HOME > 我が師 松山俊太郎さんのこと

松山さんのこと

その当時、新宿のデング蚊で有名になった御苑、明治通りがあり、御苑に向かって左側に緑苑街という飲屋街があった頃、
松山さんと勉強会の後、ゴールデン街の後行ったり、
”ジャム”に寄った後行ったりしてた。
そこには”ナナ”という私の友人の女の子がやってた”ひとあり”という店があり、
そこにはナナの仕事仲間のファッション関係の卵達が集まっていたりしてた。
栗山氏とそこへ飲みに行ったとき、ここは玄関なので後で奥に入ろうといって1時間半くらい飲んでたら、”そろそろ、由利ちゃん奥へ入ろうか”と栗山氏が言ったので
”いや、ここが店でここしかないんだよ”
栗山氏はその店の小ささにびっくり。
そこから御苑街に入ると片側は紫色のライトがついてる
一間だけの店がずっと並んでた。おかまさんの店もあったが、
かなり怪しげだが顔なじみになってたこっちには誘いはなかった。

その反対側には”のら”や”西武門”そこを出たところに
”うらく”という店があり、うらくの店のママも美人だったが
そこは新左翼系らしく、自由法曹団の弁護士や学生がいたりとか。
例によって松山先生の”ぶどう狩り”
そのママさんも慣れたもので、サッとよけてぶどう狩りさせず、
(ぶどう狩りとは、松山さんが一瞬女性のおっぱいに触れたことを、ぶどうを狩ったといって、ワンワンといって犬のおまわりさんの唄と歌うこと)
店の女の子たちも一瞬のことといっても”松山さん駄目!”
とか”ワンワンさんたら”って言って、油断はしてない。
(つづく)

松山さんのこと

その当時、ブルース・リーの映画が大ヒットしてたが、私と松山さんはブルース・リーの妹役で出てた、アンジェラ・マオのファンで,後援会を作った。二人だけで、名誉会長と会長。そのあと何本かもアンジェラ・マオの映画もきたりしたが、栗山氏が香港に映画つくりに行くというのでアンジェラ・マオを使えと言ったらギャラが高くてだめということで残念。
12chで世界のプロレスというのをやってて、チーフ・ジェー・ストロンボーというインディアンレスラーが出てきて、彼はやられてもやられても立ち上がってインディアンステップを踏むと相手のレスラーは戦意喪失しちゃう。
そぼチーフ・ジェー・ストロンボーのファンクラブも2人でつくり、名誉会長と会長をやってた。
その頃舞踏にかかわっていた松山さんは、新聞のインタビューに、いや舞踏の原型はチーフ・ジェー・ストロンボーのステップだといった話をしたとのことで。
新聞にもそうでてて、2人で大笑いしました。

松山さんのこと

松山さんが下北沢に引っ越した当時は、まだ本多劇場もなく、怪しげな店もいっぱいありました。本多劇場(今もあるの?)の向かい側、その頃は本多劇場はなかったが「杏」という小奇麗なスナックがありました。綺麗なママさんがいて、若い女性がいて感じのいい店で、松山さんの住んでたところから1分ほどのところでした。勉強会の帰りに一緒にそこで飲んで、私一人が弟子、師と1対1のウパニシャド状態だったが、時々ゲスト弟子として、アブや栗山を。アブというのは武者小路実篤の孫で、先年亡くなった篤信、栗山は松竹の釣りバカ日誌の栗山富夫氏。下北の初めのころは清や中尾ちゃんも来てた。怪しげなバーは、ちゃんと優良の店という看板があり、入るとカウンター、奥にボックス、料金同じだからボックスへどうぞと言われ、料金同じならカウンターでいいよ、とカウンター。
その店の隣のスナックへ行ったとき、その優良の店へ行った2人が6万請求され、スナックに金貸してくれと言ってきて(数年前の常連)、貸す意味も判らず断り、それでも優良の店に交渉に行ってやって3万円にまけてもらったそうだった。もう一軒松山さんとよく行ってた店は二人で行きいつも1万円の店。国産のウォッカなんだけど、35~6年前の話だから安くはなかったんだろう。

松山さんのこと

その三田の家を売ったということで、ボストンバッグに現金(札束)を入れ、「由利ちゃん、飲み屋に借金払いに行くから一緒に行ってくれ」と言われ、2人で飲み屋をはしごして歩いたけど、どこでも「ワンワンさんのは○○さんが払っていったからないよ」と断られ、いき込んでいった割には札束は全然使わず、いつも私が払ってる飲み代は松山さんが払ってくれた。
そして松山さんは下北沢へ移ったのだ。

松山さんのこと

松山さんが三田に住んでて、それは自宅で松山医院だった所。その医院跡も本だらけになり、初めは1階、そして2階と本が増えていき、本の間から、きのこがはえてきたなんていって私にも見せてくれた。
3階にはおじさん(お母さんの弟さん)が住んでいて、そうしないと松山さんが勝手にやるのか、親父さんの借金だったかな、そんなトラブルの回避の為におじさんが、ドクター森田さんが住んでいたのだった。そこだけは松山さんの本も置かないという約束になっていたらしく、珍しく本はなかった。
そこで初期のインド哲学をシノハラと2人で習ったのだった。私達の前の時間にはラング氏もサンスクリットを習いに来てたのでした。