山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館館報「うきたむ」第58号に
岩部山三十三観音が掲載されました。
公民館にも1部置いてあります。興味のある方はぜひご覧ください。
元中山永雲寺にある戒壇石(かいだんせき)です。
戒壇石とは寺院の門前に建てられている銘文のある石碑のことで、「結界石(けっかいせき)」ともいいます。
画像の戒壇石には「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と彫られています。
銘文の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気のある野菜やトウガラシなどの刺激の強いもの、肉を含めた食物を指しています。
庶民が葷酒を寺内(戒壇)に持ち込むのを禁じていることを示しています。
僧侶は飲酒しないということではなく、「飲酒した結果、過ちを犯すことが悪い」と解釈されており、般若湯をたしなむのは皆さんご存じのとおりです。
参考:日本石仏事典 庚申懇話会編
元中山永雲寺の参道に画像1の石柱が建っています。
上に「奉納」、右から「西國」「秩父」「坂東」、下に「供養塔」と彫られています。
側面には「文化四卯歳」(1807)の文字が見られ。この頃には東北からも全国各地の三十三所観音霊場へ巡礼へ出かけていたようです。
観音信仰は現世の人間を救済し、安穏(あんおん)な来世を願う信仰として大いに普及しました。
観音様は三十三身に変化(へんげ)して民衆を救うといわれ、三十三観音巡礼が行われるようになりました。
この巡礼は西国三十三所※をはじめに、江戸時代には坂東・秩父・江戸・洛陽(京都)など全国に開設されました。
当置賜地方にも置賜三十三観音があります。
画像3は元中山地区の花窪にある松尾神社参道沿いにある「巡礼供養塔」です。
正面に「西国三十三所」、左側面に「寛延四」(1751)と銘があります。
参考:南陽市史
※岩部山三十三観音は西国三十三観音を勧請しました。
元中山字日影にある金峯山永雲寺で曹洞宗のお寺です。
(画像は以前、撮影したものです)
延宝年間(1673~1681)、盛室泉朗大和尚が龍雲寺※末として釜渡戸に創立した寺と伝えられています。
正徳元年(1711)火災に遭い、宝暦年間(1751~1764)になって元中山に移転したと赤湯町史・東置賜郡史に記載されていますが、享保二年(1717)の絵地図「掛石中山一村」には日影の地に永雲寺が記載されています。
江戸時代は寺請制度なので、建物再建はともかく、菩提寺として過去帳や寺請証文作成は行っていたと考えられます。
安永八年(1779)に同寺八世中興開山機秀林全大和尚の上棟法要執行の棟札が残されています。
本堂の隣には子易観音堂があり子易観音菩薩が祀られ、地区外からも参拝に来られます。
参考:赤湯町史・ふるさと中川
※上山市中山にあるお寺です。
江戸時代、元中山は龍雲寺がある中山村に属していました。
元中山公民館から日影へ行く道の右側の山(字北ノ沢)にある、高さ235cmの大きな庚申塔です。
正面右側に「享保二」(1717)と刻銘があり、今から300年前に建てられました。
中央に弥陀三尊の種子(しゅじ)※があり、その下に「青面金剛(しょうめんこんごう)」と刻まれています。青面金剛は庚申の本尊になります。
2年後の享保4年、同じ元中山地区の花窪にも「青面金剛」と刻銘された庚申塔が建てられました。(画像3)
庚申講が盛んに行われていたことが分かります。
中川地区内の庚申塔について、次回の公民館だより12月1日号で紹介できるようにまとめています。
※梵字(ぼんじ)のことで、それぞれ阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩をあらわしています。
参考:日本石仏事典 庚申懇話会編