市側が進める「駅前立地」について、若者の希望が多いとして賛成する立場を主張。一方の「病院跡地」を望む声には「大人の価値観を押し付けてしまって良いわけがない」と手厳しい。賛否を戦わす「甲論乙駁」に異を唱えるつもりはさらさらない。いやむしろ、大いに結構なのだが、逆に私はこの投稿を掲載した地元紙の「報道の使命」について、ある種の怖気(おぞけ)を覚えた。

 

 「報道の使命は、真実を広く伝え、市民の知る権利に奉仕し、人権を尊重する自由で平和な社会の実現に貢献することである」―。新聞記者を生業にしてきた一人として、この心得は記憶の奥底にこびりついて離れない「澱」(おり)みたいなものである。前置きが長くなったが、私は昨年10月10日付で以下のような投稿をしたが、5カ月以上たった今も掲載されないまま「ボツ」になった状態になっている。二つの投稿を良く読み比べていただきたい。この拙文が果たして「大人の価値観の押し付け」なのかどうか…。それどころ、不採用の背後には「報道の使命」を放棄し、”大本営”と堕(だ)したメディアの退廃が透けて見えてくるではないか。

 

 もうひとつ…当該投稿の中に議会における議員の一般質問に不当に干渉する部分があった。これは議員の「質問権」いや、言論の自由を否定する暴論として看過できるものではない。投稿者だけではなく、採否を決める新聞社側の自堕落ぶりは目を覆うばかりである。まさに、“御用新聞”と化した地元紙の無残な姿がそこにある。この日の投稿の“捏造”ぶりについては別途、反論の形で同じコラムに投稿したいと思う。新聞社側がその採否をどう判断かということを含めて、今回の問題は「言論の自由」の根幹にかかわる重大事である。以下の投稿は「病院跡地」への立地を求める、私自身の率直な気持ちである(投稿時の原文に事実関係の訂正など一部加筆)

 

 

 

 

 目の前にこつ然と現れた広大な“空間”に身を置きながら、「図書館の立地はここしかないな」と直感した。花巻市は10月11日から27日まで市内17か所で新図書館の建設場所をめぐって、意見集約のための市民説明会を開催した。その第1候補に挙げられているのがJR花巻駅前のスポ-ツ店用地で、当局側はその取得に前向きな姿勢を見せている。

 

 こんな折しもかつて、花巻城跡に隣接した旧総合花巻病院の移転・新築に伴って、24棟を数えた病棟が解体された結果、私たちは約100年ぶりに由緒ある遺跡など城跡のおもかげに接するという幸運に恵まれた。晴れた日には高台の城跡から霊峰・早池峰など北上山地の雄大な姿を望むができる。当該地は郷土の詩人で童話作家、宮沢賢治の作品にも数多く登場し、たとえば『四又(よまた)の百合』に出てくる“ハ-ムキャの城”とはすぐに、花巻城跡と察しがつく。

 

 さらに、賢治が学んだ現花巻小学校と自らが教壇に立ち、“桑っこ大学”とも呼ばれた旧稗貫農学校に挟まれたロケ-ションはまさに「文教地区」にふさわしい立地条件と言える。現在「まなび学園」(生涯学習都市会館)として、市民に学びの場を提供している場所もこの地に隣接し、かつては賢治の妹トシが学んだ花巻高等女学校(県立花巻南高校の前身)の建物だった。これもまた、歴史の奇縁かもしれない。

 

 実は「図書館法」(昭和25年4月)の生みの親が当地ゆかりの「山室民子」だということは地元でも余り、知られていない。慈善団体「救世軍」の創設者・山室軍平の妻で、花巻の素封家に生まれた旧姓・佐藤機恵子が民子の母である。民子は図書館法を起案するに当たって、生涯教育の大切さを訴えた。

 

