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元中山 花窪地蔵堂

  • 元中山 花窪地蔵堂
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中川地区ではかつての村境(村の出入り口)に地蔵尊が祀られています。

極楽浄土への先導仏として、また子育てなど身近な仏様として、地蔵信仰が盛んだったことが分かります。

 

元中山地区の花窪集落の釜渡戸口にも地蔵堂があり、近くには講中碑も複数建てられています。

庚申塔三基・青面金剛塔一基、湯殿山碑、金華山碑、子待(ねまち)塔があるので、それぞれ庚申講、三山参り、金華山講(巳待講)、子待講(甲子待講)が行われていたことが伺い知れます。

 

参考:ふるさと中川「信仰と講中」佐藤鎭雄 記

 

かつて中川中学校の体育授業で「今日はロードレース」と言われれば、この花窪地蔵堂が折り返し地点でした。

この地蔵堂を見るたび登坂を走った辛さを思い出します。

2020.07.21:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

小岩沢子易観世音菩薩

  • 小岩沢子易観世音菩薩
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小岩沢公民館から2~3km程の所に、二井宿に越える山道がある。この山道は600mの急な山を通らなければならない。又この道は二井宿を経て七ヶ宿・奥州街道に通じる近道でもある。この道筋に戦後二井宿村の開拓地(青井流あおいながし)があったが、開拓者がこの山道を通り、中川駅から山形・米沢方面に買い物などに出かけた生活道路でもあった。

 

この山裾に大きな岩があり、その岩陰に石造りのお堂が建っている。両側には灯篭が二基建っていて、石畳の参道になっている。

 

伝説では、この地を通りかかった安然大師※一行の中にいた長者の妻が急に産気づいた。安然大師は騒ぎを静め、岩の上に座り経文を唱えると、無事子供を産み落とす事が出来た。長者は大師の徳をたたえて勧請したのがこの子易観音であると伝えられている。

 

※平安前期の僧 入寂の地は諸説あり、その一つが高畠町時沢

 

引用:ふるさと中川「子易観音菩薩」小松久一郎 記

 

2020.07.20:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

酬恩碑

  • 酬恩碑
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  • 酬恩碑
  • 酬恩碑

酬恩碑は寺子屋の師匠の遺徳をたたえて筆子たちが建てたものです。

北条郷(南陽市)では江戸時代寛政期(1789~1801)頃から寺子屋が各地に出来ました。

 

中川地区でも舟山吉左エ門、北条智学の私塾があり、子弟の教育に従事していました。

北条智学は法印で、川樋学校が創立されると訓導として教育に務めました。

(法印については後日紹介します)

 

画像1・2・3枚目は川樋諏訪神社の境内に建てられた酬恩碑です。

左側面に「一村中」、右側面には「明治十八年」(1885)と刻まれているようです。

明治18年ですと中川村が出来る前なので、川樋村で建てたと思われます。

 

画像4・5枚目は小岩沢地区にある酬恩碑で明治二十七年(1894)に建てられました。

正面に「境清和君 境徳泰君 酬學」と彫られています。

 

参考:南陽市史

2020.07.20:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

金華山講(巳待講)

  • 金華山講(巳待講)
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  • 金華山講(巳待講)
  • 金華山講(巳待講)

川樋諏訪神社の鳥居をくぐると右側に池があり、池の中に祠があります。

弁財天(弁天様)を祀っています。

 

また参道と境内には金華山の石碑が三基建立されています。

巳(み)の日に行う弁財天を本尊とする金華山講で巳待(みまち)講とも云います。

 

南陽市史民俗編には川樋で行われていた講の様子が記されています。

 

講が開かれるのは、稲刈りが済んだ頃の巳の日で、講元の佐竹を招いて開かれる。

当日は午後3時頃まで講中の男衆が宿に集まる。

まず祭壇がつくられる。正面に本尊が祀られ、その前に灯明・お神酒・いり豆をつけた団子が供えられる。

一同揃って拝みあげの後、会食する。賄いは精進料理で、酒は二級酒※二升と決めている。

年一回、金華山から佐竹宛にお札が届くので、それを三組に分け、それから各戸に配られる。

 

宮城県石巻市にある金華山は江戸時代(神仏習合の時代)まで、弁財天を祀っていました。

 

引用:南陽市史 民俗編

 

※平成4年まで日本酒には級別制度があり、酒の味は二級酒で覚えました。

2020.07.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

供養塔

  • 供養塔
  • 供養塔

川樋諏訪神社の拝殿に向って右側に供養塔が建立されています。

正面に「南無観世音菩薩」と陰刻され、右側面に「延享三丙寅(1746)八月十八日」、左側面に「講人衆廿六人」と刻まれています。

 

今野竹蔵氏によれば

「神社裏にあった鉱山の事故で亡くなった人々を供養したものであろうか。」

と推測しています。

 

大洞金山は寛永十九年(1642)に廃抗となりましたが、寛政四年(1792)の「樹蓄建議」に川樋村の鉱山について、

「川樋村の内、千枚、二十枚、北ノ沢、山居沢、処沢、各金山也」

と記されていますので、場所を変え鉱山は続いていたことを示しています。

(この頃は川樋村の中に新田も入っています)

 

諏訪神社の西側にある鉱山は、戦前まで掘られていて、残土で社殿前を平らにしました。

廃抗後、鉱山跡地は川樋の子供達にとって水晶取りのメッカとなりました。

 

左側面に「講人衆」と刻まれていることから、観音講※の石碑とも考えられます。

 

※観音講は定例の集りをもち御詠歌を奉詠する講で、札所観音巡りを行うこともあります。

延享の時代ですと岩部山三十三観音はありませんが、置賜三十三所や最上三十三所巡りが行われていました。

 

参考:今野竹蔵著「北条郷鉱山史話」・南陽市史 民俗編

2020.07.16:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]