higetono;LaBlog

higetono;LaBlog
ログイン

山形市のM町に住んでいたとき、向かいのWさんの玄関脇に、ポポーという実のなる木が植えてあった。ポポーは10月くらいになると、4、5個かたまっている実が黄色に熟して、果物らしいみかけになる。

中1の放課後、もう家に帰っていたわたしが、窓を開けてWさんの家の方をのぞくと、4人の子供がポポーの実を盗ろうとしていた。
小学生の男の子が2人と女の子が2人、塀に手を掛けたり、爪先立ったり、周囲を警戒している様子の子もいた。
窓から見ているわたしのそばに、ちょうど母が来たので、わたしは指差して起きている事を教えた。
見覚えから、わたしにも分かっていたことだったが、「養護所の子供たちだね」と母は言った。
「盗ってるよ」とわたしが言うと、「誰も食べないで、毎年落ちて腐るだけなんだから、いいんだよ。」と言う。「かわいそうに」と見ていた。
「腹を空かして、あんなものじゃしょうがないから、オヤツを上げよう。」と言って、母は玄関先に出て行った。
ところが、声を掛ける間もなく、子供のうちの3人は走って逃げて行ってしまい、女の子が1人だけ取り残された。

母が何か言い聞かせて、女の子を縁側のところに連れてくるのをわたしは見ていた。髪をおさげに結った痩せた子だった。
縁側に腰掛けて、母と女の子は1時間ほど話していた。次第にうちとけて、女の子はさつま芋を手に持ったまま振り返って、家の中を見回したり、わたしの方へ視線を投げて来たりした。
少し離れたところで、わたしは柱に寄りかかって、学校の図書館から借りてきた本を読んでいた。

養護所は、わたしの家からお宮の方へ1キロばかり行った所にあった。何かの理由で扶養能力に問題が起きた親の子を、中学卒業の時点まで預かる市の施設で、50人くらいの子供が集団生活をしていた。わたしの同級生にもそこから通学している生徒はいた。

「また来て好いからね。施設の人が心配するといけないから、今日は帰んなさい。」と言うと、女の子はランドセルを背負って、母に手をふってスキップをして帰って行った。
夕方、大学から戻った次兄のAと母が、養護所の子供たちについて話しあっているのを聞いて、女の子は咲子ちゃんという名前なのだと分かった。

その日から何度か、咲子ちゃんはわたしの家に寄って、母と会って行くことがあったらしい。
その頃中学校で、わたしは軟式テニスのクラブ活動をしていて、帰宅するのは6時を過ぎてしまうのが普通だったから、その日以来、寄り道の咲子ちゃんと顔を合わせることはなかった。

そして、その年の12月に、母は大腸癌の手術のため、市の中心部にあった病院に入院した。母の入院の期間は思いがけず長びき、退院してきたのはもう翌年の梅雨の前だった。
母が入院している間に、次兄のAは1人で家の前に立っている咲子ちゃんに、何度か合ったという。1度「おばちゃんは家にいないの」と聞かれて、入院療養のことを話して聞かせると、それからは次兄のAと顔を合わせても、ただ黙って去ってしまうばかりだったらしい。

母は、その夏を乗り切るのに体力を使い果たして、秋口に亡くなった。
それから2年間くらいの間に、父と成人してゆく子供たちの絆は少しずつ緩んで、兄姉たちは1人2人と家を離れて行くことになった。

中学3年生になった年の6月ころ、昼休みの時間に、渡り廊下(向かい合わせの校舎を繋ぐバルコニーのような場所)で、級友たちと話をしていた。
わたしが通っていた中学は、1年生が3階、2年生が2階、3年生が1階の教室を使う慣わしで、2階にある渡り廊下にいたのは、そこを渡ったところの教室を使う音楽の授業を受けるためだった。
わたしたちがいた場所と反対の出入口近くの、校舎の影がさしたところに、鉄柵に背をもたせて、小柄な1年生の女の子が立っていた。
そこに1年生がいるのは珍しかったので、何回かわたしはその子を見た。
左手を折り曲げておさげの髪に触れ、右手をその左手に掛けて俯いていた。どこか見覚えのある子だなと思う内に、わたしは以前、亡くなった母に会いに来ていた、咲子ちゃんの名前を思い出した。

それから、学校の中で何度か、その咲子ちゃんらしい女の子が、遠くからわたしを見ているようなのに気付いた。
授業の間の休息時間に、1階の教室の、わたしの窓際の席から向かいの校舎を見上げると、3階の窓の1つから、女の子の姿がスッと隠れることがあった。何回かそんなことがあって、あれは咲子ちゃんに似たあの子ようだったと思った。

その年の10月、事故に会った技術科の先生の代用で、まだ学生だったわたしの次兄のAが、この中学で授業をすることになった。
次兄のAとわたしは、突然、先生と生徒の立場になってしまった。お互いに気まずくて避けあっていたが、何度かは直接授業を受けるはめにもなってしまった。わたしはそんな事への気遣いと、あと半年足らずの期日に迫った、高校受験の用意に気をとられていたが、あるとき、あの咲子ちゃんに似た子を見かけなくなっているのに気付いた。

家で次兄のAに、あの咲子ちゃんに似た1年生がいたこと。そして、気付いてみると近頃、その子をみかけなくなっていることを話した。
翌日の夜、次兄のAは職員室で1年の担任の先生たちに聞いてきたことを、わたしに話した。

咲子ちゃんの親は、山形市のK町という繁華街の外れで、飲食店と麻雀荘を経営していたという。咲子ちゃんが小学3年生の時、母親が家を出て行方が分からなくなった。夫が本来の仕事を放棄して、大きな賭け麻雀に明け暮れているのに、愛想をつかしてのことだったらしい。母親が所在不明になるのと前後して、父親の仕事は傾き、家や店を手放してもまだ借財が残る状態となった。
借金の取立てから逃れる事と、身一つでの働きを求めて、咲子ちゃんの父親は宮城県の塩釜に行って、マグロ船に乗り込んだのだという。咲子ちゃんが養護所に預けられたいきさつは、およそこのようなものだったらしい。

わたしの母親と縁側に腰掛けて話をしていたとき、咲子ちゃんはもう5年生だったことになるが、小柄なので、わたしはもっと小さな子だと思っていた。中学校の渡り廊下で、咲子ちゃんの名前を思い出しても、本人という確信が持てなかったのは、まだそんな歳ではないだろうと思っていたからだった。咲子ちゃんは、4年間養護所で親と離れて暮らしていたことになる。

