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地名考 天矢場

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川樋地区の字天矢場(テンヤバ・テンニャバ)です。

 

天矢場は一般国道13号上山バイパス改築事業に伴い、山形県埋蔵文化財センターによる天矢場遺跡の発掘調査が行われたことがあります。

調査報告書に

「天矢場遺跡を含む周辺には縄文時代の中期~晩期にかけての集落跡が存在していたものと考えられ、陥穴や石鏃から天矢場遺跡は当時の狩猟場の一部であったと推測される。」

と記載されています。

 

天矢場を通る通称日影道の近くには昔、秋になると鳥を捕獲するための霞網が仕掛けられていました。(現在は違法で、所持することも違反です。)

それだけ野鳥が集まる場所だったようです。

 

天矢場の地名の由来は鳥獣を捕獲するため、矢を射たところから名付けられたと考えます。

 

引用文献:天矢場遺跡発掘調査報告書  山形県埋蔵文化財センター調査報告書第174集

     平成21年 財団法人 山形県埋蔵文化財センター

参考文献:中川風土記

 

2022.03.19:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川小唄の作詞者

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中川小唄の原作の作詞者は小関仁四郎先生です。

小関仁四郎先生は明治32年東置賜郡伊佐沢村※に生まれ、大正15年から昭和6年3月まで中川尋常高等小学校に勤務していました。

当時の卒業アルバムがありましたので紹介します。

 

中川小唄の原作の歌詞は小関先生が、中川村の様子や風景を織り交ぜて作られたようです。

当時の資料がなく、現在の歌詞とは少し違うといわれています。

 

また、小関先生は岩部山三十三観音について、昭和5年に「北山観世音由来」という冊子を書き著しました。

現在、中川公民館で保管している「北山観世音由来」は手書きの文章をコピーしたもので、判読できない箇所が多数あります。

原本をお持ちの方がいれば、中川公民館までご連絡願います。

 

※現長井市 

 当時、伊佐沢村は東置賜郡に属していました。昭和23年4月1日に所属郡が西置賜郡に変更されました。

 

参考:中川小唄について 後藤嘉一著(元館長代理)

2022.03.18:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

消防組

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春は火災が発生しやすい時季です。

火の取扱いにはご注意願います。

 

法被には「中川村消防組第三分団」の文字が見えます。

(ポンプ庫は現南陽市消防団第八分団第一部第三班)

 

明治27年2月9日勅命第十五号をもって「消防組規則」ついで、同年5月2日県令「消防組規則施行細則」が交付され、全国の消防団体は統一されることになりました。

その後、昭和14年に「警防団」となり、昭和22年に「消防団」となりました。

 

古い写真をよく見ると、ご存命(90歳過ぎ)の方がいらっしゃいます

 

参考:南陽市史下巻

 

2022.03.15:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

昭和9年

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古い画像は旧国道13号(現一般県道南陽川西線)のバイパス工事の様子です。

 

昭和9年(1934)東北地方を冷害が襲いました。

昭和5年以来の恐慌と6~7年の凶作の中で、農産物は下落し農村は極度に疲弊していました。

そこに追い打ちをかけるように冷害に見舞われ、山形県では平年作の約半分強の収穫しかありませんでした。

当時、中川村の農地は他市町村の大地主(不在地主)所有が多く、3分の2が小作地でした。

大凶作にもかかわらず、自家飯米も顧みず、小作料を現物で納入したため困窮を極めました。

 

国は被害農家を救済するため各地で土木事業を行い、農民に現金収入の途を与えました。

中川地区内では、国道鳥上坂の切り下げ工事、川樋から中川駅裏を通るバイパス新設、花窪坂の切り下げ工事などが行われました。

賃金は60銭内外で希望者が多く、未明から起きて現場で待っていたといいます。

 

参考:南陽市史下巻、中川風土記

2022.03.12:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

地名考 大貝

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  • 地名考 大貝

元中山地区の字大貝(オオガイ)です。

上山市中山地区と隣接し、中山から釜渡戸を経由し宮内へ至る宮内道が通ります。

 

カイ(貝)は峡谷(峡:カイ)や崖地、また開墾地(開:カイ)をいう場合があります。

大貝は山と山に囲まれていますが、大きい(深い)峡谷ではありません。山麓の傾斜地に水田や畑が広がる場所ですので、開墾地の意で名付けられたと考えられます。

 

1595年頃の邑鑑によれば、中山村(元中山含む)は戸数72、人口434、村高1700石でした。

江戸時代、中山村では開墾が進められ、文政10年(1827)村目録では戸数199、人口979、村高2927石と大きく発展しました。

大貝もその開墾地の一つと考えられます。

 

参考:地名のなぞを探る~やまがた~ 木村正太郎著

   南陽市史中巻

2022.03.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]