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夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その6)~高校生がダメなら、今度はお化けとカラス!!??

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その6)~高校生がダメなら、今度はお化けとカラス!!??

 

 私事になるが23年前、42に年ぶりにふるさとに居を定めた際、「早池峰の見える場所」が最終的な決め手になったように今回、新花巻図書館の立地場所についてもその山容が姿を見せた瞬間、「ここしかないな」と思った。悠久の歴史をたたえるこの霊山こそが、我が生を支えてくれる源(みなもと)だというのが頑固なほどの私のこだわりだった。その“借景”が見事なまでの「(総合花巻)病院跡地」への立地をせせら笑う会話が聞こえてきた。

 

 「高校生の説明会の資料なんですけれど、病院跡地はお化けが出るので怖いというのが思いのほかあった。確か盛岡で中央病院が移転した時にその跡地を公園というか、山を作って東屋を作ってというふうになった頃に、あそこに夜に幽霊が出るという都市伝説のようなものが出たのをちょっと思い出したんですよ。なんかそういうのって、今の若い人達もあるんだなっていうのは思いました」―。2月16日開催の花巻市立図書館協議会の会議録の発言に一瞬、虚を突かれた。喫緊の図書館問題について、そのあるべき姿などの「理念」論争を期待していただけに肩透かしを食らった思いがしたのである。図書館司書の肩書を持つその女性はこんな発言もしていた。

 

 「(病院跡地に隣接する)まなび学園の近くに住んでいらっしゃる議員さんがおりまして、その方がカラスの問題について言っていたんです。『市役所のあの辺、カラスのフンの被害がすごい』―そういうことを聞きまして、初めてそういったことを聞いたので、そういった問題も含めて考えてもらえればなというのは思いました」(会議録から)―。まるで、井戸端会議のやり取りのような発言を読んでいるうちに、ちょうど3年前(2020年2月26日開催)の同協議会の光景を思い出した。上田東一市長自身がその後、白紙撤回することになる「住宅付き図書館」の駅前立地構想について、その時の協議会は「異議なし」で承認した。

 

 「新図書館構想に“お墨付き”を与えた組織の実態はまさに追認機関そのものだったことが白日の下にさらされた。逆に言えば、こうした“図書館人脈”のお墨付きをアリバイ的に利用しようという当局側の魂胆も浮き彫りになった。いまとなっては、最初から『異議なし』委員を選出していたのではと皮肉のひとつも言いたくなる」―当時の当ブログにはこんな記述が見える。現在、市側が第1候補に挙げるJR花巻駅前立地について、高校生などの賛成が多いというデ-タをめぐっては統計学的な根拠が薄い「恣意性」を指摘してきたが、今度は「お化けとカラス」の登場である。

 

 発言者の意図をあれこれ詮索(せんさく)したり、揚げ足を取るつもりはないが、結果として「病院跡地」へ負のイメ-ジを植え付けたのはまちがいない。「歴史と風土が一致した病院跡地に新図書館を」―という市民の声は日増しに強まっている。図書館の“本家筋”に当たる図書館協議会の面々には“都市伝説”にうつつを抜かすのではなく、本物の図書館論議に取り組んでほしいものである。背後にどす黒い利害関係が存在するのなら別だが、なぜこれほどまでに「駅前」立地にこだわり続けるのか―私にとってはもはや、ミステリ-以外の何物でもない。

 

 

 

 

(写真は白雪をいただいた霊峰・早池峰山。立春を迎えて黒い地肌も見え始めてきた。まなび学園からの遠望、手前が病院跡地=1月初旬の厳冬の雄姿)

 

 

 

「喪失」という物語…“大江”ショックその後~そして、袴田さんと大谷選手の”あきらめない”精神!?

  • 「喪失」という物語…“大江”ショックその後~そして、袴田さんと大谷選手の”あきらめない”精神!?