 1世紀という時空間をへて、今よみがえった「百年の記憶」と未来を見すえた「百年の計」と―。解体工事で全貌を現した「濁り堀」について、専門家グル-プは「一級品の貴重な遺構。現状保存が望ましい」と答申した。将来は原形を維持したまま、“歴史公園”として利活用できるのではないか。夢は広がるばかりである。いまこそ、山室民子の“遺訓”を生かすべき時ではないかと思う。花巻小学校とシニアが集う「まなび学園」の間にポッカリと浮かんだ空間。まさに、天啓(てんけい)とでも呼びたくなる、“生涯学習”の場にふさわしい環境ではないか。「天啓」とは「天(神)の啓示」を意味する言葉である。「魂の癒しの場」―。世界最古の図書館といわれるアレキサンドリア図書館(エジプト)のドアにはこう記されているという。

 

 

 

 

 

(写真は3月31日付「岩手日報」と同日付の論壇原稿)

 

 

 

《追記》~コメント欄に「図書館建設/若者の声聞いて」の論壇記事を全文掲載

 

大川小“津波裁判”と「雨ニモマケズ」…そして、「業の花びら」(賢治”新伝説”)

  • 大川小“津波裁判”と「雨ニモマケズ」…そして、「業の花びら」(賢治”新伝説”)

 

 東日本大震災(3・11)で児童74人(うち、行方不明4人)と教師10人の命が奪われた大川小学校(石巻市)の旧校舎はいま、震災遺構として現状保存されている。その山際に面した野外ステ-ジには「未来を拓く」(校歌のタイトル)というスロ-ガンを掲げた巨大な壁画が張りめぐらされ、一角には宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節や銀河鉄道が宇宙を飛ぶ光景が描かれている。震災10年前の「平成13年卒業制作」とある。詩の冒頭部分の「雨」と「風」は削り取られ、津波のすさまじさを伝えている。

 

 ドキュメンタリ-映画「生きる」(寺田和弘監督、2022年)は23人の遺族(19家族)が石巻市と宮城県を相手取った「国家賠償」訴訟の記録である。2019年10月、最高裁は上告を棄却し、学校側や市教委が避難訓練を怠るなどした「平時からの組織的過失」を認めた仙台高裁判決が確定した。「裁判史上、画期的」と言われた判決に感動を覚えつつ、私は壁画に刻まれた賢治の詩を複雑は思いで反芻(はんすう)していた。わが子の「生と死」の意味を問い続ける遺族たちに向けられる容赦のない誹謗中傷とバッシングの嵐…。スクリ-ンに見入りながら、「賢治」という“両刃の剣”(2月19日付当ブログ)の危うさを改めて思い知らされた気持ちになったのである。

 

 「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」―。「雨ニモマケズ」の後半部分にこんなくだりがある。裁判を担当した吉岡和弘弁護士はこの詩句について、パンフレットの中でこう語っている。「日本社会には今なお、『裁判などはしてはならない』という法意識が通奏低音のように国民の身体に染みついている。一方、我が国の行政組織内には『行政は誤りを犯さない。犯してはならない』という行政無謬性(むびゅうせい)論がはびこる。官側に立つ者らはそうした無言の圧力に押されるように『ミスは犯していない』と言い張り、『真実を知りたい』と願う遺族たちと衝突する」―

 

 「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」―。英訳もされた賢治のメッセ-ジは世界中に飛び交い、ボランティアの背中を押した。しかし、その「受難」の地では逆にこのメッセ-ジの危うさが醜い形で露呈していた。「(裁判は)金欲しさからだろう」「殺す」「火をつける」…「二度殺された思いになった」という遺族の言葉に身体が震えた。同じ画面では当時の市長が「これが自然災害における宿命だと思っております」とくどくどと弁明を繰り返していた。「賢治」の真意を自分に都合の良いようにねじ曲げたその卑劣さに怒りさえ覚えた。

 