咲子ちゃんの父親は、もうその頃マグロ船を降りて、塩釜でまた元のように飲食店をやっているとのことだった。そしてその夏、父親が新しくいっしょになった女性に、子供が生まれた。やっと新しい家族4人で暮らす態勢ができた、と、咲子ちゃんを引き取りに来たとのことだった。
先生たちの中には、新しい奥さんが働けなくなったので、ただ、助けの働き手が欲しくて呼び寄せたのではないか、と、心配していた人もいたという。

今もわたしが覚えている小学5年生の咲子ちゃんは、亡くなった母との出会いの後、明日に何かいいことがありそうに、手をふってスキップをして帰って行ったが、父親のもとに向かう中学生の咲子ちゃんは、自分の明日をどう思いながら汽車に乗って行ったのだろう。

その頃、塩釜は知らない町だった。わたしは曇り空の海辺を思い浮かべていた。


Wさんの閉切った玄関脇の、熟したポポーの黄色い実は、その年も食べるひともなく道路に落ちて腐った。
その年の2月ころ、Wさんは鉄工所の経営に行き詰って、すでに家族も犬もみんな家を明け渡してどこかに去っていた。家屋の脇の広い家庭菜園は、夏に生い茂った雑草がそのまま枯れて、半年と少しばかりの間に荒れた土地に変わった。

わたしの家もその翌年、そこからY町に引っ越したので、ポポーの実のある秋の風景をみたのは、その年が最後だった。

関東地方を台風が襲った土曜日の朝、わたしはギックリ腰になってしまった。
1時間くらい経つと、これまでの経験からそれほど酷いものでないことが分かった。とにかく安静を保って週末を過ごし、月曜日からは出勤が出来るようにしようと思った。

わたしは、枕元に積んである本を読んで過ごし、疲れたら仮眠をとって、目覚めてまた本を読み続けた。
降りしきる風雨を見せると、ワンコたちも一応お散歩はあきらめるので、食事とトイレのとき意外はわたしのベッドの上で、一日寄り添って一緒に過ごした。
関東地方の台風は、午後5時くらいから7時くらいまでが最も中心の近づいた荒れた時間だった。9時を過ぎるともう雨も風も止んで、家の外を通る自転車の音や人の話し声が聞こえるようになった。わたしは奥方の帰りを待って晩御飯を食べ、10時半ころ早めにベッドに入って、本を読み疲れたところでまた寝てしまった。

さすがにこの日は休息十分なため、長い時間は眠れなかった。目覚めたとき柱時計で時間を確かめると、まだ3時を少し回ったばかりだった。横になったまま目が冴えてくると、日頃の夜と違って辺りが白く明るい。
窓の外に目をやると、レースのカーテン越に丸いお月様が見えた。カーテンを引いて眺めた。
台風が地上と空の穢れを掃除して、暗いけれど澄み切った空に月が煌々と光っている。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でしつきかも

わたしの幼いころの最も古い記憶のひとつは、この月を詠んだ阿倍仲麻呂の歌と結びついている。

あれはもう小学校に入学した後のことだろうか、家族総出で映画を観に行ったことがあった。
皆で行くことになった経緯や、道々などは何も覚えていない。ただ、映画館は大変な混みようで、わたしの座る椅子はなく、スクリーンの架かっている舞台の袖にちょこんと座って、わたしは映画を観た。
斜めからの歪んだ映像を眺めていたのだろうが、映画のなかで詠まれたこの歌と、大きなお月様の映像だけをわたしは後まで覚えていた。
そのことを改めて自分で気付いたのは、お正月に兄姉たちと百人一首の歌留多取りをしたときだった。阿倍仲麻呂のこの歌が、わたしの知っている唯一の歌として現れたからである。
それは幼いわたしの1番得意の札になった。それに続いて得意の札となったものには、つぎのような歌がある。

たち別れ いなばの山の 峰に生える まつとし聞かば 今帰り来む
これは、下の句の初め4音が自分の名前と1音違いだったため憶えやすく、また次の歌は

ももしきや  古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
ももしき、ももひき、と語呂合わせの悪戯で憶えたものである。

『三笠の山に 出でしつきかも』の映画を、永い間わたしは自分が観た最初の映画だと思い込んでいて、それは何だったのだろうと気にして来た。親が健在のときか、兄姉たちに訊いてみれば、その気がかりはすぐに氷解したのかもしれなかったが、そういう機会も持たなかった。

答えらしきものに出会ったのは、1985年頃『日本映画』『外国映画』という対で企画された文庫本が売り出され、『日本映画』の記事の中に、女優の田中絹代の監督作品として、『月は上りぬ』という映画の解説を読んだ時だった。文庫本はもうわたしの手元になく、出版社も監修者も覚えていないが、本の記述はわたしの永い間の思い込みをいくつか訂正して、尚、この映画が『三笠の山に 出でしつきかも』の映画だったのだと確信させた。

その本を読んでみると、『月は上りぬ』をわたしは松竹映画だろうと思って来たのだが、それがそうではなく、日活で作られた映画なのであった。
松竹映画だろうという思い込みから、中井貴一の父親の佐田啓二か高橋貞二が主演俳優だったろうと思っていたが、正しくは安井昌三が主演俳優で、主演女優は北原三枝なのであった。安井昌三はテレビドラマの草創期に、『チャコちゃんハーイ』で娘と親子で共演していた俳優である。
思い違いはこの他にもあって、『月は上りぬ』の製作が昭和30年となると、これはわたしが観た初めての映画ではない。近所の大工の棟梁、小林さんの奥さんに子供と一緒に連れて行ってもらって、ディズニー映画の『ダンボ』や『シンデレラ』を、わたしは小学生になる前にすでに観ている。
ずいぶん遠い時の映画と思っていたのだが、製作が石原慎太郎の小説『太陽の季節』の発売と同じ年と分かると、印象はかなり違って来る。


台風が通り過ぎた後の煌々とした月と違って、わたしの記憶は朧月夜のように頼りない。

2年ほど前、ケーブルTVのちゃんねるネコという局で、映画『月は上りぬ』を放映したことがあった。田中絹代にゆかりの映画を特集して連続放映していたようだった。
わたしは居間のソファーに横になって、例によってヨーキーのななこを肩のあたりに載せ、ダックスのももこは腹に載せて、半世紀以上を経ての『月は上りぬ』再体験をしていた。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でしつきかも」の場面までは観ていたのだが、ワンコの温みが気持ち好いと思った瞬間、睡魔に襲われ、不覚にも寝入ってしまった。

わたしの頭は、散髪に市場価格を支払う価値をとうに失ってしまった。

それは、今を去る2年ほど前まで、散髪屋に行くたびに、身にしみて分からせられたことだった。

散髪屋の店員は、マニュアルにそって質問をする。

「どのような感じに整髪いたしましょうか」

こう言われる度に、頭髪の不自由なわたしは困惑した。
その不自由を超えて要望する資格が、わたしにはないのだから。
わたしは分をわきまえて、「スッキリ刈ってください」などと答えていた。
しかし、ひと月ごとに、何度か同じやり取りを繰り返しているうちに、ある日、抑圧されていたわたしの不自由がレジスタンスをしてみたのであった。

