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『涙を、獅子のたてがみに』という映画の一場面をよく思い浮かべた。
終わりの場面かもしれない。

若い女性が海辺に立って、彼方を見ている。
夏の雲が流れ、水平線を船が行き来し、
しだいに暮れなずんで行く中に、女性はいつまでも立ち尽くしている。

その情景が担っていた感情を考えてみたこともある。
時がながれて行っても固定されている悲しみ、私はそう思っている。

可憐だった加賀まりこ。

言葉をどう繋げばいいか困るが、そこにドスンとお地蔵様が落ちて来た、
加賀まりこが動けなかった位置に。

あの、砂の上にあるお地蔵様を見に行こうよ、と奥方が言う。
私は二頭の犬のリードを離して、
ももちゃんぐむ、ななちゃんぐむ、走るぞ、と声をかける。

これ、可愛いね、お地蔵様と並んで立って奥方が言う。
ご当地キティみたいだね、と私が答える。
ももとななは、熱心に足元の匂いをかいでいる。
そういえば、キティちゃんのモデルが加賀まりこだったっていうのは、
有名なはなしよね。それって、団塊のつくった都市伝説?。

いま何時、わたしが訊くと
ソウネダイタイネ、奥方は『渚のシンドバッド』を歌いだす。
カラオケは不得意なくせに。
音楽と官能と味覚はいたずらな三人姉妹で、多くを費やして悔いることなく、

誰かが私を味見している。
チャングムの美しいイ・ヨンエは、一時味覚をうしなってしまって、多くの苦難を
小さなふたつの舌が、額と喉をなめている。
こらこら、耳のなかまでなめるんじゃない。
わかった、わかった、
何が。永遠が。
海と溶け合うお地蔵様が。


解題『考エゴトヲシテイルウチ、ウトウト夢ノナカニ。オ嬢犬タチニナメラレテ、現ヘ』

もう3年前のこと。

会社の役員の一人Hが、インフルエンザをこじらせて肺炎になったことがあった。
本来なら入院して治療しなければならない程だったが、病室の空きがなく、しばらく薬をもらって家から通院していた。
5日も家にいることが続くと退屈になってきて、まだ顔色も青ざめていたが出社し始めた。
木曜日、金曜日と会社に出て、土曜日曜の休みをはさんで月曜日に出て来たときには、周りの者にも回復の兆しがはっきりと分かった。

それから2日後、外に昼食をとりに出掛けたH役員が、会社にもどって食後服用の薬を飲もうとしていた。
薬袋を見て、「ありゃりゃりゃりゃりゃー」と奇声を発し、顔を引きつらせている。
どうしたんですか、と何人かの社員が周りに集まると、黙って薬袋を差し出した。
見ると袋には、薬の説明が次のように書いてあった。

******錠  うつ病 尿失禁 の薬
******錠  前立腺肥大 の薬
何処で誰がまちがったのか、H役員は肺炎治療とはまったく関係のない薬をのんでいたわけだ。

怒り、恐怖、、動揺、さまざまな感情の嵐に襲われて、H役員の顔色は赤くなったり青くなったりいそがしかった。
周りに集まった者もひとしきりざわめいていたが、社員の一人が
「しかし、こんな肺炎と関係ない薬をのんでいても、しっかり治られるんだから、H役員はほんとに体が丈夫なんですね」と奇妙に感じ入った。
すると皆もそれに同調して、いやいやH役員は間違った薬にも負けない丈夫な体で、大したものだということになった。
感情的に混乱した辛い場面だったが、そんな風にほめられてしまったH役員は、周りの者に怒ることもならず、「いやあ、えへへへへ」などと、ただ苦笑をしていたのだった。

(んだんだ方言掲示板過去ログから転載します)