 「夜の湿気と風がさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえている」(1924年10月5日)―。賢治の詩編に「業の花びら」と題した作品がある。底なしの沼に引き込まれるような闇の深さを感じる一篇である。映画「生きる」を鑑賞する2日前の今月24日、NHKBSスペシャルで「業の花びら~宮沢賢治 父と子の秘史」という番組が放映された。これまであまり表立って語られることがなかった賢治の「同性愛」や宗教的な葛藤に向き合った内容で、以前にも同じ視点で番組を制作したテレビディレクタ-の今野勉さんが手がけた。この作品で父親の政次郎は実は詩碑の文面を「雨ニモマケズ」ではなく、この「業の花びら」にしたかったという“秘話”を初めて知った。

 

 詩碑は私の自宅から歩いて数分の「旧羅須地人協会」跡地に建っている。映画鑑賞の数日後、私は詩碑の賢治に向かって報告した。「賢治さんはいまもあちこちでモテモテです。親子に焦点を当てた『銀河鉄道の父』という映画が製作されたり、果てはポストコロナの世のあり方の予言者であるとか…。でも、その神出鬼没ぶりに娑婆(しゃば)の人間は若干、翻弄(ほんろう)され気味でもあります。そんな時は『おら、そんなつもりじゃねがったすじゃ』」とサインを送ってくださいね」。そして、ハタと我に返った。「津波裁判の隠ぺい体質は賢治のふるさと・イーハトーブ花巻でもまったく、変わらない」と…

 

 

 

 

(写真は旧大川小学校の巨大壁画。「世界がぜんたい幸福にならないうちは…」という『農民芸術概論綱要』の一節やおなじみの賢治のシルエット姿も残っている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~賢治の”聖者伝説”にも時代の波か!?

 

 上記のテレビ番組を観ながら、不思議な感慨にとらわれた。たとえば、これまでタブ-視されてきた「同性愛」を扱ったこの番組に宮沢家の近親者や研究者が出演していたからである。LGBT(性的マイノリティ)に対する権利拡大が世界的な潮流になる中、賢治の”聖者伝説”もその時代の波に乗って、変化しつつあるということかもしれない。新しい伝説の誕生か…

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その6)~高校生がダメなら、今度はお化けとカラス!!??

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その6)~高校生がダメなら、今度はお化けとカラス!!??

 

 私事になるが23年前、42に年ぶりにふるさとに居を定めた際、「早池峰の見える場所」が最終的な決め手になったように今回、新花巻図書館の立地場所についてもその山容が姿を見せた瞬間、「ここしかないな」と思った。悠久の歴史をたたえるこの霊山こそが、我が生を支えてくれる源(みなもと)だというのが頑固なほどの私のこだわりだった。その“借景”が見事なまでの「(総合花巻)病院跡地」への立地をせせら笑う会話が聞こえてきた。

 

 「高校生の説明会の資料なんですけれど、病院跡地はお化けが出るので怖いというのが思いのほかあった。確か盛岡で中央病院が移転した時にその跡地を公園というか、山を作って東屋を作ってというふうになった頃に、あそこに夜に幽霊が出るという都市伝説のようなものが出たのをちょっと思い出したんですよ。なんかそういうのって、今の若い人達もあるんだなっていうのは思いました」―。2月16日開催の花巻市立図書館協議会の会議録の発言に一瞬、虚を突かれた。喫緊の図書館問題について、そのあるべき姿などの「理念」論争を期待していただけに肩透かしを食らった思いがしたのである。図書館司書の肩書を持つその女性はこんな発言もしていた。

 

 「(病院跡地に隣接する)まなび学園の近くに住んでいらっしゃる議員さんがおりまして、その方がカラスの問題について言っていたんです。『市役所のあの辺、カラスのフンの被害がすごい』―そういうことを聞きまして、初めてそういったことを聞いたので、そういった問題も含めて考えてもらえればなというのは思いました」(会議録から)―。まるで、井戸端会議のやり取りのような発言を読んでいるうちに、ちょうど3年前(2020年2月26日開催)の同協議会の光景を思い出した。上田東一市長自身がその後、白紙撤回することになる「住宅付き図書館」の駅前立地構想について、その時の協議会は「異議なし」で承認した。