「どのような感じに整髪いたしましょうか」
「カッコよくしてください」とわたしは答えてみた。
鏡の中の散髪屋の若い男子店員の顔を見ていると、笑っている表情がしだいに硬くなって行く。
難題をふっかけられたように思っているのだろう、と推測しながらともかくお店の提案を待ってみる。

「浦和レッズの小野みたいな、ほとんどスキンヘッドみたいな短髪も好いと思いますし、鋏仕上げの短めなところと、長めなところのバランスをとった、短髪もお似合いかと思いますが。お客様、頭の形が良いので」

頭骨の形を誉めてはもらったが、なにしろ無を有に変えるわけにはいかないのだし、結局わたしは、この髪なき時の乏しさに耐えて行くほかないのである。いたわられている自覚の悲哀を突き放すと、やっぱりわたしは不自由である。

「まあ、時間ももったいないことだし、バリカンでササットやってください。」
「それから、2度も3度も頭を洗うけど、あれは1度で好いですから。この頭はそんなに手がかかるものじゃないので」
「ええと、もう1つ。頬、顎、鼻の下の髭剃りは深剃りしないでください。すぐに眠ってしまうかもしれないけど、どうぞよろしく」
普通は注文の多いほど手が掛かり、時間も長く掛かるのだが、わたしの場合、これだけ注文をつければ仕上がりはとても早い。
目をつむり、不感無覚の境地に行って、後はマッサージが終わるまで全ては他人事である。

しかし、そういうやりとりをしていたのも、もう2年前までのことになる。
現在は、奥方が電動バリカンでわたしの整髪をやっている。
奥方はバリカン使いに慣れるにしたがって、わたしの頭の整髪で自分なりの遊びを入れるようになった。整髪に何分かかるか、毎回、時間の短縮競技をしているのである。ついこの間の整髪は、なんと7分そこそこだった。

終わりの合図に奥方は後頭部をピシャンと叩いて、「ほい、マルガリータ1丁あがり」と笑う。
とほほ、わたしの頭がテキーラベースのカクテルなら、塩はどの辺りに塗ればいい。

中1の担任は体育の教師で、ソフトボール協会の役員をしていた。
夏休み、実業団のソフトボール大会があって、クラスから6人の男子が手伝いをすることになった。
グランド整備の補助をしたり、ベースをとりつけたり、道具を運んだりする。
まだ、スポーツドリンクもクーラーもなかった頃だったから、選手の控え室に大きな氷柱を据えつけたりもした。
入場式ではチーム名の看板を持って案内をしたり、試合がはじまると、ボールボーイもやる。

実業団の女子選手たちは、みんな真っ黒な顔で元気がよく、腕も足も太く、大きなお尻をしていた。
ほとんどは化粧気もなく、まれに口紅を引いているひともいるというような、素顔の一団だった。
わたしが入場式で案内したのは北海道のチームで、話しかけてくる言葉も独特だった。

大会は16チームのトーナメントで、雨降りなどがなければ、4日間で試合を消化する。最後の日は準決勝と決勝のダブルヘッダーになる。

2日目の試合が全部終わった後、南側の選手控え室の掃除に行った。
もう誰もいないと思って入って行くと、まだ選手のねえちゃんたちがいて、隣のシャワー室と行き来して、着替えをしていた。バスタオル巻きの体で歩いているねえちゃんもいた。みんなが一斉に私の方に顔を向けた。中学1年生のわたしは、突然、半裸の女子集団の中に投げ出されていた。

どうすればいいのだろう、と思ってもじもじしていると、4、5人のねえちゃんがそのままわたしのそばに来た。
「君、女性の着替えに入ってきて、行儀よくないね」
「あ、知らなかったんで、すみません」
「わたしたち、この下まだ裸なのよ」バスタオルの上のむき出しの肩で、わたしの肩を押す。
「んー、すみません。帰りますから」頭に血が上って、たぶん、その時わたしの顔は真っ赤。
「仕事しに来たんでしょう。いいよ、仕事して、いいよ」
「あ、いいんですか。でも怒ってないですか」
「いいよなあ、みんなあ」
「いいよに賛成」と言いながら、わたしの髪をくしゃくしゃに撫でるねえちゃん、ドンケツしたねえちゃんもいた。

いいよ、と言ってはくれたが、さすがにわたしは居ずらくて、下を向いて部屋の隅からモッブ拭きを始めた。
「ぼくー」
「おーい、君だよ」
声の方に顔を上げると、パンツ1っ丁のねえちゃんが、ブルンボインを突き出して立っていた。
フリーズしました。

わたしが控え室で遭遇した関東から来たチームは、準々決勝、準決勝と勝ちあがり、決勝まで進んだ。あのこと以来、わたしはそのチームメンバーに顔と名前をおぼえられ、「mくん、応援してね」と声をかけられたりした。同級生の他のボールボーイたちは、何故mだけ人気があるのだろうと不思議がった。

最終日、準決勝の1試合目と2試合目のあいだの時間、わたしがグランドの地べたにすわっていると、あのブルンボインのねえちゃんが来て脇に座った。「ねえ、mくん、今つきあってる女の子いるの」と聞く。「いませんけど」と言うと、「わたしこのまえ、mくんに裸見られたから、もう結婚出来ないかもしれない。そしたら、mくん、将来わたしと結婚してくれる」と、わたしの顔をまっすぐに見る。その場では、結婚というのはため息がでるほど遠いことで、ただうろたえてしまったのだったが、独りになって落ち着くと、年上のねえちゃんがまたわたしを、口ポカ、目が点、体は棒にしてやろうと、からかっているのだなとすぐに分かった。

関東から来たチームは決勝で敗れた。

大型バスの窓から顔を出して、関東に帰るチームのねえちゃんたちが「mくーん」とわたしの名前を呼んで手を振っていた。
わたしと、この経過の秘密をうちあけた親友とふたりで
「ケツデカオンナー」
「ロケットオッパイー」と叫んでアカンベーをすると、バスの中で集団の大笑いがはじけた。


連休の1日、わたしは家の床の雑巾掛けをした。
奥方のお気に入りの新車、玩具のようなオープンカーを、わずか3〜4回目の車庫入れでズッテしまって、傷物にした罰ゲームである。
自分の不注意を棚に上げて、わが身の不運を嘆きながら、這いつくばって汗を流していると、女中奉公で雑巾掛けをしていた「おしん」を思い出してしまった。まっ赤な頬とあかぎれの手をした小林綾子ちゃんの「おしん」は、母ちゃんに会える日を励みに、つらい日々を乗り切って行く。けれど、わたしの母ちゃんはとっくに天国に行ってしまっている。しょうがないな、ビールでも飲みながらやろう、と、中休みに缶ビールをもってテレビの点いている居間に行った。