きょうの朝、銀行さよって外為の仕事さんなねがら、ちぇっと遅ぐ通勤バス
さのったんだ。
ほしたら、2つくらいバス停すぎたとごで、赤ちゃん抱えたお母さんが乗ってきて、
オラが座ってる、前の席さ座ったんだ。
お母さんは赤ちゃんば、胸合わせるみだいに抱いっでから、ちょうどオラの顔ど
前の座席の赤ちゃんが、顔見合わせでしまうんだっけ。
ほしたら、なにが気に入ったんだが、ほの赤ちゃんは、オラの顔見で、ニコニコ、
ニコニコしてんだっす。
「あらら、おじちゃんのこど、気に入ったの(・・?」なて合図ば、目と口で送ったり
しったんだげんと、すこす遊ばせる気になて、
顔下むげで、「ひかりあれー」なて、オラの、光在る頭頂ば、赤ちゃんさ、見せつけでみだんだっす。
ほしたらほれが、赤ちゃんに大うげで、きゃっきゃ、きゃっきゃなんだっす。
2,3度くりかえして、遊ばせで、フト対面の優先席さ(^.^)向けで見だら、
優先席さ座ってだおばあちゃんも、ヘンナオジサン、ば、笑ってだっけっすう。
振り返ったお母さんも、ヘンナオジサン、ば、笑ってだっけっすう。

ほうして見られっど、さすがに恥ずがすいっけ。
んだげんと、笑って始まる、いい朝だっけな。

高校生の悪ガキ4人が集まって相談した。
女の子に声をかけて、つきあった経験があるかどうか。
誰もなかった。
やってみることになった。
4人が在籍している高校の東に、女子高があって、
並木の坂道を女子高生たちが通学していた。
手っ取り早く、これを誘ってみようということになった。
根性をきめて、なんぱに出掛けた。
ところが坂道に行ってみると、
歩いてくる女子高生がほとんどいない。
女子高生は、バスや自転車に乗って帰宅してゆく。
しょうがない、自転車の女子高生をつかまえよう。
じゃんけんで順番を決めた。
決心する間もなく、
おさげのセーラー服が自転車でやって来た。
先発君が駆け足でスタートした。
あ、あのっ、お茶のみませんか。
えー、おさげの顔が歪んで、目がまんまる。
気持ち悪―い。
こぐこぐ自転車。
あのっ、ちょっと、お茶、はあはあ、お茶。
おさげは見る間に遠くなった。
安全地域から何度かふりかえって、見えなくなった。
2番目君、3番目君スタート、
以下同文。
ポニーテールの自転車が走ってきて、わたしの番になった。
駆け足で伴走するかっこうになると、えっ、とこちらを見た。
お話しませんか。
わたしを見ている。成功するかも。
ちょっとの時間、話しませんか。見ている。
自転車をこぎながら見ている。
んー、今日はいいや、あーはははははは。

ポニーテールも去って行った。

三鷹で会社をやっていたころ、駅前の取引銀行に行った帰り、連雀通りの禅林寺前を通った。交差点から西へ10m程の所に、芸術文化会館という建物があって、見ると『太宰治展』という催し物の看板が出ていた。仕事の途中だったが観て行く気になった。

三鷹は太宰治が晩年を過ごした土地で、住居跡や仕事部屋だったところや太宰通りといわれていた小路など、いろんな足跡が残されている。ただ晩年とはいっても、太宰治が入水自殺したのは39歳のときだったのだから、現在の基準からみれば、人生の半ばで、若くして亡くなった伝説の作家である。

私は中学生のとき、初めて太宰治の小説を読んだ。姉が新潮日本文学全集を定期購入していて、その1回目の配本が三島由紀夫、2回目が太宰治だったように覚えている。姉、買う人、私、読む人、という関係だった。配本されたものを次々に読んで行った。そして、高校生になったころは、ちょっとした文学少年の気分だった。
高校に入って、文学好きの上級生の友達が、2人出来た。放課後、いつも3人で議論をしていた。競い合う若いこころは、先端に向かって逸る。あっという間に、小説はアンチロマン、評論はニュークリティシズムというものが、話題の中心になった。今、思い出そうとしても、ニュークリティシズムというものがどういうものだったか、全く思い出せない。アンチロマンの方には、ロブグリエという作家がいて、『神の視線でではなく、人間の限定された視線で小説を書く』と主張していた。ロブグリエの小説を読んでみたが、私には面白いとは思えなかった。ロブグリエの主張を支持する1人の上級生と議論になった。そのとき、私は太宰治を自分の味方にして、理屈を言った。「太宰治の小説だって、神が定めたような運命の筋書きはなく、人間の視線から書いた文章じゃないのかな・・・・・」何だかだと言葉を費やして、要するに、アンチロマンの小説実作は太宰の小説より面白くない、と話したのだった。上級生は、なんて藪から棒の比較、違うんだよ、困るんだよなという反応だった。

