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軽鉄人物伝⑤ 床次竹二郎(その2)

  • 軽鉄人物伝⑤ 床次竹二郎(その2)
  • 軽鉄人物伝⑤ 床次竹二郎(その2)

   大正2年(1913年)10月26日の赤湯~梨郷間の開通を祝う米澤新聞に、「鈴木宮内町長の一粒種信太郎君が時めく床次鉄道院総裁の秘蔵娘を貰って喜ぶ間もなく」という記事が載っている。すなわちこれ以前に床次氏と鈴木幸松宮内町長は、顔見知りの関係にあったのである。また山形県議会80年史(P598)によれば、大正3年(1914年)の第31回帝国議会において、床次鉄道院総裁が、村山軽鉄を大正3年度中に着工すると発言した、とある。予算が不成立となり実現には至らなかったが、当時の床次氏の権限を知ることができよう。

   鈴木幸松町長は明治40年(1907年)から昭和2年(1927年)まで町長の職にあったが、国政の重鎮とのパイプの一つが宮内町にあったことは注目すべきことではなかろうか。また米澤新聞(明治30年10月27日)には、「長井町の有志者また宮内町の有力者と連合し長井町より今泉を経て宮内町を通過し赤湯停車場に出でんとする計画ありという」との記事がある。長井線建設に向けた民間サイドの動きについても、宮内町の役割は少なからぬものがあったと思われる。

 

【新聞記事提供:米澤新聞 大正2年10月26日記念号其二(一) 参考資料:米澤新聞(明治30年10月27日)、山形県議会80年史、ウィキペディア】

【写真は赤湯~梨郷開通時に制作された「記念カード」:ふるさと資料館(南陽市宮内)提供】

2019.07.03:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝⑤ 床次竹二郎(その1)

  • 軽鉄人物伝⑤ 床次竹二郎(その1)

 山形県の鉄道敷設物語に陰に陽に現れるのが、床次(とこなみ)竹二郎である。床次氏の略歴をウィキペディアなどから見てみる。慶応2年(1867年)鹿児島市生まれ。明治23年(1890年)東京帝国大学を卒業後、大蔵省に入省。明治27年(1894年)に内務官僚に転じ、宮城県や岡山県で勤務。明治29年(1896年)から2か年山形県書記官を務める。なおこの時期に県議会議員であり、その後国会議員となった方に長晴登、戸狩権之助がいる。

 床次氏はその後、徳島県や秋田県知事に任じた後、原敬内務大臣に認められて明治39年(1906年)に内務省地方局長に就任。明治44年(1911年)第2次西園寺内閣で再び内務大臣となった原によって、内務次官に起用された。この際に、村山軽便鉄道の建設に係る原との関係は「小林源蔵(その2)」で紹介したとおりである。長井線が開業した大正2年(1913年)に鉄道院総裁、翌年には衆議院補欠選挙に立候補し当選。以後、昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期の当選を果たした。大正7年(1918年)9月に原内閣が成立すると内務大臣兼鉄道院総裁に就任している。まさに、長井駅以北の延長ルートの決定が難航していた時期にあたる。

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【資料:官報第370号(大正2年10月22日)、山形県議会80年史、ウィキペディア 】

 官報の写真は「軽便鉄道あれこれ」に掲載したものを再掲しています。    

 → http://samidare.jp/orada2/note?p=log&lid=467560

2019.06.29:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝④ 清水徳太郎(西置賜郡長)

  • 軽鉄人物伝④ 清水徳太郎(西置賜郡長)

 これまで見てきたように、長井線の建設経過の中で、最もドラマティックな事件の一つは、長井以北のルート決定過程ではないだろうか。これまで、小林源蔵氏、長晴登氏、さらに荒砥町関係者などの動きを紹介してきたが、西置賜郡長にもスポットを当ててみたい。

 西置賜郡長には17人が就任しているが、その中で興味深いのは第12代清水徳太郎である。ウィキペディアで清水氏の経歴を概観すると、明治15年富山県出身で東京帝国大学大学院を卒業後、明治43年(1910年)鉄道院書記となる。以後、鉄道院副参事、参事を歴任。その後、内務省に転じ、大正7年(1918年)8月5日から翌年7月まで西置賜郡長に就任。その後、栃木県や奈良県等の職を経て山形県内務部長に着任している。1927年に和歌山県知事に就任するも2カ月で休職した後、昭和3年(1928年)2月の第16回衆議院選挙に山形県2区から出馬(立憲民政党)し当選。以後、第20回選挙まで連続5期当選を果たしたという。