 

 青春のど真ん中で“大江文学”に遭遇した世代の一人である私はその突然の死(享年88歳)に、これまで経験したことのない「喪失感」を覚えた。5歳年上の大江健三郎さんが『飼育』(1958年、芥川賞受賞)で衝撃デビュ-した時、私は18歳だった。同じ年に刊行された『芽むしり仔(こ)撃ち』という奇妙なタイトルに魅かれて、とりこになった。それにしても、なぜだったのか。いずれも戦争を題材にした作品で、後者は太平洋戦争末期、感化院から山奥の村に強制疎開させられた少年たちの間に疫病が集団発生。村の入り口は封鎖され、少年たちはそこに取り残される…。まるで、コロナ禍を彷彿(ほうふつ)させる設定である。

 

 ひょっとしたら、“異”を排除する「社会的疎外」ということに敏感に反応したのかもしれない。私が4歳の時、父親は旧満州(中国東北部)に出征し、そのまま帰らぬ人となった。幼少時から青春時代までずっと、つきまとっていたある種の疎外の気持ちが作品の内容と重なったのだろうか。当時、私たち男兄弟3人と母親は父親が勤めていた盛岡の会社の社宅に住んでいた。敗戦からわずか4か月後、父親はシベリアの捕虜収容所で栄養失調死した。社宅を出ることになった私たち一家は花巻にある実家を頼って、転居した。「父(てて)無し子」という陰口がついて回るようになった。

 

 大江さんの訃報が遠い記憶を呼び戻したようだった。父親を戦地に見送った後、私は寂しさを紛らわせるため、社宅の近くの小学校の校庭にあった巨木たちを友だちにした。手を滑らせながら、てっぺんを目指した。背後には父親がスキ-に連れて行ってくれた岩山がそびえ、間近には天満宮の社(やしろ)が見えた。「通りゃんせ 通りゃんせ/ここはどこの 細道じゃ/天神さまの 細道じゃ」…。母親は夫の帰還を祈りながら、毎日のように神社通いを続けた。幼子の手を引きながら、いまは亡き母親はこの童謡を口ずさむのが常だった。

 

 喪失感が癒(い)えない今月中旬、憑(つ)かれたような気持で盛岡に向かった。あの巨木たちと再会したいと思ったのだった。社宅跡には新築の家が建ち並び、当時の面影はなかったが、まるでトグロをまいたような根を周囲にはわせ、その巨木たちは同じ姿でそこに立っていた。小学低学年の児童たちが競うように木登りに夢中になっていた。ハッとした。幼少時の自分がそこにいるではないか。錯覚にちがいないのに、そうではないと実感した。80年近くも前の記憶の光景が目の前に、そのまんま広がっていた。ホッとした。“再生”のシグナルをそこに感じたからかもしれない。

 

 「あんたは何となく、大江さんに似ているよね」―。訃報のあと、数人の知人からそんなことを言われた。実際、大江さんに間違えられたこともあるし、内心では自分でもそう思っていた。「大作家の薫陶(くんとう)を受けているうちに、顔かたちまで似てきたのか」とまんざらでもない思いで、鏡をのぞいてみる日々…。「そうか、いい年こいて反逆心が衰えないのは、大江さん譲りだったのかもしれないな」と妙に納得しているうちに「喪失感」もだんだん、薄らいできた。4年前、妻と死別したやもめ暮らしはもうちょっとだけ、生き延びたいと思っている。

 

 

 

 

(写真は昔と変わらぬ巨木によじ登る児童たち。私はその光景に「自分」の再生を見た思いがした=3月15日午後、盛岡市天神町で)

 

 

 

 

《追記ー1》~あきらめてはいけない。「袴田」事件で特別抗告を断念

 

 57年前の1966年に静岡県のみそ製造会社の専務一家4人が殺害された事件で、東京高検は20日、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌さん(87)=釈放=の再審開始を認めた13日の東京高裁決定について、最高裁への特別抗告を断念すると発表した。

 

 再審開始が確定することになり、袴田さんは今後、静岡地裁で開かれる再審公判で無罪となる公算が大きい。死刑囚が再審で無罪になるのは、80年代の免田、財田川(さいたがわ)、松山、島田の4事件以来、30年以上ぶり5例目。特別抗告は高裁の判断に憲法違反や判例違反がある場合に限られ、検察側は「特別抗告できる理由がない」と判断したとみられる。特別抗告の期限が20日だった(20日付「朝日新聞」電子版、要旨)

 

 <注>~「特別抗告断念」を伝えるNHKニュースを見ながら、私はその光景に心が震えた。検察側の抗告断念に感謝の意を口にするのは実は弁護士にとっては”禁句”のはずである。にもかかわらず、その喜びを涙まじりに言葉にするその姿に私は司法の良心の一端を垣間見たような気がする。袴田さんと弁護士は「決してあきらめてはならない」というメッセージを国民に送ったのだ、とー