『太宰治展』には、太宰治の簡単な履歴の紹介から、文学的な業績への論評などがあり、直しの入った小説の手書きの草稿や、書簡、そして太宰治の写真と、当時の三鷹の風景写真などが展示されていた。中で、そのとき私が一番興味を持って観たのは、太宰治が三鷹税務署に出した、税金の減免願いの手紙だった。
『*三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、襖のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、*子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。』
会社での税務の仕事は私がやっていて、三鷹税務署の調査も4回程受けている。その経験から判断すると、太宰治の手紙の文章は、ただ紋切り型の哀願で、これじゃ何の効果もない。数字の裏付をもったフィクションを動員するか、君の小説のように開き直って、ついでに納税の原資も探し出してください、とでも書かないとだめなんだよ、太宰君。私は軽薄な年上ぶった気持ちになって、これを笑いながら読んだ。そして、だけどこの手紙の文面は、どこかで読んだことがある、という既視感が残った。

その既視感の原因が分かったのは、『太宰治展』で税務署への手紙を読んでから、約4年が経過した、つい最近のことだ。
私が手紙の文面として上に引用した文章は、『如是我聞』という、太宰治の主に志賀直哉に対する論跋文中のものである。いつのことか思い出せない昔、私はそれを読んだことがあったのだ。そして、*ではさんだ部分は、税務署への手紙の中にもあったと思う。
『如是我聞』は最晩年の必死の文章である。周囲に反論をうながされた志賀直哉は、『死の覚悟をしているひとの背中を押すようなことは出来ない』と答えたそうである。私は笑いながら読んでしまったが、『如是我聞』と三鷹税務署への手紙とは、前後して同時期に書かれていたものなのだろうか。

三鷹市は筑摩書房との共催で太宰治賞を運営している。吉村昭、宮本輝、高井有一などの作家が受賞している。
私が高校生で、ロブグリエについて論争していたとき、それを脇で聞いていたもう1人の上級生は、今この太宰治賞の選考委員をしている。加藤典洋さんという。『アメリカの影』『敗戦後論』『戦後的思考』『小説の未来』『テキストから遠く離れて』などの著作をもっている。
『敗戦後論』の中の『戦後後論』という論文で、加藤さんは,太宰治を有力な味方にして論を運んでいた。深い切実な読みに基づいて、『私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらした。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。』『時代は少しも変わらないと思う。一種のあほらしい感じである。』という、手ごわい味方を現在に出迎え、伝説とはまた違う太宰治像を差し出している。

『敗戦後論』は私が、繰り返し読んでいる本の内の一冊である。

中学2年生のとき、同級生の女生徒に『クオレ』という小説の本を貸したことがあった。本は1週間ほどして帰ってきた。
1ヶ月くらいたってから、自宅でその本をめくって見ていると、頁のあいだに、四葉のクローバーの押花が挿まれているのをみつけた。
それから、だらだらした困惑が始まった。
何か意味があるのだろうかといぶかしんで、押花が挿まれていた頁を、何度か読み返してみた。
その頁には、不仲になっていた友達同士が和解して、友情を復活させる感動的な場面が書かれていた。
考えてみたが、自分にとっての意味はくみ取れなかった。
けれど、何も意味がないということも飲み込めず、困惑はつづいた。
気がつくと私は、教室の左斜め前の席にいるその女生徒の横顔を、よく眺めているようになっていた。

