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太神宮

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寛政七年(1795)、米沢藩は「四民之衰御取直しの一助」として、「伊勢参宮・湯殿山参り・其外似寄(により)候類」を「五ケ年御停止」としました。

藩はそれからも5年毎に、廃藩になるまで停止令を出し続けました。

天保三年(1832)、藩は次のような命令を発しています。

 

「去年六月に、伊勢参宮・柳津虚空蔵・湯殿山参詣を始め、他国への神社仏閣への参加寄附など五ケ年停止としたのに、町家・在々・諸問屋ではその命令を一切用いず、すでに当春は参宮人が大勢、群をなして出掛けている由、誠に不届である。」

 

すなわち、藩の禁令にもかかわらず、庶民は伊勢参りなどに「大勢、群をなして」出かけていました。

それほど、人生1度の大旅行は魅力的であったことが伺えます。

 

画像1枚目は釜渡戸にある太神宮(だいじんぐう)の碑です。

旧中川小学校釜渡戸分校の跡地にあります。

画像2枚目は川樋上地蔵の隣にあります。

3枚目は裏面を見ると

嘉永二酉(1849)十月吉日

伊勢講

と彫られ、下側に講中の者と思われる名前が20名近く刻まれています。

 

戦後になると、高い山とか花見の折に一定金額を貯金する貯金講の側面を持つようになりました。

 

「太神宮」の碑は伊勢講中によって全国各地に建立されました。

「天照皇太神」「大神宮」等とも刻されます。

 

参考:南陽市史

2020.12.25:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

六面幢

  • 六面幢
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地蔵信仰が広まると六地蔵を、石幢の各面に彫り出した六面幢(ろくめんどう)が

造られるようになりました。

 

六地蔵とは、地蔵様が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、六体の

分身を祀ったものです。

 

中川地区では小岩沢福昌寺(画像1枚目)の他にも、新田(画像2枚目)、川樋

松林寺観音堂(画像3枚目)、釜渡戸赤坂(画像4枚目)に建立されています。

2020.12.22:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

三界萬霊等

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この世の生きとし生けるもの全ての霊(萬霊)を供養する目的で建てられた供養塔です。

 

三界(さんがい)について補足すると、

生まれかわり、死にかわりする世を大きく三つに分けた世界の事です。

欲界(欲の世界)、色界(色を有する世界)、無世界(精神の世界)

 

中川地区では小岩沢の福昌寺(画像1枚目)、川樋の松林寺(画像2枚目)に

建立されています。

また元中山の経塚にある塔(画像3枚目)にも「三界萬霊等」の銘文が

彫られています。

 

参考:日本石仏事典 庚申懇話会編

 

 

2020.12.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

小岩沢 福昌寺

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小岩沢の福昌寺は曹洞宗のお寺で、正保四年(1647)十月十三日に遷化した

古潤守泉禅師の開山と伝えられています。

明治二十九年(1896)に現在の南沢山に移転しています。

境内にはお稲荷様が祀られています。その奥にはお地蔵様や六面幢、三界萬霊等

が建立されています。

(六面幢、三界萬霊等については後日、紹介します)

 

本堂の左側には小岩沢子易観音の本尊も祀られています。

出産前に子易観音に奉納されている小さな枕を1個拝借し、出産後には新しい枕を

添えて2個返納します。

来週(今週になってしまいました)も無事出産をされた方がお礼に来られるとお話

されていました。

 

小岩沢大堂の子易観音にお越しの際は、福昌寺のご本尊もご参拝いただきたいと

思います。

 

参考:赤湯町史、南陽市史 民俗編

2020.12.15:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋土地改良

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川樋の市道川樋東線と県道の丁字路近くに「川樋土地改良記念碑」が建てられています。

 

川樋土地改良史より引用

 

昭和四十七年十一月九日の山新記事より

湿田の悩み消える

南陽市川樋 土地改良四年ぶり完成

 南陽市川樋土地改良区(理事長 遠藤繁雄氏)の水田土地改良事業は一億八千万円を投じて、このほど四年ぶりに完成この喜びを後代に伝えるため、記念碑を建立十三日午前十時から除幕式竝竣工式典を行なう。

 同地区の水田二十ヘクタールは泥炭層の湿田で耕運機すらはいる事が出来ず、おびただしく作業能率を低下させていた。しかも夏季には、干ばつの常習地帯で十アール七俵から七俵半程度。このため四十三年から大がかりな改良事業を起こし、まず水不足解消には山の沢を利用し六万五千トンの大貯水池を完成。ほ場は用排水路を分離した区画整理を行ない幅員六メートルの幹線農道を縦横に切った。

 これによって湿田は乾田となり、トラクター、バインダーなど大型農業機械もどしどしはいれるようになり、作業能率は格段に向上した。また貯水池は昼夜続行二十日間にわたって放水能力があるほか、用水路には三基の反復揚水機をすえつけ、いったん下流に落ちた水を再び上流に押し上げて再利用する方法がとられている。工事費のうち六割が受益者負担で、十アール当り七千円ずつを年賦償還するがこれによって十アール二俵の増収となるほか、労力の節減が大きい。

 

この土地改良事業は、米の生産調整が始まった時期に行われたので、完成までには色々な出来事があったようです。

 

2020.09.25:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]