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軽鉄人物伝② 小林源蔵(その3)

  • 軽鉄人物伝② 小林源蔵(その3)

   写真は、荒砥駅全通時の米澤新聞に書かれた荒砥町 大貫氏の談話記事である。この中で、長井線に係る幾つかの重要な事実を知ることができる。それによると明治43年の秋頃、長岡不二雄、高山悌次郎、栗和田與吉などと荒砥軽鉄期成同盟会を設立した。(長岡氏を含む4名は、すべて荒砥町長に就任した人物である。)その後、大正3年に荒砥、十王、白鷹、東根の1町3カ村で東部会を設立し、鉄道建設運動を展開することになった。その際、代議士であった長晴登氏を通じ、当時鉄道院理事であった小林源蔵氏を訪ね協力を願ったという。ここで、長氏と小林氏が地元とつながっていたことがわかる。

 次に、大正6年には荒砥まで延長されることが鉄道会議で決定されたという点である。長井から荒砥までの延長が決定された時期を初めて確認することができたのである。ただし、この段階での決定が、最上川の右岸ルートであるか左岸であったのかは、新聞文字がつぶれており明確でないが、その後の流れから類推すると、6年時点では右岸に設定していたものとみられ、それが鮎貝の菅四郎右衛門氏などの運動で、左岸となったのではなかろうか。大村建設局長の「最上川に架橋することはできないから鮎貝駅を終点として荒砥駅と命名せざるをえない」との談に対して、このままでは「今までの奮闘が水泡に帰す」との思いは、かなり緊迫した状況があったことを示している。

 こうした状況において、小林氏が鮎貝の菅氏と荒砥の大貫氏に、「東西の引っ張りこをやめよ」と説得したというのである。この時期、西置賜郡長は清水徳太郎であるが、彼もまた鉄道院出身であったことも、調整役として関わったように思えて来る。清水郡長については、改めて紹介することとして、大正8年4月には成田地内の測量に入り、9年12月には工事に着工していることから、それ以前には念願の荒砥までのルートが決定されていたと考えられる。

 地元の思いと政治家と、鉄道官僚の思いがぶつかり合い、紆余曲折を繰り返しながら到達した一番列車だったのだろう。

 

【新聞記事提供:米澤新聞 大正12年4月22日(二)】

2019.06.13:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝② 小林源蔵(その2)

  • 軽鉄人物伝② 小林源蔵(その2)

   鉄道官僚出身の政治家である小林氏の実力を知ることができる資料が幾つか見つかった。小林氏が当選した明治45年、内相兼鉄道院総裁は原敬。山形県議会80年史によれば、原総裁は当時要望が出されていた村山軽便鉄道、すなわち山形駅から発し出羽丘陵を迂回して荒砥に連結する循環線を梃に、政友会の基盤拡充を目指すことを念頭に置いていた。このため、原総裁は、鉄道院参与を務めた小林に当該路線の企業価値を調査させ、また明治29年から30年にかけて山形県書記にも在職したことのある内務次官 床次(とこなみ)竹二郎に県内の政治状況を調べさせたという。蛇足になるが、原敬に重用された床次竹二郎は大正2年に鉄道院総裁に就任し、その後衆議院議員にもなった人物である。

 また、我が地元・成田地区との関わりも少なくない。横山文太郎著「成田の歴史」によると、大正8年の長井駅以北ルートの測量が行われた後、成田駅の位置を成田区の中央に決定するよう要望していた。当時長井村村会議員となっていた佐々木宇右衛門と小林代議士は親しい友人関係にあり、小林代議士は鉄道院の参事であったから、佐々木から一言「頼む」と言えば、すぐに実現したのではないかというのである。しかしながら佐々木は、鉄道には消極的あり、それを進言するのもはばかられた、とのことである。

 小林氏は大正8年の第41回帝国議会では、予算委員分科会の主査の職にあった。大正9年2月26日までの任期を務め、大正10年(1921年)1月9日に逝去された。長井から荒砥までの延長工事が開始されたのはその前年の大正9年12月15日のことであった。

 


【参考資料:山形県議会80年史、横山文太郎著「成田の歴史」致芳史談会発行、帝国議会会議録データベース】

2019.06.08:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝② 小林源蔵 (その1)

  • 軽鉄人物伝② 小林源蔵 (その1)

   大正3年の長井線開通祝賀会に出席したのは長晴登、小林源蔵の両代議士であったが、長氏は大正5年に、小林氏も大正10年(1921年)1月9日に逝去した。長井鮎貝間の開通を報じた米澤新聞には、「故小林及び高橋代議士の徳を称す」との見出しがつけられている。小林源蔵氏を追ってみよう。