昨年、暮れに図書館へ行ったとき、ふとそのことを思い出して、『クオレ』の押花が挿まれていたと思われる箇所を捜して、読んでみた。草の栞の意味は何だったのか、産まれた赤ん坊が、自分の子供さえ生すほどの時間がたってからの、検証である。

俗な言い方だが、歳はとってみるものである。
その数頁をよく読んでみると、友達同士の和解と友情の復活は、それに先立ってお互いのこころを告白し合うことで築かれていた。友情でも和解でも復活でもなく、『こころを告白し合う』ということがキーワードだったのかもしれない、とすぐ思い当たった。さすがに人生の出発点で、『よくわかる現国』を人より多く、二年も読んで来ただけのことはあった。

過ぎた日の思い出は  みんな君にあげる  ゆうべ枯れてた花が  いまは咲いているよ

自転車にのって口ずさみながら、図書館から帰った。信号待ちの交差点で、サイクリングの集団に深大寺への行き方を訊かれた。妙に心身を軽く感じていたおじさんは、ついでに、盛りの好い蕎麦屋の講釈までしてしまった

地図と衛星写真を開示するGoogle mapを進化させた、Google earthというソフトが公開されている。ソフトをインストールして起動すると、3D画像の地球が現れる。ハンドのポインターで地球を自由に回転させ、好きなポイントを選んで接近し、自分の家が確認できるほどの精密な画像を見る事ができる。

いろいろ操作して遊んでみた。関東や関西の都市部の俯瞰画像は精密なのだが、わたしの田舎、山形の実家を見てみようと思ったら、そこは粗い画像しかなかった。それでも霞城公園や馬見ケ崎橋という目印になる地点は判別できて、引いたり接近したりして見るのは面白かった。

少し乱暴に操作してみるのも面白い。東京の三多摩地区にある我が家に、ぎりぎり接近し、そこから急激に引いてゆく。すると、我が家をロケット発射基地にして、宇宙に開放されてゆくヴァーチャル体験をする事ができる。地球がピンポン玉くらいの大きさになる。

わたしの会社では、唐くんという上海から来ている留学生がアルバイトをしている。Google earthでいっしょに彼の実家を探してみた。上海鉄道駅から、西に2キロほどの集合住宅の1棟を探し当て、「お父さんとお母さんと、ここにいるんだよ」と感激している。唐くんもしばらく操作して遊んで、急激に引くのと反対に、急激に接近するのも面白いという。

中国は北京、天安門をサーチターゲットにして、急接近の操作をしてみた。
さながら、大陸間弾道弾での特攻のようだった。「マンスイマンスイ」と唐くんは呟く。そして、皇帝たちの観覧台に激突したと思われた後、もやもやした緑の雲がひろがって、それが微妙にふるえている。原生的な何かの細胞が、蠢いているようだった。

...もっと詳しく
10月末、小泉内閣の改造があった。大臣の顔ぶれについて、いろいろな論評があったが、誰も指摘しなかったことをひとつ挙げる。

大臣に禿げがいない。

ソヴィエットのアフガニスタン侵略を予測した大蔵雄之助は、彼の国の政権が
禿げ(レーニン)→蓬髪(スターリン)
禿げ(フルシチョフ)→蓬髪(ブレジネフ)
禿げ(アンドロポフ)→蓬髪(チェルネンコ)
禿げ(ゴルバチョフ)→蓬髪(エリツイン)
禿げ(プーチン)→?
と推移する法則をも、発見指摘している。だから、禿げであるかいなかが政治的に重要である、ということもある。

レーニンに始まる政権の振り子は、禿と蓬髪の間を規則的に行き来した。しかし、レーニンに始まる前衛党は、ロシアに建てられた哲学国家の、無頼漢として振舞った。
人類の未来を僭称する共産主義が実現したのは、帝政時代のものをさらに過酷にした、第二次農奴制とでも形容する他ない体制だった。

