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程良い田舎も大変だぁ

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 「成田清流のふるさと環境保全会」の皆さんが、今年2回目の草刈作業をしてくれました。朝から蒸し暑い中、野川鉄橋から羽前成田駅北側までのおよそ2キロもの区間を、本当にご苦労さんでした。

 今、長井駅舎の取り壊し作業が話題に上がっています。新しくモノを造ることも、有るモノをなくすことも、それぞれ大変なエネルギーが必要です。けれども環境保全会の皆さんの作業のように、続けていくことも大変なことなのだと思います。程良い田舎の風景が、こうした人々の汗で創られていることに感謝したい。

 

 

 次回は、クサカリ3レンジャーを紹介しますので、お楽しみに。なお、6月14日の作業風景はこちら ⇒ http://samidare.jp/orada2/note?p=log&lid=471999

2019.08.06:orada2:コメント(0):[停車場界隈の風景]

長井駅、威風堂々!

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 「いよいよ明日から、解体作業が始まるよ。」との連絡を得て、長井駅に出かけて行った。待合室には懐かしい観光ポスターが残され、当時の賑わう様が目に浮かぶようだった。天井を見上げて、改めてこんなに高い天井だったことに気づく。まるで大正時代のダンスホールをイメージしたようにも思えた。駅前の広場には水車の遺構。タクシー会社の社長さんが、水の街・長井を感じて欲しい、と自己負担で造ったものだ。

 「東北の駅百選選定駅」のプレートと共に「停車場の記憶」のコーナーに掲載することは寂しいものがある。おらだの会は、何故この成田駅にこだわるのだろうか、と改めて自問している。そんな私を笑うかのように、長井駅は夏の青空に聳え立ち、いつも以上に威風堂々と見えた。時代劇風に言えば、処刑場に向かう武士の風格にも似ていた。

2019.08.03:orada2:コメント(2):[停車場の記憶]

添える心、愛でる心

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 暑い日が続きますが、羽前成田駅の紅花は今が盛りです。今朝方、若い会員が花畑の草むしりをしてくれました。彼が帰ってから来てみると、ホームと待合室に紅花が添えられていました。花を育ててくれた人の想いも含めて、花を愛でる心が湧いてくるようです。

  「お花見は桜の時だけですか。」と紅花ちゃんに言われそうです。「頑張ってくれた会員への感謝も込めて、夕涼みがてらのお花見でもしましょうか。」と、りんごちゃんが言ったそうだ。ふむふむ、そうか、そうか。

軽鉄人物伝 志士の時代、諸人の時代

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   長井線の実現に奔走した人物を訪ね歩く中で、米澤新聞社様はじめ多くの方のご協力をいただいた。宮内のふるさと資料館さんからは、極めて貴重な資料を提供いただいた。鮎貝村村長・菅四郎兵衛氏と高橋辰二国会議員が親戚関係にあって、長井線の延長に際して協力してもらったらしい、といった秘話も紹介してもらうことができた。お陰様で、長井線建設の後半部分についてはかなり整理することができたように思う。心から感謝したい。

  しかしながら、建設当初の段階で誰がどのように動いたのか、という点については未だ不明である。明治30年10月27日の米澤新聞に、「西郡の長井町の有志者また宮内町の有力者と連合し、長井町より今泉を経て宮内町を通過し赤湯停車場に出でんとする計画ありという。」との記事が掲載されている。また長井のひとびと16集あやめ公園ものがたりには、「明治42年国鉄長井線の敷設運動高まる 遠藤安兵衛、工藤太兵衛が中心となり運動を展開」「明治43年国鉄長井線敷設誘致運動のための費用捻出のため現在のあやめ公園の高台下付近の杉林を伐採開墾する」と記されている。長井のあやめ公園建設のきっかけが長井線の誘致にあったというのである。これからまた新しい資料が見つかって、歴史の中に埋もれていた人々に、ライトをあてることができればうれしいと思う。

 鉄道建設期が「志士の時代」であれば、鉄路を守ろうとする現代は「諸人の時代」なのかもしれない。それぞれの時代の長井線物語を語り継ぎ、未来に伝えて行きたいものだ。

 

 

【新聞記事提供:米沢新聞(明治30年10月27日)】

【参考資料:長井のひとびと16集あやめ公園ものがたり(平成15年3月発行)】

2019.07.28:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

軽鉄人物伝③ 荒砥町6人衆(その6)

  • 軽鉄人物伝③ 荒砥町6人衆(その6)
  • 軽鉄人物伝③ 荒砥町6人衆(その6)

「最上川右岸は水害の憂いがなく、また後日、西村山郡の平野線に連絡する上で極めて便利であり、鉄道線路はもちろん右岸であり停車場も荒砥町に設置することは疑う余地がない、と鉄道院の理事が言明したことは、当地方民の記憶に新しい所であり、ただ速やかに時期の到来することを渇望せる次第に御座候。云々。」

 請願の場の臨場感あふれる詳細な記述は、逆に裏切られて悔しいとの感情を際立たせて来るようである。荒砥町6人衆の最後に登場する本間猪吉町長は、大正6年から大正8年までの就任であり、軽便鉄道実現の最後の壁に立ち向かうことになったのである。現在の山形鉄道を代表する撮影スポットである最上川橋梁は、荒砥6人衆を先頭にした地元の熱い戦いの遺構でもある。

 

 

【請願書資料提供:ふるさと資料館(南陽市宮内)】

 

2019.07.26:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]