ワイドショーが、植木等の葬儀の模様を紹介していた。
見ていると、漫画の敵役のような格好の内田裕也が登場して、遺辞を述べた後、スーダラ節を歌いだした。ユーミンともう1人名前をおぼえていない歌手が、それにスーダラ節の振り付けをして、照れくさそうにつきあっていた。
ワイドショーの司会者は、内田裕也さんらしい無礼講ですねと、ほほえましげにコメントしていたが、わたしの感じはちょっと違った。何か見ているだけで加担しているような、恥ずかしさに耐えて見ていた。内田裕也というひとは、どうしていつもこう、おれはダダモノジャナイという態度なのだろう。

しかしこれは、雑巾掛けをしているわたしからは、遠い芸能界のことである。

同じような感情の体験をしたことがあったので、並べてみようと思う。これも、わたしからは、遠い文学者の世界のことである。

10年以上前のことになるが、谷川雁という詩人が亡くなって、詩の雑誌が特集を組んだことがあった。
谷川雁は敗戦の年から10年余の間に刊行した、「大地の商人」「天山」「定本谷川雁詩集」などの詩集と、詩作をやめてから10年ほどの評論集、「原点が存在する」「工作者宣言」などで、60年安保の世代に影響を与えた、詩人=評論家=運動家である。
詩の雑誌は、谷川雁の未発表原稿を収録して、彩りをつけようとしたらしく、意外な文章を載せていた。谷川雁に先立つこと15年ほど前に亡くなった、井上光晴という小説家の葬儀で詠まれた、谷川雁の遺辞を載せていたのであった。
『雲よ。光晴という雲よ。・・・・・』から始まる、久々の谷川節の遺辞を読むわたしを襲った感情は、スーダラ節の引例とよく似た、恥ずかしさに耐えて読むというものだった。
遺辞は詩作のように、比喩で語られているのだが、浮ついた昂揚感が伝わってくる他、何を言っているのか内容がわからない。雑誌の遺辞を眺めながら、たくさんの文学者が集って、いかにも谷川雁のものらしい遺辞をきいて頷く、葬儀の風景を想像してみた。これでいいのだろうか、おれはタダモノジャナイとしか言ってないような言葉を、分かったふりをすることは良くないな、とその時、わたしは思ったのだった。

雑巾掛けの位置から思うことは、どうも上目づかいに視線がきつくなってしまう。

手にあかぎれを作って、雑巾掛けをしていた小林綾子ちゃんは、田中裕子から乙羽信子へとタダモノジャナクなって、ダダモノの世界に帰ってこなかったが、わたしは不注意や無作法をとがめられて、度々、女中奉公をする小林綾子ちゃんにもどるのであろう。自分を振り返って、わたしはもう1缶ビールの栓をぬく。あたまで考えている事とは反対に、泡の効き目で労働を放棄しかけているわたしを、お散歩に連れてってもらいたいワンコたちが、じっと注視している。


1986年の春が終わるころ、加藤典洋さんが『菊屋まつり』のフリートークに出るというので、一緒について行った名古屋で、橋爪大三郎さん=社会学者と1度だけ話をしたことがある。
フリートークというのは『菊屋』という詩の雑誌が吉本隆明を招いて、当時まだ30代だった加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣、瀬尾育夫など、若手の論客と応答をするというものだった。

『菊屋まつり』フリートークでの話で、わたしがおぼえているのは、吉本隆明が最後に聴衆からの質問を受けることになって、北川透という詩人が、「現在の日本で、革命というような社会変革はもう必要ない、と考えてらっしゃるのでしょうか」と問うたのに対して、「はい、そう思っています」と簡素に応えたことである。
そのころはまだわたしにも、いいひと→良心→左翼というようなことが漠然と信じられていて、左翼の大儀=存在意義である革命がもういらないということになったら、左翼はどうなるのだろう。これは大きな宣言だな、と思って聞いたのだった。
吉本隆明のこの考えは、1995年に出版された、『わが「転向」』という著作に詳しく展開されていて、中で、1972年にあった時代の大転換の、同時代感覚を担う文芸評論家として、加藤典洋、竹田青嗣、初期の浅田彰の名前があげられている。

その夜、詩誌の名前にも借りていた、酒場『菊屋』の宴会と、もう1件別の宴会をすませて、ホテルに戻ってから、加藤さんの部屋で橋爪大三郎さんと3人で、わたしが持参したワインを飲んだ。
橋爪大三郎さんは、まだその時点で、ソヴィエット連邦の崩壊まで5年の歳月を残していたが、社会システムとして、存続はもう不可能だろうと話していた。
すでに『ソヴィエト帝国の崩壊』=小室直樹という本が出版されていて、わたしもそれは読んでいたが、奇矯のひととして知られるそのひとの論説を、そのまま信用する気にはなれないでいた。橋爪大三郎さんの話では、その論説の大筋は正しく、アメリカ=レーガン政権のSDI構想というものも、体制崩壊の促進を目的とした仕掛けだというのであった。
現在から振り返ってみると、SDI構想がソヴィエット体制崩壊の最後の引き金となったことは、定説となっている。

そのとき橋爪大三郎さんが、社会学者となった初心を、問わず語りにはなしたことをよくおぼえている。
日本というものを、外人の目が見てもすっかり分かるように開いてみたい、というのであった。その構想の遠大さと困難は、『とまどうペリカン』であったわたしにも想像できた。
最近、WEBでアクセスしたあるひとの論説で、橋爪大三郎さんが初心から続いている思いを、『完全な自動翻訳機』という比喩で語っていて、「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなる」と言っているのを知った。橋爪大三郎さんの言葉としては、めずらしく分かりにくいのだが、わたしはこれを予言としてではなく、日本人と外国人とが共有できないものの核心=天皇制を、『すっかり分かるように開いてみたい』という表明だと思って読んだのだった。

名古屋に来る新幹線の車中で、そのころではまだ珍しいノートパソコンを打ち込んでいる、橋爪大三郎さんの姿を見た加藤典洋さんが、感心しきりであったのを思い出して、あのころ時代はまだアナログの世界で、井上陽水の『ライオンとペリカン』も、わたしはLPで持っていたのだったことを思い出した。

わたしの『とまどうペリカン』の名古屋の夜が、1986年のことだとはっきりおぼえているのは、持参したワインが取って置きの、葡萄の出来がよかった1985年のシャトーヌーフドパフだったから、というだけの『とまどうペリカン』らしい理由である。

