川樋地区に兀(ハゲ)のつく字名が「兀山」「大兀」「小兀」と3つあります。
いずれも急傾斜地に付けられた地名です。
画像は字「兀山」で宮内秋葉山の中川地区側の光景です。
地すべりによって地面が露出していることから名付けられました。
ハゲの字ですが、禿だと禿(ツブレ)百姓を連想させ縁起が悪いことから、兀の字を当てたと考えられます。
元中山地区の地名が出て来る最も古い文書は、天文22年(1553)の伊達晴宗采地下賜録です。
「やしろ中山のうち、一、たい(代)の在け 一、うきめん三千かり 一、ひかけ(日影)在け (中略) をのをのかをん(各々加恩)としてくたしおき(下し置き)候所不可有相違也 あハのゑもん(粟野右衛門)」
この伊達文書から、粟野右衛門は「屋代中山の内、代在家※1と浮免※2三千刈※3と日影在家」を下賜されたことが分かります。
なお、伊達領下の時代、「村」にあたるのものが「在家」「由緒」になります。明治2年に分村するまで元中山は中山村に入っていました。
さて、日影(ヒカゲ)の地名については、山に囲まれ山の影になる地形から付けられたと考えられます。
小岩沢地区にある字、日向(ヒナタ)は南向きの場所で、沢を挟んだ北向きの場所は影沢(カゲサワ)です。
続いて代(ダイ)ですが、ダイ(代=台)とすると、前川による河岸段丘の平らな場所(台地)をさす、地形に因む地名のようです。
※1 百姓の小集団のことで、在家がいくつか集って村になる
置賜で在家がつく地名は慶長年間以前に開墾された場所
※2 面積だけ決めて、場所を特定しない非課税の田地
※3 約3町歩
参考資料 山形県史資料編15上、南陽市史
山形県の地名研究 長井政太郎著
奈良時代に「畿内七道諸国郡郷の名、好字を付けよ」と勅令が出ました。
そこで、地名に漢字を当てる際は好字(良い意味の字)を用いることになりました。
例えば、芦(アシ)は悪しに通じるので、葦(ヨシ)にして「吉」の字を当て、吉野・吉原といった地名になりました。
また、芳を使った芳ケ沢(ヨシガサワ)の字名が釜渡戸にあります。
中川地区の字名に「小屋」「高野」があります。
コヤは荒野の新開地のことで、江戸時代の新開地「新田」より古い言葉になります。
荒野の字に別の漢字が当てられました。
(庄内地方では興屋の字が使われます。)
画像1は以前セブンイレブンがあった字「鹿間小屋」です。
画像2はファミリーマートがある字「高野」です。
どちらも集落に近い下流側の傾斜地なので、水を得やすい場所から開墾されたのでしょう。
参考:山形県の地名研究 長井政太郎著
地名のなぞを探る~やまがた~ 木村正太郎著
中川地区の川樋(カワトイ・カワドイ)という地名の由来となった場所を紹介します。
河樋とも書き、戦国期から使われていた地名です。
赤湯町史によれば「河を越す樋から起こったものであろう」と記載されています。
川樋字清水尻(川樋の下(しも))の田(画像1)は諏訪神社の不老泉を利用していましたが、干害に遭いやすい地域ですので、雨が降らないと下流の田に水が流れません。
また干害の年は前川の水も干上がりました。
そこで利用したのが大洞の山崎山に湧く山崎の泉でした。(画像2)
JRの山崎踏切の近くにあります。
前川(画像3)の上に樋(画像4)を渡して、山崎の泉から清水尻の田に水を流して水不足に対応していました。
なお、護岸工事や土地改良工事で地形は名付けられた当時と大きく変っています。
地名は元々、話し言葉で後から漢字がつけられました。
柳田國男氏の「地名と歴史」に「奥羽各地で家々に近い物洗場または水飲み場をカワド・カードという・・」と記載があります。
川樋集落には諏訪神社の不老泉や虚空蔵山麓の寺清水などがありました。
カワドがあった地域に、特徴的な「川」を越す「樋」が出来たことから「川樋」という漢字の地名になったと推測します。