老兵の半生(就職列車)

「頑張って、こいよ」口々に声をかける、見送りの人たち
父兄、在校生、先生方多くの人たちで、ごった返す
昭和33年三月の、長井駅ホーム。
中学をその月に卒業したばかりの、15、6歳の子供たちが
臨時夜行列車の窓から、顔を出し、ある者は涙を
浮かべながら、手を振っている。
近隣の地域から、集まった子供たちで一杯になった列車
が、ボウーと言う蒸気機関車特有の汽笛を、合図に
ゆっくりとホームを離れて行く。
勿論私もその一員でした。
一路列車は、真っ暗な闇のなかを、終点上野駅に向かって
走って行きます。その頃の日本の景況は
急速な投資拡大に、走っておりそれに伴って
急激な生産増大に伴う、労働力増大の必要があった。
こういった若年の労働者は、将来性が高いという意味と
安い給料で雇えるという意味から金の卵と呼ばれて
もてはやされた。就職希望者数に比べて求人数が著しく
著しく多くなった時期には、更に貴重であるとして
月の石と呼ばれたこともあった
職種としては単純労働(ブルーカラー)が主体であったため
雇用条件や作業環境もかなり厳しく、離職者も多かった。
各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、
戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境だったとも言われる
前述の事が、現実となって私が、実感するのに時間が
かからなかった。
"金の卵"と持てはやされ、各地より中学卒の企業戦士の
卵たちが就職列車に乗せられ都会地に多くが、
送り込まれる行為はその後数年に渡り行われた。
この年代の流行歌に、おさげと花と地蔵さんと」
「上海帰りのリル」「さようなら故郷さん」
「別れの一本杉」「ああ上野駅」等々がありました。
これらは故郷を離れる子供たちの、気持ちとか
集団就職で、新しい人生を切り開いて行こうとする
決意や、望郷の思いを歌った内容が多かったと
記憶してます。
・・つづく・・

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