『昭和史20の争点』という本で「東京裁判は政治ショーだったのか」という章を、橋爪大三郎(社会学者)が書いている。靖国神社についてふれている箇所で、靖国神社には『公務従業者やボランティア(志士)を祀っている』という文章があって、なるほどなあと思った。

わたしがなるほどなあと思ったのは、ボランティア=(志士)という英文和訳である。
わたしの語感は、「雑多なひと→ボランティア→いいひと→良心」、「ひとかどのひと→志士→こわいひと→大儀」というものなので、公務と民事の区別でこう表現されても、それ以上の意味を受け取ってしまうのである。
つまりわたしは翻訳 ボランティア=(志士)から、→が動いてゆく項目の組み合わせが多様にあるのを、ぼんやりと直感して、なるほどなあと思ったのだった。

それから、新聞や雑誌やWEBの記事などでボランティアという言葉を見ると、→があたまを掠めるようになった。

YAHOO JAPA NにはYAHOOボランティアというサイトがある。YAHOO志士と読み直してみれば、秘密結社のようなにおいがして来る。

もう都知事選挙は終わったが、候補者 浅野某には勝手連という応援団体ができた。政治的なボランティアである。これはある雑誌の記事によると、「雑多なひと→ボランティア→いいひと→良心」という→の流れを装っていたが、実はそこには、チュチュ思想という大儀を信奉する→こわいひと→志士などもいたのだという。わたしは頭のなかを飛蚊のように動き回る→といっしょに、事態を読み直してみる。

1ヶ月ほど前、テレビで『壬生義士伝』という映画を放送していた。飛蚊→がブーンとうなり始めて、画面を観ながらわたしは、『壬生ボランティア伝』か、とつぶやく。中井貴一の役どころは剣の腕前はひとかどだが、志は雑多なひとと言っても好いだろう、と思いながら筋の流れを追って行く。人物像がだんだん分かってくる。思い出したが、主人公の下級武士は吉村という名前でセリフは岩手弁である。映画が進行するほどに主人公が、雑多なひと=ひとかどのひとであり、いいひと=こわいひとでもあり、私欲=大儀でもあるという、興味深い性格付けをされているのを観ることになる。
さすがに映画化されるほどに売れた小説は、おもしろい視点を用意して書かれている。
中井貴一の醤油顔も、こういう役柄にはぴったりだ。

ボランティア=(志士)、ボランティア=(志士)と言葉をくりかえしていると、語呂合わせか喩の関連かわからないが、『ライオンとペリカン』という井上陽水のアルバムを思い出した。
これをタイトルとして使わせてもらうことにする。
ひさしぶりにCDを探し出して、『とまどうペリカン』を聴いてみよう。

勤めから帰ると、奥方がテレビで『隠し剣 鬼の爪』という映画を観ていた。始まってからまだ20分くらいだというので、一緒に観た。藤沢周平+山田洋次の組み合わせで、セリフの庄内弁をかなり好く再現している。わたしの田舎は山形市なので、庄内弁を喋ることはできないが、聞き取りに不自由することはない。しかし、東京育ちの奥方は、3分の1くらいしか分からないという。それで、途中からはわたしの方が熱心に最後まで観た。

主人公の片桐宗藏ときえは、映画の中途で
「それは、だんな様のご命令でがんすか」
「んだ、命令だ」
という言葉を交わして一旦は別れて離ればなれとなり、また、映画の最後で同じ言葉を交わして、ふたりで蝦夷の地に人生の再出発をする。

『隠し剣 鬼の爪』は、幕末が目の前に迫った時代の話だが、山形地方の人たちには、北海道に新天地を求める気持ちが、それからずいぶん後の時代まで残っていたようだ。

わたしの父の兄、伯父にあたる人は、大正年代の終わりに家を出て北海道へ駆け落ちをした。

長兄に去られ、早いうちに家長の父親をも亡くした残りの家族4人は、困窮し苦労をかさねたようだ。兄がいてくれたらというわだかまりを、父はずっと持ち続けたようで、伯父の身の上の話に触れるのを好まなかった。だから詳しい経緯などは分からない。
けれど、2人で旅立った伯父の新天地での生活も、辛酸をなめただろうことが思われる。それは後に、駆け落ちした伯父夫婦のあいだに出来た長女を、身売り同然に置屋に養女に出しているなどの事実があるからだ。わたしの父が、身の処し方の相談にのっていた親戚の女性が、そういう不幸な履歴をもったひとであることを知ったときの、子供ながらの驚きを思い出す。

伯父の家族は道南に定着し、養女に出した長女の下に出来た双子の女児を育てあげた。父やわたしたち家族との交流が復活したのは、伯父が亡くなり成人した双子が結婚し、日本経済が高度成長を始めたころだったと思う。毎年、1斗缶に入った塩辛が北海道から贈られて来るようになり、お返しには柿を贈った。
双子の1人と結婚し婿となった人は、戦後労働運動史に三池の争議と並び称される王子製紙争議の組合リーダーだった。組合代表として、別の新天地の首都モスクワまで、何かの賞を受賞に行ったこともあったと聞いている。けれどその労働争議は、後に右翼の黒幕とよばれた、田中清玄などの介入で第2組合、第3組合を作られて、第1組合は解体状態となった。わたしが会ったころはもう組合運動から身を引いて、物静かな人になっていた。

わたしは養女に出された長女や、双子の女児といとこ関係だが、年齢的にはその子供たちと同世代である。新天地、北海道の第3世代は、わたしより1つ年上の長男を筆頭に、2歳ちがいに女児、男児と3人兄弟だった。
長男は東京の私学を出て、大手広告代理店に勤めた。2年勤めて道南に帰り、タウン誌を始めた。町興しのような方向に仕事を広げて行きたいと思っていたようだ。大学受験浪人をしていた弟もその仕事を手伝った。趣味も良心も理想も、家計や経営に与するためには、生半なちからではおぼつかない。4年ほど続けて会社は資金繰りに詰まった。新天地の第3世代は、出身地の山形にまで足を伸ばし金策に駆け回った。しかし、出身地に残る第1世代はすでに年金生活に入って、企業を救うほどの余力を持つものはもう誰もいなかった。

第2世代が築いた家を抵当に渡して、わたしの伯父の子孫たちは道内に四散したのだった。

わたしの親族の場所から遠く見る新天地、北海道は、さまざまな夢の破片がちらばった危うい大地である。

めじょけねえ、片桐宗藏ときえはその後どうなったのだろう。架空の未来にも心配は尽きない。

ギックリ腰は魔女の一撃によって起こるという。
もう10年以上前に読んだ、米原万里さんのエッセーでそれを知った。

わたしの魔女は、正体を知られてなお、律儀に1年に2度くらいづつ現れる。
天候が崩れ気味になって、ガラスの腰が気圧に過敏に反応しているときは、細心の注意をはらって免れているのだが、ああ、何時も魔女は不意に現われるのである。