  清水氏が西置賜郡長であった時期は、鉄道省の最上川右岸ルート案に対して、左岸側4か村の猛烈な反対運動があり、難航した時期である。この時期に郡長に着任した清水は、鉄道は西通りとし、東根村と蚕桑村の間に架橋(睦橋)を県費で建設することで調整したことが白鷹町史(P1243)に記されている。また、この橋の名前が、蚕桑村と東根村の親睦を願って命名されたとの伝聞も紹介している。

 ここに鉄道省出身の小林代議士と清水郡長、さらに原敬内閣発足時(大正7年9月)に内務大臣兼鉄道院総裁に就任した床次竹二郎氏ら、そうそうたるメンバーが会することになるのである。蛇足になるが長井村役場焼討事件で有名な木村信宝氏は、第8代郡長である。

 

【写真は西置賜郡役所(長井市史第三巻)、参考資料:白鷹町史、長井市史、ウィキペディア】

2019.06.27:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝③ 荒砥町5人衆(その2)

  • 軽鉄人物伝③ 荒砥町5人衆(その2)

 さてこうした荒砥町の軽便鉄道にかけた情熱は、どこから生まれたのでしょうか。その一端が知れるものとして、大正12年4月22日に掲載された荒砥町長の談話を紹介したい。

 

 荒砥は最上川舟運の時代は交通の要衝であり、置賜村山の物資の集積地であった。それが奥羽線の開通後は赤湯が拠点となり、長井線の開通により長井町が地方の中心地であるようになった。このままでは荒砥は廃れるばかりである。荒砥までの延長によって、奥羽線と連絡できた事は喜ばしいが、今後は左沢と結び仙山鉄道と坂町線によって仙台、越後と直接交流することが必要だ、というのである。当時の荒砥町の危機感と夢の大きさを感じるものである。

 

 荒砥駅の開業は15年以上の闘いの歴史であった。「天地人」ではないが、天の時にも恵まれず地の利もなく、人の和のみで挑んだ戦いであったのだろうか。新聞記事で「近い将来、村山左沢と接続することは既定の事実である」と評された左荒線も、何度も紆余曲折を繰り返しながら、結局は実現されることはなかったのでした。

 

 

【新聞記事提供:米澤新聞 大正12年4月22日(二)】

2019.06.23:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝③ 荒砥町5人衆(その1)

  • 軽鉄人物伝③ 荒砥町5人衆(その1)

 軽便鉄道建設に貢献した人物を調べて来ましたが、地元の住民等の動きが最も見えるのは荒砥町であるように思えます。この機会に荒砥町における建設運動の経過をまとめ、荒砥駅開通式に期成同盟会長であった大貫忠右エ門氏を含めて荒砥町5人衆として、その情熱の源泉を探ってみたい。

 明治43年4月に軽便鉄道法が公布されたのですが、その年の秋には長岡不二雄高山悌次郎栗和田與吉などが荒砥軽鉄期成同盟会を設立しています。山形県議会から軽便平野鉄道の建設要望が出されたのは明治44年12月であり、まさに鉄道会議で赤湯~長井間の鉄道計画が承認された時です。これに対応して、翌年2月には西置賜郡会で「置賜平野鉄道速成に関する意見書提出案」が出され、さらに荒砥町長長岡不二雄、東置賜郡伊佐沢村鈴木琢磨ほかが、最上川右岸を経由して荒砥まで延長することを請願したのは明治45年3月15日のことです。

 このように、軽便鉄道長井線に対する反応は極めて素早いものがありますが、その運動の震源地は荒砥町にあったのではないかと思います。荒砥町史(P278)には、荒砥出身の南波平次や長岡不二雄が相次いで郡会議長の職にあったことに力を得て、長井からの延長敷設の運動に入った、と記されています。南波平次、長岡不二雄らは県会議員にもなっています。歴代の町長、郡会議員、さらには県会議員が連携して、一貫して建設運動にまい進した姿が伺えるのです。

【写真提供:白鷹想い出写真館  参考資料:荒砥町史など】

2019.06.21:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]