打ちひしがれた人びとの心が、『おまえは今日死ね、おれはともかく生き延びる』を実行するしかなかったとき、『民を思い、国を憂える』まっとうな政治の意識は、痛々しいミハイル皇帝のような姿で現れる他なかった。今の言葉でいえばトンデモ本の内容にも見える、『民を思い、国を憂えた』言動は嘲笑され、こづきまわされ、収容所群島ルビヤンカ監獄に流嫡する。
しかしこのミハイル皇帝の考えは、帝位を括弧で括ってみれば、一市民として実にまっとうなのである。http://lavo.jp/higetono/lavo?p=log&lid=10890 参照ください。

こんなこともあるのだ、と、私は自分の足下を見ながら思う。

こんなこともあるから、日本人は憲法を作り直そうという時がきても、天皇制との同居を手放せないのだろうか。兵もなく従者もない皇帝だけがまっとうである、こんなこともあるのだからと。


三島由紀夫の小説『豊饒の海』第1巻『春の雪』は、華族の男女の悲恋物語である。最近映画化されたようだが私はこれを観ていない。たぶんテレビででも放映されない限り、観ないだろうと思う。
この悲恋物語は主人公の松枝清顕が恋死し、綾倉聡子が仏門に入って閉じるのだが、第4巻『天人五衰』の終局に、後日談がある。
老齢の尼僧となった聡子が登場し、舞台回し役である本多から、清顕との恋物語の顚末を問われる。世俗からだけではなく、記憶からも離れてしまったらしい聡子は、清顕をまったく知らないと言う。
「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」
清顕が存在しないなら、聡子も自分も現実も、何も無いことになるという本多に対して、聡子はさらにこう言う。「それも、心々ですさかい」

心々の出来事を、近くでも見たことがあった。

友人Sの事務所の引越しを手伝いに行ったときのことだった。
もうすぐ年末になる頃の引越しで、税理士をしているSは、まだ机の中の整理をしていた。こんな時期に引越しなどするべきじゃないのだが、賃借の期限の区切りがどうしようもなくて・・・・と、いい訳をしながら引き出しをかき回している。Sは一冊の画集をとりだして、不思議そうにながめていた。「どうしてこんなものがしまって在ったのかな?」と独り言を呟いて首を傾げている。のんびりしていたら終わらないぞ、と私が苦言を呈すると、その画集は捨てる物の山の上に、無造作に放られた。

緊急電話が入って、Sは顧客の要件で30分ほど外出することになった。指揮官のいない現場は休息の時間になって、私は先刻Sが捨てた白い表紙の画集を手にとってみた。『ロバート・ライマン 至福の絵画』、帯には『白のうえの白が詩をつむぎだす画家』と書かれていた。最後の頁を開いてみると、さっぽろあかしや美術館から、5年前に出された画集であることが分かった。頁をめくってもめくっても、白い絵の写真があった。冬の日の札幌で、この真っ白な絵の展覧を観るのはどんな気持ちだろう、と思ったとき、画集がそこにあった来歴が思い浮かんだ。

5年前、Sは深刻な家庭争議をくぐり抜けたことがあった。
発端は、いるはずのない千歳空港でSが若い女性と連れ立っているところを、知人に目撃されたことだった。それが妻女に伝わり、家庭の空気が不穏なものになって、思春期の子供たち2人も知るところとなった。私にはありふれた浮気騒動としか見えなかったが、子供たちも含めた、当事者たちの焦燥は激しかった。逢うたびにSの人相が変わっていた。青山1丁目のレストランに私を呼びだして相談を懸けてきたSは、「オレの場合はマルゴーじゃなくてバローロで乾杯かな」と、心中に至る不倫小説を暗示して、力なくわらったりしたこともあった。薄氷のうえをわたるような時間はどのくらいだったろう、2ヶ月くらいだったろうか。その年が明けて、Sの相手の女性が失跡して終わった。

