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イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その9

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 川西町大字上小松字殿原を過ぎるとあら町に入る。この場所、昭和42年8月の羽越水害の記録写真が丸太写真館さんから町の公民館に寄贈されている、ちょうど丸太写真館さんの前から殿原方向を撮ったもの、丸太写真館さんの向かい側はアサヒビールの看板と娘(嵐山酒造の花娘)の文字、そして信平商店の文字が読み取れる、信平商店の看板は下ろされているが、建物は当時のままのようです。

 看板の先、今は道路になっているが、古いほうは萱屋根のいさばやさんだったと思います。この前を通るとプーーンとさきいか等のにおいがしたものです。バードは向こう側から手前側に通ってきたのかな。

 ここを過ぎると嵐山酒造があり、あと少しで宿泊した西永十さんになります。しかし、昭和42年(1967年)ころまでは、まだたくさん萱屋根の民家があったのに驚きます。なぜか萱屋根はほっとします。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その8

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 清水屋食料品店前から殿原地区を撮影。バードはここを奥に進む。

 右手の看板に新川商店(酒販売)の文字が見える左の中間赤い自販機のあるところは斎食料品で通称『斎さん』と呼んでいた。昭和の30年代後半から40年年代中頃は日本の高度成長のころ、日に日に暮らしが良くなり、活気に満ちていた。商店も徒歩圏内にたくさんあった。斎さんの前の細い私道の3軒目がもと実家のあったところで中学3年まで住んでいた、斎さんは小遣い1日10円でほぼ毎日くじ(1回5円)やメンコ、アイスキャンディ(5円)などかっていたのを思い出す。昭和40年ころか?実家に写真があった。小学生から中学までたしか5分刈りでまん丸頭が嫌いだった。

 高校になるとその反動で長髪になったけど、それにしても雪の量がすごい。昔は屋根から落とした雪は除雪しないので山のようになっていた。

 古い写真の奥が斎食料品。今でもさいさんは元気でいるようだ。

 左の萱家がサニー美容室、右が床屋さんと八百屋さんであった。水害のあった昭和42年前で萱家がほとんどだった頃である。新川という川がありよくざっことりして遊んだものだ、みちがゆるいS字でいい感じだ。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その7

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 昭和54年正月実家に帰省したとき、実家の前で撮った写真(1枚目)がある。

 現在(2枚目)奥の篠沢畳店、その手前の家は同じだが、他はみな建て替えられている。この年も正月はそんなに雪はなかった。

 今年(2016年)は2月というのに3月末程度の雪である。バードは夏の暑い日この道を向こう側に進む。篠沢畳店からS字にカーブしている。昔はもっと道幅が狭かったという。

 篠沢畳店、二大角お茶店、斬新自転車、清水屋商店(3枚目の写真)となる。その向かいは栄屋そば店で幼少時遊び友達とかがいた、思い出の場所である。

 父と母が結婚し、はじめに住んだ間借りの家で、兄と私が生まれ、弟が生まれた年(自分4歳)のときに殿原に自宅を構え引っ越している。昭和29年両親が結婚して初めに住んだ家の前で母とおばあちゃんが記念撮影している(4枚目)隣の女の子は近所の子のようだ。奥は斬新自転車屋さんになるが、昭和レトロを感じる。

 水害でところどころはがれているが良く残った写真である。この自転車さんの左が清水屋商店で近くに清水がありました。昔水道が無かった時代、昭和30年前まではみなここで家事仕事して井戸端会議でにぎわっていたのである。

 昭和42年水害前まで清水は残っていて、タニシとかいろんな生き物がいて、蛍も近所で見えたが、この羽越水害以降清水は無くなり、川も拡張されコンクリートブロックとなり蛍も見られなくなったのである。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その6

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 宮町に入り本間畳屋さんあたりから右手に伊達家原田氏の居城が見える。バードが通った時代はこのあたり民家はなく、良く見えるのだが、現在は民家が多く道路からは見えないので、実家の2階窓からのぞいてみる。写真の奥が大手南側(ライブスペースJamさん側)写真右が西で本丸(川西温泉『まどか』側、お稲荷さんのある後ろに御神木があり実家の2階窓からみるとゴジラの親子にみえる。写真左が東で二の丸に当たる。

 最後の城主、原田左馬介宗時は地域おこし協力隊のメンバーゆるきゃらで登場?してるようです。文禄2年(1593年)7月伊達家臣団の一人として朝鮮半島の釜山へ渡ったが、病で対馬にて没。二代後にあたる原田甲斐宗輔は仙台藩伊達家の家老となり、1970年のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』の主人公となってます。

 宮町を通ると原田城の東の守り殿原になる(地名は原田家臣がいたことに由来すると思います)この殿原には中学3年まで住んでいて、原田城は近くの同級生タッカ、タッケ、アッキ、自分ヤッツなどといつもの遊び場でした。母の甥っ子僕らが生まれた昭和30年頃には既に高校生でその頃から写真が好きで当時珍しく公園の記録写真があった。水害でほとんど写真がくっつき、破けて残っていない。

 置賜の昭和(写真アルバム)に原田城東側二の丸から殿原地区が見える写真があったので投稿。バード゙は殿原を通りあら町から坂の上地区に進みます。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その5

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 バードは、宮町に入っていく。この宮町の通りに自分の現在の実家がある。昭和42年8月末に羽越を襲った大水害。宮町はくぼんでいる通りで低いため、小松の町中でも一番甚大な被害を受けた。

 当時小学5年、この時は隣の殿原というところに住んでいたが、本当に恐怖であった。この宮町から殿原そしてあら町、坂ノ上を通りその坂ノ上の西永十に宿泊している。因みに、坂の上は水が上がっていないのである。ゆるいが高くなっている。

 丸太写真館さんがこの水害のときの町の様子を写真に収めている。そこと同じ現在の写真。水害前まではほんとに茅葺屋根が多かったんだと感じる。バードが通過したころはまだ民家は少ないが、こんな萱屋根が連なるとおりだったと思いをはせる。この水害を境に高度成長ともあわせ萱屋根民家は一斉に姿を消した。右の茅葺民家は当時と同じのようだ。