勤め先のトイレで用事を済ませて、手を洗おうとして鏡をみた。右頬に何か黒いものが着いていた。何だろうと鏡に顔を近づけたとき、わたしの魔女が現われた。
また別の時には、テニスのスクールに行こうとして玄関でシューズを履いていたとき、わたしの魔女が現われたのであった。そのまま室内に這いもどって、行けないと断りの電話をかけたのだが、実に情けなかった。

魔女の一撃の祝福の効果は、だいたい平均5日ほどで解消する。普通の一撃には、わたしはその道の職人さんのように手を打って、数日の山篭りで一作ものにした陶芸家のように、日常生活に復帰する。

しかし、ドイツW杯の1年前、フル代表の練習試合があった夜にみまわれた一撃は、これまでの最深最大のものだった。市販の鎮痛剤は効かなかった。少しの身動きが腰の神経を刺激すると、衝撃がのど元にうめき声を迫り上げて、腰から全身に走る。わたしは危うく神様の名前をよびそうになった。

その時は長期の安静に備えて、枕元にミネラルウオータの容器とバナナの房と本を置いてもらった。
床の中で、ソルジェニツインの『収容所群島』6冊を20数年ぶりに読み返した。とにかく部数のある本をというわたしの要請に応えて、わが奥方が本棚から選んだものだった。ソビエット連邦崩壊の直後から、もう1度読み返してみようと思って10数年、実行されなかったことが出来たのだから、わたしの魔女にも配慮の気持ちがあるのだろうか。

しかし、いくらわたしに親密感を持ち始めたといっても、家族にまで近づいて悪戯をするのは困ったものだ。わたしの魔女はわが奥方にも、1年半ほど前、杖の一撃を見舞った。ギックリ腰の初心者は靴下や下着を身につけることさえ、他人の手を借りなければならなかった。

さらにわたしの深情けな魔女は、我が家の愛犬、ダックスフンドのももこにも手を出したようなのだ。
2週間くらい前、ももこが散歩をしたがらなくなった時があった。飯と散歩をなによりの楽しみにしているのだから、奇妙で不安な事だった。2日くらい、したいようにさせて様子を見ていたが、30センチ程のマットにも上らなくなった。係りつけの獣医さんに連れて行くと、ギックリ腰のようですね、というのだった。

我が家、2人と2匹の家族の2人と1匹は魔女に出会った仲間である。わたしの魔女とは、老化と肥満と運動不足の別名であろうかとひそかに疑うわたしは、もう1匹の家族、やきもち焼きのヨーキーななこの喉をくすぐりながら言う、「ななこや、家族だけど急いで皆といっしょの仲間にはならなくっていいよ」と。

法務局に行かなければならない用事があって、武蔵境駅から調布駅行へのバスに乗った。
車内奥に進んで、出口から2列目の2人掛席のひとつが空いていたので、「失礼します」と声をかけてその席に座った。

しばらく、バスの動きといっしょに揺れているうちに、わたしは隣のひとの肩が意志的にわたしを押しているように思えてきた。何か不自然な力を感じるのだった。どうなのだろうと隣を見てみると、もう70歳は過ぎているだろう、色黒な皺の深い老人の顔が無表情に前を見ていた。そしてそれから、押してくる力はますますあからさまなものになった。

わたしは格別大きな体でもないのに、こんなに邪魔にされてはヤレヤレ困ったなと思っていたが、バス停を2つ過ぎたところで最後列の座席が空いたので、そこに移った。

駐車したバス停から新しく乗り込んできた人たちが奥に進んできた。先頭の男性はわたしを2人掛席から排斥した人と、同年輩に見えた。そしてわたしが空けた座席をみつけると、ヨッコイショという掛け声をかけてその席に腰を下ろした。

係争はバスが発車して間もなくから始まった。
わたしが空けた席に座った老人が、隣を睨むように見ていた。やはり悪意の圧力を感じ取ったことを、わたしは知った。
それから、がっぷり四つの無言の力比べの押合いのような状態が、しばら続いた。しかし座席に対する先行受益者=既得権者の老人の体勢が不利になるに及んで、陣営を立て直すべく、人目も有らばこそに押し返したとき、冷戦は熱戦に変わった。

「座る権利の半分はオレにもあるんだ」座席に対する後発受益者の老人が怒鳴った。異変を感じ取っていた周辺から、それは乗客全員の注目を浴びる紛争となった。

そして老人同士の赤カテ白カテの押合い競技は、優劣を交換しながら延々、平等の権利を主張する老人がバスを降りるまで続いたのであった。

わたしたち乗客は、見て見ぬふりという使い慣れた擬態をきめこんで、笑えるが醜い、既得権と平等の権利のバランスの実地訓練を、同行30分ずっと見ていた

銀行で用件をすませてから会社に向かうと、品川駅で京急線に乗るのは10時を少し過ぎてしまう。その時間の電車はもう空いていて、のぞくと隣の車輌の様子もよく見える。

電車が品川駅を発車して間もなく、カーンカーンカーンと金属を打つ大きな音が隣の車輌から聞こえた。隣の車輌をのぞいて見ると、乗降口のドアそばに、背丈の小さな黒いコートを着た老人がステッキを持って立っていた。いつも聞いたことがない先刻の金属音は、どうやらそこから発したらしく、ステッキを持った老人は周囲の注目を浴びていた。老人は紅潮した顔をうつむけて何かブツブツつぶやいているようだった。

わたしは品川から2つ目の駅で降りる。
1番先頭の車輌の1番前のドアから降りるのが、その駅の改札口に近いので、急いでいる人たちは先頭の車輌に移ってくる。ステッキを持った老人も隣から歩いてきて、乗降口のドアのそばで私の前に立った。
電車が駅に着いてドアが開くと、乗車を待つ中年の恰幅の良い女性が、黒い革のバッグを持って立っていた。乗車と降車と、バッグを持った女性とステッキを持った老人がドアのところですれ違ったとき、パーンと音がして、女性が悲鳴をあげた。

わたしは見た。背丈の小さな老人が流れるような動作で、ステッキを振って打ったのを。

黒いコートの老人の後姿は、ホームの人たちを追い越しながら足早に遠ざかって行く。電車もドアを閉めて同じ方向に去って行った。乗り降りの瞬時に起きたことに気付いた人は、何人もいなかった。

