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我が師 松山俊太郎5

松山さんの家計は
加賀藩の御典医として、
次の人は俳人で、又次の人は御典医と、
そして俳人と続くそうだ。

松山さんの両親も医者で
母方のおじさんも有名な医者でした。

松山さんは昔愛国少年だったので、
鬼畜米英が本土に来たら
缶爆弾でやっつけてやろう
というので作ったが、来た人は
いい人達だったので、雷管を
はずすつもりが失敗して
自分の左手と右手の親指がふっとんでしまった。

それでも東大の空手部の三段だ。
(東大というより明治大に修行してたとのことだ)

そんな松山さんが
大好きでいつも一緒に
連れ立って飲んだものだ。

そしていつも酔うと二人で
ロリンの157(?)とスピリタス
(97度のウォッカ)のどっちが
うまいかといいあらそいになる。

もちろんロリンコは松山さん、私はスピリタス。

我が師 松山俊太郎4

相変わらず松山さんとこへは
一人だけの弟子として
一の橋、下北沢、そして野沢へと通った。

師一人、弟子一人、
ウパニシャドの世界だった。

野沢へ移ってから
一人の友人を連れていき、
その彼は、
英語、フランス語、ドイツ語も出来る。

渥美半島の生んだ秀才と
言われた奴で、それで私も
サンスクリットを習えるようになったのだ。

サンスクリットは完成されたという
意味のある言語で男性名詞、女性名詞、
中性名詞とあり、単数、両数、複数を
(両数とは2、耳、目、腕、足、車等々)
3以上が複数でそれに格が8つあり、
一つの言葉に24の変化があるという言語です。

さらに、語句の語尾と次の語句の語頭が
あわさって変化をするので、詩の場合など、
切れ目が判らず困ってしまう。

いやそのように読む人間が判断に
悩む方が良い詩だなんてこともあるそうだ。

ともかく松山さんは
そのサンスクリット、
梵文の碩学の人なのです。

我が師 松山俊太郎3

そのうち年月が
経ち
私が連れていった
人間も何人が変わり、
結局最後は私一人。

その当時は
松山さんが原稿を
書いている内容を
講義されたり・・・

ある日、
私はこの京都の
佛教大学という
通信教育の大学に
入ってみようかと思ってるんだけど、
と相談したら、
ゆりちゃんおもしろいからやってみたら、
僕も佛敎のこと学びたいと
おっしゃってくれ
佛教大学の3年に編入し、
加行課程もとりました。

加行というのを「かぎょう」と読み、
いや「けぎょう」というのです、
という位だったが、
夏には「スクーリング」もあり、
2年間京都に通い、
松山さんも稲垣足穂との
対談があるといい
そのついでと京都まで来てくれた。

我が師 松山俊太郎2

その当時、
松山先生は
麻布一の橋に住んでて
六本木から歩いて、
週に一回通ったのだった。

あまりにその
インド哲学の話が素晴らしく、
おもしろく、
私と篠原と2人だけで
聞くのはもったいないと思い、
我々の後で話を聞いてるやつが
いてもいいだろう、
飲み友達2人を誘った。

篠原は俺とお前と松山さんの
三人の関係が
大事なのに由利はわかってないと抜けた。

私は松山さんに申しわけありませんでした
と詫びたが、松山さんは
篠原は唐さんとこで
逢うからいいよと言ってくれた。

我が師 松山俊太郎1

私にとって
師匠といおう先生と
いうのはただ一人しかいず、
梵文学者の松山俊太郎です。

出会いといえば38、9年前のことで、
年月は覚えてないが、
出会いは新宿のジャムという店だった。

その日、暗黒舞踏系の
玉野黄市の舞踏を見に行き、
会場で着流しで前の座席に
足をあげて観てると人がいて、
まあ、それはそれを見て
ジャムに行ったら
友の篠原勝之がいて今、玉野黄市の
公演をみてきたといったら、
チケットあったからいえば
あげたのにといわれ、
いや見たいのは
金だしてみるよといい、
そこへさっきのおじさんが入ってきて
私と喧嘩になりそうになり、
篠原がとめ、いや由利この人は
サンスクリットの学者で
松山さんというのだと紹介され、
私はすぐ手の平返しで
サンスクリットを教えて下さいと頼み、
松山さんに
英語かフランス語かドイツ語か
日本語位出来なきゃ駄目と言われ、
じゃインド哲学を・・とお願いして
篠原と二人で
習いにいくことになったのだ。