 

 「新図書館構想に“お墨付き”を与えた組織の実態はまさに追認機関そのものだったことが白日の下にさらされた。逆に言えば、こうした“図書館人脈”のお墨付きをアリバイ的に利用しようという当局側の魂胆も浮き彫りになった。いまとなっては、最初から『異議なし』委員を選出していたのではと皮肉のひとつも言いたくなる」―当時の当ブログにはこんな記述が見える。現在、市側が第1候補に挙げるJR花巻駅前立地について、高校生などの賛成が多いというデ-タをめぐっては統計学的な根拠が薄い「恣意性」を指摘してきたが、今度は「お化けとカラス」の登場である。

 

 発言者の意図をあれこれ詮索(せんさく)したり、揚げ足を取るつもりはないが、結果として「病院跡地」へ負のイメ-ジを植え付けたのはまちがいない。「歴史と風土が一致した病院跡地に新図書館を」―という市民の声は日増しに強まっている。図書館の“本家筋”に当たる図書館協議会の面々には“都市伝説”にうつつを抜かすのではなく、本物の図書館論議に取り組んでほしいものである。背後にどす黒い利害関係が存在するのなら別だが、なぜこれほどまでに「駅前」立地にこだわり続けるのか―私にとってはもはや、ミステリ-以外の何物でもない。

 

 

 

 

(写真は白雪をいただいた霊峰・早池峰山。立春を迎えて黒い地肌も見え始めてきた。まなび学園からの遠望、手前が病院跡地=1月初旬の厳冬の雄姿)

 

 

 

「喪失」という物語…“大江”ショックその後~そして、袴田さんと大谷選手の”あきらめない”精神!?

  • 「喪失」という物語…“大江”ショックその後~そして、袴田さんと大谷選手の”あきらめない”精神!?

 

 青春のど真ん中で“大江文学”に遭遇した世代の一人である私はその突然の死(享年88歳)に、これまで経験したことのない「喪失感」を覚えた。5歳年上の大江健三郎さんが『飼育』(1958年、芥川賞受賞)で衝撃デビュ-した時、私は18歳だった。同じ年に刊行された『芽むしり仔(こ)撃ち』という奇妙なタイトルに魅かれて、とりこになった。それにしても、なぜだったのか。いずれも戦争を題材にした作品で、後者は太平洋戦争末期、感化院から山奥の村に強制疎開させられた少年たちの間に疫病が集団発生。村の入り口は封鎖され、少年たちはそこに取り残される…。まるで、コロナ禍を彷彿(ほうふつ)させる設定である。

 

 ひょっとしたら、“異”を排除する「社会的疎外」ということに敏感に反応したのかもしれない。私が4歳の時、父親は旧満州(中国東北部)に出征し、そのまま帰らぬ人となった。幼少時から青春時代までずっと、つきまとっていたある種の疎外の気持ちが作品の内容と重なったのだろうか。当時、私たち男兄弟3人と母親は父親が勤めていた盛岡の会社の社宅に住んでいた。敗戦からわずか4か月後、父親はシベリアの捕虜収容所で栄養失調死した。社宅を出ることになった私たち一家は花巻にある実家を頼って、転居した。「父(てて)無し子」という陰口がついて回るようになった。

 

 大江さんの訃報が遠い記憶を呼び戻したようだった。父親を戦地に見送った後、私は寂しさを紛らわせるため、社宅の近くの小学校の校庭にあった巨木たちを友だちにした。手を滑らせながら、てっぺんを目指した。背後には父親がスキ-に連れて行ってくれた岩山がそびえ、間近には天満宮の社(やしろ)が見えた。「通りゃんせ 通りゃんせ/ここはどこの 細道じゃ/天神さまの 細道じゃ」…。母親は夫の帰還を祈りながら、毎日のように神社通いを続けた。幼子の手を引きながら、いまは亡き母親はこの童謡を口ずさむのが常だった。