改札口から道路に出て右方向を見ると、背丈の小さな老人は、ほとんど走る速さで国道の方へ向かっていた。持っているステッキで体を支えることなどは1度もなかった。

別の日に何度かわたしはこの老人を電車で見かけた。ある日は、駅の階段の手摺を激しく打ったのを見た。また別の日には、幼児の目の前で威嚇するようにステッキを振って驚かせていた。ホームで女性に追い越されたときには、後ろから切りつける空振りの動作をして、周りのひとを気味悪がらせた。
遠く離れて眺めた外観は映画の中で観るチャップリンに似ていたが、その外観に反して危険な老人だった。ステッキは身体補助具ではなく、暴力的な威嚇のための道具として持ち歩いているようだった。


品川駅の構内に、むかしの日本食堂の名残を残すレストランがある。
日本食堂の名残というのは、どこか官営の感じがすると同時に、店のコンセプトがよく分からない、雑多な雰囲気が漂っているのだ。けれどある意味、それは居やすい場所で、ダルな自分を投げ出しておける場所でもある。

土曜日に出社して仕事をしようと思った日、朝の8時頃、そのレストランでサンドイッチと紅茶の朝食をとっていたことがあった。

わたしは100円硬貨1枚で買えるサンケイ新聞を読みながら、味ばかりが濃い紅茶をのんでいた。横の席ではわたしと同年輩の夫婦が、モーニングセットを食べながら、娘婿の性格について堂々巡りの議論をしていた。そして、その向こうの席では体格の良い老人が、一人で雑誌を読みながら朝食をとっていた。勤め人が、忙しく食べ物をのみこんでいる週日とはちがった、どこかゆるんだ空気が漂っていた。

「うるさい。うるさーい。うるさーいー。」
突然の怒声による爆撃に驚いて、声がした方を見ると、立ち上がった体格の良い老人が、丸めた雑誌を振りまわしながら怒鳴っていた。歪んだ顔が青ざめている。
訳が分からず、驚くと同時にすこしのあいだ、周りは皆ぽかんとしていた。ややあって、一番間近にいてモーニングセットを食べている夫婦が、爆撃目標は自分たちなのかと、夫婦でアイコンタクトを交わしては、老人を盗み見している。

立ったまま老人は興奮で手を震わせていたが、
「うるさいんだ、うるさいんだよ。朝から英語なんか聞きたくないんだよ。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ黄色い声で、何様のつもりではしゃいでるんだ。30分我慢したが、もう嫌なんだいやだ、うるさーい。」とまた怒鳴りあげた。

英語?ぺちゃくちゃ黄色い声? それは自分でもないし隣でもない。そういえば振り返って見もしなかったが、後ろの方から時々陽気な英語の笑い声が聞こえていた。爆撃目標はそこなのだろうかと、いぶかしみながら振り返ってみた。

そこは立っている老人の後方7メートルほどの席で、周りに牽引式の旅行バッグをたくさん並べて、白人の女性が5人一塊になって談笑していた。週末のターミナル駅にふさわしいその風景にも、そこから聞こえてくる話し声にも、怒声による爆撃を浴びせなければならないほどのことはなにもなかった。

老人は爆撃目標たる後方には顔を向けず、余勢でまだその場に立っていた。わたしも周りの人たちも、零戦の第3次爆撃発進を見守って、1分が過ぎた。

2分、3分過ぎても轟音はなく、しだいに時間は間の抜けたものに変わった。
日常生活のざわめきが戻って、周りの人々の動作がそれぞれのものに戻ると、まだ起立している老人は、もう来歴も忘れられたまま小学校の校庭にいる、二宮金次郎のようなのであった。

わたしも速やかに日常に復帰して朝食を終えた。
立ち去り際に振り返ってみると、青ざめた攘夷のこころは、まだそこにしょんぼり立っていた。

M市M町に住んでいたとき、通勤電車の駅に行く道すがら、一軒の家の門標に『阿部定』という名前を見ておどろいたことがあった。
あの有名な事件の本人なのだろうかと、通る度にひそかに観察してみたが、それらしき老女をみることはなかった。夏の季節などに、もう定年をすぎたらしい男性がステテコ姿で、その家の前の道をよく掃き掃除していた。何度か見かけて、このひとがこの家の当主で、門標の名前は『定=さだし』とでも読むのだろうと想像し、しかし、あれ程の有名人とも同姓同名のひとはいるのだな、と感じ入った。

わたしの会社の取引先に、『阿部定』と音のよく似た阿部只という会社があった。あるとき倉庫の出荷業務の人間が、運送便の送り状の宛名書きに、『阿部定』と書いて出荷をしてしまったことがあった。繁忙期の忙しさの中で、意識下にあった名前が不意と出てしまったもので、悪気があってのことではなかった。
しかし、宛名書きを間違われた相手の反応はすさまじく、すぐ電話で怒鳴り込んできた。激高した声は「ふざけるにもほどがある。あんなチンポ切り変態女とうちの会社をいっしょにするんじゃない。おい、責任者を出せ。」と言い出して、なかなか収まらなかった。名前を間違えること自体失礼なのだが、間違って書いた名前があまりに有名なものだったので、弁解をすることも難しく、閉口した。
宛名書きをまちがえた作業員は、年齢も若く、自分の身の上に関わらない、戦前の事件などに特に関心をもつ者ではなかったから、『阿部定』という名前は、一般的な日本人の記憶として、ある根強い喚起力を持っているのだなと思ったものだった。

『阿部定』という名前は、友人や大人たちの噂話を仄聞するというかたちで、わたしも中学生のころから、事件の凡その経緯と一緒に知っていた。それを鮮明な像にしたのは、20代の終わりに観た大島渚監督の『愛のコリーダ』という映画だった。この映画はカンヌ映画祭を騒がしたと評判だった。その映画についての出版物が、猥褻罪の容疑で裁判になったりもした。映画で主演した、松田瑛子という女優の野生的な容姿は、その後数年、他の映画のポスターなどでもよく見かけたが、そのうち見なくなった。『阿部定』という名前も『愛のコリーダ』の印象も自然に薄れて行った。そして30代も半ばになったわたしは、大体自分は大島渚の映画を好きではなかったし、愉しんで観ていなかったことにも気付いた。
その後『阿部定』について知識を得たのは、Adslというパソコン通信の方法が出来て、Webでの回遊が楽になってから、『無限回廊』というサイトに行き会って得たものと、またそこからさらに回遊して読んだ『阿部定事件 予審調書』からのものがほとんど全てである。『無限回廊』というホームページは、近現代の日本におきた犯罪事件を簡潔な記述で収集しているサイトで、今も更新が続いている。
『阿部定事件 予審調書』では、下町の不良少女が、家を出て身を持ち崩し、事件にいたるまでの経過を編年体で通読することが出来る。予審調書に書かれている経過の流れがあまりにも自然で、どこから犯罪事件に踏み越えたのか、見落としてしまいそうになる。その印象を造っているのは、『阿部定』がいつも男女のなかの問題を、身の振り方の転機にしていること。男女のなかの問題が、「男女、7歳にして席を同じゅうせず」という旧倫理に対抗する、「恋愛」という新倫理ではなく、色恋沙汰という、庶民の欲望に流れる不良性に一貫していることにあるように思える。
『無限回廊』では、事件=『愛のコリーダ』が終わったところからの文章に、そうだったのかと認識を新たにすることを読んだ。ひとつは、2.26事件の勃発があった昭和11年という世相のなかで、『阿部定』が事件後、大変な人気者になったという報告である。例として1部の新聞などで「世直し大明神」とまでよばれたこと、また獄中の『阿部定』に、400通以上の結婚申し込みが来たこと、などが書かれている。もうひとつは太平洋戦争敗戦後、『阿部定』が劇団に所属し、自ら『阿部定』劇のヒロインを演じて全国を巡業した、という報告だ。それは生業のためだったといえば、理解はできるものの、やはり自分で自分の事件を演じて巡業するということには、何か尋常でないものを感じた。