 

 

《追記―2》~「カモン!カモン!カモン!」…大谷翔平の“魂の雄叫び”

 

 「もう本当に何回かチ-ム全体で折れかけていたと思うんですけど、絶対に諦めないという気持ちで、最後までつないでああいう結果になった。本当にみんな素晴らしかった」―WBCの対メキシコ戦最終回(21日)、奇跡の逆転劇のきっかけを作り、最終の対米国戦(22日)で世界王者のMVPに輝いた大谷選手の雄叫び。そして、決勝戦を前にした円陣では後世に残る名言も…「憧れるのはやめましょう。(米国には)野球をやっていれば、誰しもが聞いたことがあるような選手たちがいるけど、憧れてしまったら越えられない。勝つことだけを考えていきましょう」。母校の花巻東高校がある「イ-ハト-ブはなまき」(賢治の理想郷)もこの「あきらめない」精神と決然たる覚悟に学ばなければなるまい。いまや、崖っぷちに立たされた理想郷の”再生”のためにも…


 


 

議会が市民に背を向けた日…「活性化」陳情が一転、否決へ~”死亡宣告”!!??

  • 議会が市民に背を向けた日…「活性化」陳情が一転、否決へ~”死亡宣告”!!??

 

 つい4日前の花巻市議会議会運営委員会(佐藤峰樹委員長ら8人)で採択された「議会活性化」を求める陳情(3月13日付当ブログ参照)が16日開催の3月定例会最終日で一転して否決された。「数の論理」から見れば、この結果は当然予想されたことではあったが、その強引な手法の背後に議員としての使命を放棄した「資質の劣化」を見せつけられた思いがした。単なる陳情の否決という手続きを超えたその光景は互いに監視し合うという「二元代表制」を自ら葬り去った“死亡宣告”の瞬間でもあった。

 

 たとえば、喫緊の懸案である新花巻図書館について、私は陳情の中でこう主張した。「図書館の立地場所については市側が第一候補地に挙げている駅前のJR用地に対し、旧花巻病院跡地を希望する市民が日を追うごとに増え続け、過日の議会報告会でもそのことが示された。さらにこの二つの案件に関し、市側はそれぞれが別々の構想であると主張する一方で、議会側の一般質問では実はワンセットではないかという”疑念“が浮上するなど市民の間に混乱を生じさせている。市民の正常な判断を促すためにも『二元代表制』の一方を担う議会側に対し、可及的すみやかに議員相互間の議論を尽くすことを求めるものである」

 

 「図書館については過去の『新花巻図書館整備特別委員会』の場において、全議員が参加する形で議論が尽くされ、市有地への立地などの提言がなされている。市側もこの提言をきちんと受け止め、今後の方向性もはっきり示している。自由討議の必要性ない」―。滔々と反対討論を述べる及川恒雄議員(明和会)の顔を私はあっけにとられた気持ちで見つめていた。当時まだ、議員職にないこの人がなぜ、図書館特別委の経過説明に立たなければならないのか。反対討論を展開するのなら、当時その任にあった現職議員が当たるのが最低限のルールではないのか。余りにも市民をバカにした振る舞いではないないか。

 

 及川議員ら8人は昨年夏の市議選で当選した新人議員。図書館特別委はそれ以前の令和2(2020)年の12月定例会をもって解散、すでに2年以上が経過している。当選以降、図書館問題を一般質問で取り上げた新人議員はたった一人で、及川議員に至っては今回の3月定例会で初めて登壇し、その際もこの一件に言及はなかった。新人議員ならなおさらのこと、図書館特別委の存続を望むのが普通の感覚ではないのか。「見てきたようなウソをつき」…これではまるで、詐欺師の口上ではないかとざわッととした。

 

 一方、図書館に関連して提出されていた「新花巻図書館整備事業の所管事務調査を求める」陳情について、所管の文教福祉常任委員会(照井省三委員長ら8人)は及川議員と同じ理由で「その必要はない」という報告をした。実は当該陳情については所管委員会の審査の段階でも不採択になった経緯がある。この日の質疑で照井委員長が今後の調査に含みを持たせる発言をしたため、「採択することによって、逆に図書館本体の進捗に支障が出る」というこれまた、訳の分からない理由でいったんは不採択に同意した共産党市議団もこの日の採決では採択に回った。