『ロバート・ライマン 至福の絵画』は、Sが5年前の札幌への旅で持ち帰って、机の奥に隠されて来たのかも知れない。札幌でこれらの白い絵を若い女性と連れだって観ていたSは、新しい生活を始める清新な感動にうたれていたのだろうか。そして、女性が失跡してからのSは、毎日心のある部分を塗りつぶして過ごし、もう思い出もない真っ白を固形させたのだろうか。同じ白とはいっても頁を繰るたびに変化する質感の絵も、それを遠く隔てて忘れてしまった心々も、私にはよくわからず、おもえば茫々と風が吹いているようだった。

Sが仕事から戻って騒々しさが再開した。私は捨てる物の山を抱えて外に運んだ。

捨てられている本の風情はとても寂しい。古びて頁のめくれた文庫本も写真の多い豪華本も、それぞれの姿態でうち伏している。


*ロバート・ライマンは実在の画家だが、さっぽろあかしや美術館は存在せず、したがって画集もそこからは出版されていない。

事務所を整理していて、書類棚の中に古いアルバムをみつけた。
アルバムのなかの写真には、白いチルデンセーターを着たわたしがいた。
社員がまだ八人だった頃、みんなで那須へバーベキューをしに行ったときの写真だった。
紅葉した山々を背景に、食材を運びながら、若いわたしが手を振っている。
河原を通りぬける秋風に吹かれて、長めのわたしの髪が乱れていた。

その感情は不意に来た。
なぜか、豊な髪をそなえた写真の自分が、恥かしかった。
事務所の中にわたしは一人で、誰もいなかった。
だからこれは、他人に対して恥かしいというのではなく
現在は僧形の頭となったわたしが、若いわたしの風に乱れる髪を見て、
なんとも、困った感情に立ちつくしていたのだ。

なにゆゑに こゝろかくは羞(は)ぢらふ
禿愚への道も、ただまっすぐではないのである。



70年代半ば頃までは、納涼という売り文句で、怪談映画を懸ける映画館があった。
京都の友人のところに遊びに行って、盆地の蒸し暑さにたえられず、涼をもとめて昼から3本立を観に行った。3本合計4時間弱、怪談映画のおどろおどろに付き合う物好きは、その頃でももう少なかったのだろう、館内は人もまばらに空いていた。2列前にひとりですわっている、若い女性の後ろ姿が目立った。

1本目の映画が『怪談 累が淵』ということはおぼえている。が、他の2本は題名も思い出せない。
1本目も2本目も、とにかく按摩が殺された。死体が古井戸に投げ込まれて、滑車がカラカラと音をたてる。不意に、前を走りぬけようとした黒猫が日本刀で切られた。断末魔の鳴声があがる。地から湧き出てくるような打楽器の不安な効果と、悲鳴のような笛の音。そして蚊帳の外に、誰かがぼんやりすわっている。手水鉢の水面にも、波紋のように誰かの表情が浮かんで・・・怖いものみたさの、和風な必需品の、総ざらえである。

話が逸れてしまうが、あるとき、この日本の怪談の怖さを、全否定する意見を言われたことがあった。年上の友人W.R.Aさんはドイツ系アメリカ人で、日本の幽霊が何故怖いか分からない、というのであった。凄惨に傷ついた顔や、損なわれた人生は気の毒だが、幽霊はそこに立っているだけでしょう。睨んだりしているだけでしょう。怨まれている人に、実害はないじゃないですか。悪いことをした人が罪悪感のストレスから、幻想を見てしまうのかもしれないけど、心の強い悪人には、現れないことになるでしょう、というのであった。
そう言われてみれば、『怪談 累が淵』の種本になっている、円朝=『真景 累が淵』の『真景』とは、元々神経衰弱に懸けてつけられた題名なのだそうだ。伝統芸能の名人とはいえ、さすがに円朝は文明開化の世の人で、語りの表現技術は意識的なものだったのである。
W.R.Aさんに幽霊は罪悪感のストレスと言われて、笑って肯いたが、そのとき思いが流れた。W.R.Aさんの国の、戦争悪が生んだ幽霊は、東京大空襲10万霊、広島・長崎に18万霊もさ迷っているのに、こころの強いアメリカ人は、幽霊を見ないというわけだ、と。
別のときに、そのことについて、W.R.Aさんと議論をしたことがあった。だが、太平洋をなかにして戦争で向き合ったアメリカ人にとって、日本人はあくまでも、真珠湾で災いをせしもの、ポツダムの地でこころを滅ぼして、身を滅ぼしえぬ、弱きものの子孫なのであった。
ではW.R.Aさんは、何が怖いのだろう。西洋のフランケンシュタインとかミイラ男とかドラキュラとかのモンスターは怖いのか、と訊いてみた。W.R.Aさんは、狼男が一番怖いんだね、と、ドイツの黒い森の深い奥を思うような表情で答えたのだった。