その後わたしは、同じ市内ながらM町からS町にマンションを買って引っ越し、通勤電車の駅に通う道も変わった。そして『阿部定』さんの家の前を通ることも永いあいだなかった。
何年か経ってから、友人にテニスに誘われて、コートへ行く道筋としてその道を通った。
阿部という姓は同じだが、名前がちがって門標は変わっていた。板塀にそって並べられていた、たくさんの鉢植えの朝顔なども見当たらず、家の主の代わった気配があった。あのステテコ姿で掃き掃除をしていた『阿部定』さんは、もう亡くなったのかもしれないと思った。

わたしは自分自身の名前としっくりしたことがない。周りのひとに訊いてみると、そういう気分をもっている人達はけっこう多いようなのだ。ただわたし達は、江藤淳が『昭和の文人』で論じているように「任意の親の任意の子」であることは出来ない。だから、初めは苦く感じたお茶の味にも慣れて行くように、名前との齟齬をも親しんだ風味として生きて行く。
だが、自分の姓名を言うたびに『阿部定』が脇に立ち、つねに同行者のいる『阿部定』さんの人生は、ある苦節であったろうと思う。そして『阿部』も『定』も、姓と名としては珍しいものではないから、事件前に産まれて、同姓同名となったひと達は案外多かったのではないか。

「大日本帝国」と国号が統一された年に起きた『阿部定』事件から、もう70年経っている。

...もっと詳しく
最近、昔の知り合いの顔を30数年ぶりに見るという機会が、2度もあった。

1度目は例の洋画家和田義彦氏の酷似絵画の問題で、文部文科学省・文化庁の事務次官が、テレビで釈明会見をしたときだった。
画面の下に肩書きと名前のテロップが出ていた。
見覚えがあった。
おお、彼の名前じゃないか、と気づいてマジマジと画面を見詰めた。
確かに彼なのだが、30数年ぶりに見る姿形は、どこもここも緩んでいる。
ボカシが掛かっているのである。このことは、私自身にも同様のことが起きていることを、ただちに了解させる。
テレビの中の映像からは、なかなか焦点を結ばない若いころの彼の姿を探して、
わたしの視線は、クンクン地面をかぎまわる犬の仕草のようなのであった。

2度目は行きつけのイタリアンレストランの立ち飲みコーナーでのことだった。
そこでわたしは、モンテプルチアーノダブルッツォという赤ワインを、28杯飲んだという人を知った。
噂の酒豪と、会えば挨拶を交わし、時の話題について話し合ったりもした。
あるとき彼から、映画が好きで上映会を企画していることを聞いた。
ほうどんな映画をと問いかけると、「初映はゴダールの『勝手にしやがれ』」と答えた。
それから、映画の話題に話しが弾んだ。
『リトアニアへの旅の追憶』のことを話すと、
「同時期に、日本でも個人映画をやっていた若者がいましてね」と、ある個人名をあげた。
それはわたしの知遇の名前でもあった。
お互い何処で個人映画の作家と知り合ったのか話してみると、渋谷のアップルハウスという所に行き着いた。
アップルハウスは、30数年前ビートルズファンの会が、解放区として渋谷に確保した住居であった。
70年代の、野放図な自由に放たれた若者達が出入りしていた。
わたしは思い出した。
目の前にいる彼は、そこの主催者の1人だった。

若いころの姿は、私たちの中に潜んでいる忍びの者になってしまった。
分身の術で現そうとしても、すでに術は覚束ない。
ながいあいだ泥土に馴染んで、隠れ忍の草として過ごし、自分自身の正体も今は分からなくなってしまった。
敵は誰、味方や仲間は誰だったか。

そうだったのか、まあ、今夜は呑もう、と酒豪は言った。

土曜日の朝6時頃、ヨークシャーテリアのななこがやって来てわたしの部屋の扉を開けろ、とガリガリ爪をたてた。
扉を開けて、はしゃぎ娘が来たからには、ああ、もう眠れないと覚悟して、机の上の読み止しの本を取った。
そのとき机の上にあったペットボトルに手が触れたらしいのだが、気がつかなかった。
わたしはスノコベッドに入って、腹の上に載って来たななこを片手であしらいながら、本を読んでいた。
そのうち、ななこはわたしの手にじゃれることに飽きたらしく、腹の上から何処かに行ってしまった。
本を読んでいるわたしの耳に、小さなカチカチという音が聞こえて来た。
ななこが何かを齧っているのかと思って、回りを見てみたがななこの姿はなかった。
机の下に潜り込んで何かしているのかと、机の傍にも行ってみたが、そこにもななこはいなかった。
けれどもカチカチという音は、机から聞こえてくる。
見ると電源を切ってあるはずのノートパソコンが、ONのランプを点灯して聞き慣れない音を発している。
あっと思って見ると、ペットボトルがノートパソコンに倒れ掛かって、中のミネラルウォーターが、容器の半分ちかく流れ出してしまっていた。
ONのランプは点灯しているが、画面が真っ暗だったので、一度電源を切ってまた電源を入れた。
WINDOWSの文字が現れて、画面はまた真っ暗になってしまった。
もう一度電源を入れてみると、『オペレーティングのソフトが見当たりません』という文字が現れて画面はまた消えた。
それが、これまで5年間ちかく使って来たノートパソコンからの、最後の挨拶だった。
いわゆる水濡れ故障で、わたしのノートパソコンは成仏してしまったのである。

ペットボトルによる水害というものも、稀にあるものなのだ。

powered by samidare