 

 喪失感が癒(い)えない今月中旬、憑(つ)かれたような気持で盛岡に向かった。あの巨木たちと再会したいと思ったのだった。社宅跡には新築の家が建ち並び、当時の面影はなかったが、まるでトグロをまいたような根を周囲にはわせ、その巨木たちは同じ姿でそこに立っていた。小学低学年の児童たちが競うように木登りに夢中になっていた。ハッとした。幼少時の自分がそこにいるではないか。錯覚にちがいないのに、そうではないと実感した。80年近くも前の記憶の光景が目の前に、そのまんま広がっていた。ホッとした。“再生”のシグナルをそこに感じたからかもしれない。

 

 「あんたは何となく、大江さんに似ているよね」―。訃報のあと、数人の知人からそんなことを言われた。実際、大江さんに間違えられたこともあるし、内心では自分でもそう思っていた。「大作家の薫陶(くんとう)を受けているうちに、顔かたちまで似てきたのか」とまんざらでもない思いで、鏡をのぞいてみる日々…。「そうか、いい年こいて反逆心が衰えないのは、大江さん譲りだったのかもしれないな」と妙に納得しているうちに「喪失感」もだんだん、薄らいできた。4年前、妻と死別したやもめ暮らしはもうちょっとだけ、生き延びたいと思っている。

 

 

 

 

(写真は昔と変わらぬ巨木によじ登る児童たち。私はその光景に「自分」の再生を見た思いがした=3月15日午後、盛岡市天神町で)

 

 

 

 

《追記ー1》~あきらめてはいけない。「袴田」事件で特別抗告を断念

 

 57年前の1966年に静岡県のみそ製造会社の専務一家4人が殺害された事件で、東京高検は20日、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌さん(87)=釈放=の再審開始を認めた13日の東京高裁決定について、最高裁への特別抗告を断念すると発表した。

 

 再審開始が確定することになり、袴田さんは今後、静岡地裁で開かれる再審公判で無罪となる公算が大きい。死刑囚が再審で無罪になるのは、80年代の免田、財田川(さいたがわ)、松山、島田の4事件以来、30年以上ぶり5例目。特別抗告は高裁の判断に憲法違反や判例違反がある場合に限られ、検察側は「特別抗告できる理由がない」と判断したとみられる。特別抗告の期限が20日だった(20日付「朝日新聞」電子版、要旨)

 

 <注>~「特別抗告断念」を伝えるNHKニュースを見ながら、私はその光景に心が震えた。検察側の抗告断念に感謝の意を口にするのは実は弁護士にとっては”禁句”のはずである。にもかかわらず、その喜びを涙まじりに言葉にするその姿に私は司法の良心の一端を垣間見たような気がする。袴田さんと弁護士は「決してあきらめてはならない」というメッセージを国民に送ったのだ、とー

 

 

《追記―2》~「カモン!カモン!カモン!」…大谷翔平の“魂の雄叫び”

 

 「もう本当に何回かチ-ム全体で折れかけていたと思うんですけど、絶対に諦めないという気持ちで、最後までつないでああいう結果になった。本当にみんな素晴らしかった」―WBCの対メキシコ戦最終回(21日)、奇跡の逆転劇のきっかけを作り、最終の対米国戦(22日)で世界王者のMVPに輝いた大谷選手の雄叫び。そして、決勝戦を前にした円陣では後世に残る名言も…「憧れるのはやめましょう。(米国には)野球をやっていれば、誰しもが聞いたことがあるような選手たちがいるけど、憧れてしまったら越えられない。勝つことだけを考えていきましょう」。母校の花巻東高校がある「イ-ハト-ブはなまき」(賢治の理想郷)もこの「あきらめない」精神と決然たる覚悟に学ばなければなるまい。いまや、崖っぷちに立たされた理想郷の”再生”のためにも…