老兵の半生(初めての職場)

就職列車で、上野駅に着いた私たちは、葛飾堀切町の
Hシューズ会社の総務担当の人に、引率されその場で
初めて知り合った、三人の仲間と共にチッキで運んだ
寝具を背に電車を乗り継ぎその会社に着いたのでした。
付く早々、荷物を食堂と言われる製品の入ったダンボール
が沢山置かれている、20畳ほどの板敷きの部屋の片隅に、
置くように言われ。そのままの服装で、各作業を行っている
所に連れて行かれました。
私が連れて行かれたのは、婦人靴のヒールを貼り付ける
工程の職場で、接着剤の強烈な匂いで、吐きそうでした。
前掛けを渡されすぐ作業をするように命じられ、
一通りの工具を預けられ、先輩の指導の下に
作業したのですが中々うまくいきません
遅いとか、へたくそとか、一日めから叱られどうしでした。
夕方七時、荷物を置いてある食堂と言われている部屋で
米穀手帳を集められ、私達のほか10名位の先輩たちと
食事を取ることとなったのです。
食事のおかずが、どんなのだったかは記憶にありません
しかしながら、丼飯を渡された時、とても食べる気が
しなかったのです。なぜなら其れは外米であり、普段
食べてきた山形のご飯とは、到底比較にならない不味さで
まずその匂いに食欲が、わきませんでした。
「食べなかったらよこしな」隣の先輩のいわれるままに
丼をわたすと、彼はたちまち食べてしまいました。
私はとても、悲しく第一目でもうホームシックでした。
其の後私たちは、就寝する部屋に荷物を持って連れて
行かれて、またびっくり其の部屋では、女の人たちが
婦人靴の仕上げをしており、シンナーの様な溶剤で、
汚れをふき取りながら、箱詰めをしておったのです。
やはり20畳くらいの畳の部屋で、壁一面に押入れが
付いておりました。しばらくして作業が終わり、製品
を片付けると、先輩がたが一斉に川の字に布団を敷き
はじめました。私たちを含めて十五人ほどの部屋が
作業部屋、兼、住み込みの人たちの寝室だったのです
後でやさしかった同じ山形出身の先輩に聞いたのですが
二三年すると、殆どのひとがアパートを借りて
そこから通勤するか、転職して行くのだそうです。
・・つづく・・

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