 小林氏は、米沢市史によると、慶應3年(1867年)米沢市生まれ。東京帝国大学卒業後、鉄道院理事を勤め、鉄道事業視察のため欧米各国を視察。帰国して弁護士を開業し、米沢で日刊米澤新聞を発刊。政治家を志して明治45年(1912年)第11回衆議院選挙に出馬し当選したと記されている。一方、ウィキペディアによると、東京帝国大学卒業後、逓信省に入り、明治30年(1897年)、鉄道事務官に昇進。明治35年(1902年)から翌年にかけて欧米各国の鉄道事務を視察した。日露戦争が勃発すると野戦鉄道経理部庶務課長に任命され、戦地に赴く途中、乗船していた佐渡丸がロシアの攻撃を受け捕虜となる。1年半にわたって虜囚生活を送り、明治38年(1905年)に帰国。帰国後は鉄道庁参事、鉄道院理事(注)を歴任した。明治45年(1912年)第11回衆議院選挙に出馬し当選したとある。山形県議会80年史によれば、もと代議士山下千代雄(政友会)、米沢市長であった二村忠誠(国民党)を破って初当選したという。

 小林氏の経歴についてはこれ以上確認することはできないが、鉄道事務官であった明治30年頃から初当選した明治45年の時期は、鉄道国有法(明治39年)、軽便鉄道法(明治43年)が公布され、明治44年12月末の鉄道会議で赤湯~長井間の軽便鉄道予算が認められた時代である。鉄道官僚でもあった小林氏は、県内の鉄道建設運動を支援してくれていたのではなかろうか。また、鮎貝村長 菅四郎兵衛氏の式辞に、小林代議士への感謝の言葉がありますが、この背景については改めて紹介したいと思います。

 

(注)鉄道院は鉄道国有法を受けて、明治41年(1908年)に鉄道庁と逓信省鉄道局が統合して発足した。

【新聞記事提供:米澤新聞大正11年12月13日 (二)】

【参考資料:米沢市史、ウィキペディア、山形県議会80年史】

2019.06.07:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝① 長晴登 (その2)

  • 軽鉄人物伝①  長晴登  (その2)

  長氏は政治家である共に実業家としても活躍している。「日本のタクシー自動車史」によれば、長氏は明治45年(1912年)有楽町に設立された日本初のタクシー会社の社長に就任。また、地元金融機関の監査役をはじめ、陶器会社の社長なども務め、「末は大臣とされた」人物である、と記述されている。

 大正3年の長井線開通祝賀会での祝辞が米澤新聞に載っている。時代の変化に対応する「弾力」の必要性を訴えていることに、長氏の事業家としての信念が感じられ、現代にも通じるメッセージであるように思える。氏は、大正5年(1916年)に逝去された。

 

【参考資料:南陽市史、日本タクシー自動車史】

【新聞記事提供:米澤新聞大正31117(二)】

2019.05.21:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝① 長晴登(その1)

  • 軽鉄人物伝① 長晴登(その1)
  • 軽鉄人物伝① 長晴登(その1)

 明治から大正にかけては、日本が西欧に追い付き追い越せと、近代化に向けてひた走った時代でした。それは同時に、開発の波に乗り遅れまいとして、国内の各地方が競い合った時代でもありました。この当時、地域振興の切り札と考えられたのが鉄道でした。そうした時代にあって、軽便鉄道長井線の実現の陰には、どのような人物がいたのであろう。鉄道建設にかけた故郷の先人を探ってみたい。

 第1回は長晴登氏。南陽市史に「奥羽線赤湯駅の命名者」として登場する人物であり、慶應2年赤湯生まれ、米沢興譲館、慶應義塾大学を卒業。明治28年8月から32年9月まで山形県議会議員、明治37年3月1日から大正3年12月まで衆議院議員でした。この時期は、明治39年(1906年)に鉄道国有法、明治43年(1910年)には軽便鉄道法が公布され、明治44年(1911年)第22回鉄道会議で赤湯~長井間の軽便鉄道予算が承認された時期にあたります。大正3年(1914年)第31回帝国議会、第35回帝国議会においては、長氏が委員長となり置賜・上白軽便鉄道建設建議案の審議・可決にあたっており、国会においても実力者であったことが伺えます。

【参考資料:南陽市史、帝国議会会議録データベース】

2019.05.18:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]