『怪談 累が淵』が終わって2本目の映画も半ばになると、友人は飽いて、筋書きの先読みを始めた。ああ、この商人は殺される、沼に沈められるけど浮かび上がる、あの女は色と物の欲で裏切って祟られる、などと。
2列前にひとりですわっている、若い女性が時々こちらを振り返るのに気づいた。薄明かりのなかで、少年のような顔が振り返って、表情が少しゆるんだ。気にしていると、若い女性は、映画が擬音を伴った佳境にさしかかろうという場面になると、振り向いて、自分が一人ぼっちではないことをたしかめているようなのだった。人もまばらな館内の闇は、それ自体無用心なものかもしれず、女性ひとりの心細さは、そうだろうと思えた。次に振り向いたとき、視線をあわせて肯くと、女性も笑顔を返してきた。

2本目の怪談映画が終わると、友人はもう出ようと言った。おどろおどろはもう満腹だった。
友人が2列前にいる若い女性に「ぼくらはもう、帰るよ」と声を掛けた。『この応答は京都弁だったのだが、再現する能力がないので標準語で書く。』すると若い女性は「そんならわたしも一緒にでる、待って」と出口の方について来た。ジーンズの短パンに、白いノースリーブのニットを着て、肩から小さなショルダーを下げていた。ショートカットがよく似合った。

私達は四条河原町の喫茶店の席に落ち着いた。
「ぱいこです」と、若い女性はニックネームで自己紹介した。思わず、胸元を見た。
「みんなそう思うみたいね、違うでしょ。残念でした。円周率のパイなんです。あのずうっと割り切れない、3.141っていう、その先は覚えてないけど」
ぱいこちゃんは、兄がやっているスナックを手伝っている、と話した。客に、いくら話してもよく分からない娘だというのでそう呼ばれた、面白いから自分でもそう言うの、と説明した。
本職は学生で仏文科にいるということだった。友人は関心を覚えたらしく、今晩もお店を手伝うなら、一緒に行きたいと言った。
まだ1時間半くらいそこで過ごしてから、街に出た。
20分ほど歩いて、私達は一緒に『うなせらでぃ京都』という灯り看板の店に入った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
京都弁の記述が不如意で、調子が出ない。この話はこのまま尻切れトンボで終わることにする。
この晩以後、私はぱいこちゃんに会ったことがない。友人は半年ほど、密度濃くつきあっていたらしい。
新聞の報道によると、現在の算数では、円周率は3で計算することになったということだから、割り切れないという理由で、ぱいこというニックネームを思いつく人は、もう現れないだろう。
私は暫し考える、ぱいこちゃんは人生の何処まで、よく分からない娘で行けたのだろう。結婚はしたのだろうか、子供も産んだのだろうか、と。
しかしそう考えることは、まったく余計なことであるし、誰の何の役にも立たない。ただ、そうしている自分を確認するだけだ。
終わりに、円周率を追悼して唱えておく。3.141592653589793238462虫さんざん闇に泣く。

図書館に行って本を物色していた。
『江藤さんの決断』という題名が目に付いて、手にとって見た。
そういえば、7月は江藤淳が亡くなった月だった。

『心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳』

『江藤さんの決断』は、江藤淳の自殺について寄せられた意見の文集だった。
近くの椅子に腰を下ろして、巻頭から2編を読んでみた。
愛惜の言葉はほとんどなく、インテリなどというものはつくづく弱いものだな、という感想が書いてあった。
読んでいるうちに、不快がつのってきた。
そして、江藤淳が亡くなった直後も、こういう不快な物言いを聞いたことがあったのを思い出した。
それは小説家 大江健三郎のコメントで、大意こういうものだったと記憶している。