 

 いずれにせよ、“密室”でのこの迷走ぶりを理解できる市民はほとんどおるまいと思う。ことはいとも単純である。この陳情に賛成討論をした伊藤盛幸議員(はなまき市民クラブ)の次の発言を全議員は肝に銘じるべきであろう。「このような陳情が議会に出されたということ自体について、議会も議員も反省すべきではないか」。そしてまた、「おまかせ民主主義」のツケもブーメランのようにはね返ってくるということを我われ市民の側も学ばなけれなならない。二つの陳情に対するこの日の賛否(議長を除く)は反対14VS賛成11。以下に会派別の内訳を記す。

 

 

反対(不採択)~明和会(8人)、社民クラブ(3人)、無会派(公明党、2人)、無会派(無所属、1人)

 

賛成(採択)~はなまき市民クラブ(7人)、日本共産党花巻市議団議員団(3人)、無会派(無所属、1人)

 

 

 

 

(写真は議会”改革”を求める陳情2件が否決された議会の光景。起立しているのが賛成議員=3月16日、花巻市議会議場で。インタ-ネットによる議会中継の画面から)

 

薄氷の採択…崖っぷちの花巻市議会~「議会活性化」陳情と二つの”護憲”

  • 薄氷の採択…崖っぷちの花巻市議会~「議会活性化」陳情と二つの”護憲”

 

 「不採択にする理由が見当たらない」―。花巻市議会3月定例会に提出していた「議会の活性化」を求める陳情(2月9日付当ブログに陳情書の全文)の審査が13日開会の議会運営委委員会(佐藤峰樹委員長ら8人)で行われ、賛成4VS反対3の僅差で採択された。参考人として出席した私はむしろ、不採択を主張した委員が3人もいたことに当議会の機能不全ぶりを見た思いがした。迷走を続ける新花巻図書館やJR花巻駅橋上化(東西自由通路)などの懸案について、合意形成に向けて議員間で討議を尽くすべきではないか―「花巻市議会基本条例」(2010年6月制定)に規定する「自由討議による合意形成」(第16条)を求める陳情趣旨の冒頭、私は条例の前文をあえて引用した。

 

 「地方分権の時代にあって、自治体の自主的な意思決定と責任の範囲が拡大した今日、議会の果たすべき役割は確実に増してきており、自治体政策を審議する場合において、その論点、争点を市民に明らかにし、持てる権能を十分に駆使し、議決機関としての責務を果たさなければならない。このような使命を達成するため、議会は主権者である市民の代表機関であることを常に自覚し、市民との関係、市長その他の執行機関との関係、議会の活動原則及び議員の活動原則等を定め、市民の信託に全力で応えていくことを決意し、議会の最高規範としてこの条例を制定する」

 

 これに対し、たとえば新図書館問題については「全議員で組織した『新花巻図書館整備特別委員会』で議論を尽くしたと思っている。この時点で合意形成はできているのではないか」(高橋修議員、明和会)などと不採択の理由を述べた。一方当時、特別委員会の委員長だった伊藤盛幸議員(はなまき市民クラブ)はこう反論した。「当委員会は2年以上も前に解散され、その後、立地場所の有力候補地として花巻病院跡地が浮上するなど立地環境が一変した。市側が第1候補に挙げるJR花巻駅前の土地譲渡交渉も遅々として進まず、市民の間には先行きに不安を訴える声も大きい。だからこそ、条例の理念にのっとり、問題点を整理して市民に示すのが議会の責務ではないか」

 

 「議会基本条例」は議会側が自らを律するために自らが定めた「最高規範」―言ってみれば「憲法」にも相当する。その憲法第99条は議員も含めたすべての公務員に対して「遵守義務」を課している。そもそも、「お願いですから、その“憲法”を守ってください」という陳情を出させる側の倒錯ぶりにこそ、仰天すべきである。市長与党を自認する「明和会」(自民党系、8人)は最初から「員数外」としても、”護憲”政党・社民党傘下の「社民クラブ」(3人)がその戦列に名を連ねていることは、“イ-ハト-ブ”議会の七不思議のひとつとして記憶にとどめておきたい。なお、同会派に籍を置く照井省三議員は上田東一市長の後援会事務局長の肩書を持っているが、そのことを恬(てん)として恥じる気配は全く感じられない。

 

 以下に今回の陳情審査の賛否者(委員長を除く)の氏名を記す(敬称略)

 

不採択者~高橋修、横田忍(明和会)、若柳良明(社民クラブ)

採択者~伊藤盛幸、佐藤現、羽山るみ子(はなまき市民クラブ、7人)、櫻井肇(日本共産党花巻市議会議員団、3人)

 

 

 

(写真は4人の挙手で陳情が辛うじて採択された瞬間=3月13日午後、花巻市議会委員会室で)

 

 

 

《追記》~”護憲”作家の大江健三郎さんが死去

 

 ノ-ベル文学賞を受賞した作家で、護憲の立場から言論活動を展開した大江健三郎さんが3日未明、老衰のため死去した。88歳。講談社が13日午後、発表した。同社によると、大江さんは愛媛県生まれ。1958年、23歳のときに「飼育」で芥川賞を受賞するなど数々の文学賞を受賞し、94年にはノ-ベル文学賞を受賞した。68年の川端康成に次いで日本人として2人目だった。2004年には「九条の会」、福島第一原発事故後には脱原発を訴える「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人の一人となり、集会やデモなどで活動してきた(13日付「東京新聞」デジタル版)

 

 

東日本大震災から12年…「その後」のいま、被災者は~そして、私のこと

  • 東日本大震災から12年…「その後」のいま、被災者は~そして、私のこと

 

 東日本大震災から12年(13回忌)のこの日、私は83歳の誕生日を迎えた。「3・11」というこの日付の符合が単なる偶然ではなく、「忘れるな」という“必然”の理(ことわり)のような気がする。私たち有志は震災直後に支援組織「ぼくらの復興支援―ゆいっこ花巻」を立ち上げた。その設立趣旨書はこう結ばれている。「何をやるべきか、何をやらなければならないか。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。試されているのは私たち自身の側なのです」

 

 午後2時46分―。花巻市内の妙円寺では12年前のこの時刻に合わせ、被災者や支援者が鐘を突きながら、手を合わせた。福島第一原発に近接する南相馬市小高地区から移住した泉田ユキイさん(79)の姿もあった。「愛犬のコロを残したまま、避難してきたことが悔やまれて…。で、避難が一時解除された約1か月後に連れ帰った。放射能まみれの体に熱湯をかけて洗い流したけど、1年後に死んでしまった」―。12年前の会話が昨日のことのようによみがえった。「白骨化した牛の死骸、骨と皮になってヨロヨロとさ迷う牛の群れ、餓死した犬や猫…。置き去りにされた犬同士が産み落とした子犬は人間という存在さえ知らないらしいの。原発事故は許せないけど、人間の業(ごう)みたいなものも感じてしまって…」

 「震災その後」はある意味で、記憶の風化との抗(あらが)いの時空である。「『あの日』に何があったかも大切かもしれないけれど、『その後』どうしていくかが文学的には大切だろうと思っていた。大事なのは戦争文学ではなく戦後文学、震災文学ではなく震災後文学であろうと」(3月10日付「朝日新聞」木村朗子・津田塾大教授)―。12年の節目を前にして、今年の芥川賞受賞作『荒地の家族』(佐藤厚志著)とベルリン国際映画祭に参加して注目されたアニメ映画『すずめの戸締り』(新海誠監督)と向き合った。「『その後』に終わりはない。それは永遠に続く」というメッセ-ジに深く納得した。

 

 私の身辺の「その後」にも当然ながら、色んなことがあった。妻と死別し、多くの友人・知人に別れを告げた。そして、母親と妻、一人娘を津波に奪われ、行方不明のままだった大槌町の知人、白銀照男さん(享年73歳)が3人の”帰還”を待ちくたびれたかのようにして、昨年12月21日に旅立った。さらに、この日の震災追悼式の祭主を務めるはずだった同寺の住職、林正文さん(享年87歳)も先月15日、鬼籍の人となった。生々流転(せいせいるてん)…。月並みながら、こんな言葉が去来する。「3・11」が巡りくるたびに私はそっと、「死その後」ものぞいてみたくなる。そして、思う。「そこにはきっと、再生の光も見えるはずだ」―と

 

 

 

 

(写真は梵鐘を突く泉田さん=3月11日午後、花巻市愛宕町の妙円寺境内で)