『江藤淳の自殺とその遺書は、脳梗塞を患って、その回復に努めている人達に大変失礼なものだ』

大江健三郎は脳梗塞を患った体を、形骸と表現した江藤淳の言葉と、その後の身の処し方を批判している。
しかし、死に臨んで一身の絶望の深さを言い当てるときも、処世のようなこころ使いは必要なのか。
どんな良心らしきものに寄り添えばこうなるのか、大江健三郎の読みの歪み方に、欺瞞を感じて不快になったのだった。

朝日出版社からでているこの本は、死者に鞭打つという、珍しい編集動機から出来ている。
愛惜を伴わない、死者についての言葉を読み進めるのはつらく、この日は早々に図書館を退散した。

ももこちゃんとななこちゃんのうんこのことを書いていて、三十数年前のことを思い出した。

大学の夏休み、友人の家を訪ねた。
友人の父親にビールをご馳走になった。
どうしてそんな話になったのかもう思い出せないが、うんこの後のお尻の始末のことに話が及んだ。
友人の父は、お尻を紙で拭くとき、脚の外側から手をまわして行うと言い、
友人は脚の内側から行うと言う。
両者見解が分かれ、親子論争となった。
「お父さんのやりかたは変だよ。そんなんじゃよく拭けないでしょう。」
「そんなことはない、お尻は後ろに拭くもんでしょう。」
「後ろになんて誰が決めたの。そんなやりかた初めて聞いたよ。」
「おまえは何でも、生意気な言い方だね。話し方もお尻の拭き方も、お父さんはそんな風におしえた覚えはない。」
論争は過熱して行くばかりであったので、第三者が意見を述べることとなった。
わたしは内側派だったので、友人の父は立腹して席を外した。

友人は現在、文芸や社会について理屈を述べることを職業としている。
ご父君も健在らしい。
ウオシュレットが登場してからわたしは立場を変えて、外側派となった。

ネット掲示板に現れる、ひっかけ広告を山形弁に翻訳してみました。
山形弁は、悪徳にも気取りにも向いてないようです。


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父は幼いわたしを自転車にのせて、城跡のお堀に連れて行った。
緩やかにうごいているお堀は水草を浮かべ、
銀やんまがそこに留まったり、飛び立ったりする。
堀のむこう、城壁の上に植えられた桜の木立から、
みんみん蝉の声がふりそそぐ水際で、父は釣り糸を垂れた。

打ち込める趣味、というものを持たない父は、
その隙間をうめようとして、何度か他人の趣味を真似てみた。
薔薇の花作りをしてみたり、石を磨いてみたりもした。
どれもながく続いたことはなかった。

釣りは、隣に住む日露戦争の傷痍軍人、佐藤爺さんの日課を
見習おうとしたのだろう。

1時間経過しても魚の影は見られなかった。
わたしは、ただ水をみていることにすぐ飽きて、
草叢でかまきりの卵をとったり、離れたところで釣りをしている人の
バケツに入った収穫を見に行ったりしていた。
2時間たっても、釣り糸はぴくりともしなかった。

父は釣り道具を片付けると、草叢からわたしの頭くらいの石を拾ってきて
勢いをつけて投げ込んだ。どぼーんと、お堀の水の音が響いた。
一瞬、蝉の声が止んだ。
「おい、帰るぞ」と、怒った声で父は言った。

帰りがけに、父はアイスキャンデー売りを呼び止めて、
わたしに苺アイスを買ってくれた。
手渡しながら、「先刻のことは、家では言うんじゃないぞ」と言った。

父の面目を守るため、言ってはならない「先刻のこと」が、どのことなのか
幼いわたしには分からなかったので、
信義は半日も守られなかった。


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