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伝えたいもの、残したいもの

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写真は昭和60年に開催された「長井線を守ろうカラオケ大会」と平成元年10月25日に「フラワー長井線として開業」された時の様子です。あれから30年が経ち、公民館のカラオケ大会も継続している。もちろん長井線も頑張って走っている。ふと、本当に伝えたいもの、残したいものは何だろうか、と思う時がある。

【写真の出展:『写真で見る致芳のあゆみ』 致芳地区文化振興会平成14年11月発行】

 

2018.07.27:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

長大な防雪柵

  • 長大な防雪柵
  • 長大な防雪柵

 撮影場所は、2枚とも成田駅の南、現在の成田第4踏切付近と思われます。「昭和30年代の長井線を走る貨物列車」には、稲株の残る田んぼの中に、稲くい用の木材らしきものが見えます。 「羽前成田駅の防雪柵(昭和60年)」では、風雪と戦ってきた当時の方々の姿が見えて来るようです。

【出展:『写真で見る致芳のあゆみ』 致芳地区文化振興会平成14年11月発行】

2018.07.23:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

駅とSL、保線区小屋も

  • 駅とSL、保線区小屋も
  • 駅とSL、保線区小屋も

 今時は、私らの年代でも「汽車」と言うのを憚られるようになった。でも、子供は今でも、「ポッポ来た」「ポッポ、ガッタン、ゴットン」と言い、目を輝かせる。今から60年ほど前に、駅にはポッポがたくさん来た。当時の成田駅には、倉庫の他に保線区小屋もあったことに驚く。今でも残る駅舎の匂いは、本物のポッポの匂いかもしれない。 

「成田駅とSL ― 羽前成田駅に停車した蒸気機関車(昭和30年頃) 」 「成田駅と蒸気機関車、保線区小屋 (昭和49年)」

【出展:『写真で見る致芳のあゆみ』 致芳地区文化振興会平成14年11月発行】

2018.07.22:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

キューロクが行く

  • キューロクが行く
  • キューロクが行く

 戦中、戦後の混乱を経て、日本の国は昭和39年の東京オリンピックから高度経済成長へと進んで行きます。この時期に、蒸気機関車はディーゼルカーとなりました。「さよならSL ご苦労様キューロク」の陰で、昭和43年には長井線存続期成同盟会が発足していました。

写真は、「成田駅の停車場に止まった蒸気機関車 (昭和40年撮影)」 と「長井線さよならSLと成田駅 蒸気機関車はなくなりディーゼルカーとなる (昭和47年撮影)」 なお、長井線を走ったキューロクは、現在、北九州市「九州鉄道記念館」に展示されているとのこと。

【出展:『写真で見る致芳のあゆみ』 致芳地区文化振興会平成14年11月発行】

2018.07.20:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

停車場から戦地へ

  • 停車場から戦地へ
  • 停車場から戦地へ

『停車場の記憶』と題して、羽前成田駅に関する写真を順次紹介していきます。駅正面の車寄せの所で撮られた写真には、「昭和12年 日支事変が勃発、多くの兵士が成田駅から出発した。成田駅前の壮行式」とのキャプション。 ホーム側から撮られたと思われる写真には、「成田駅の出兵兵士見送り。」とあります。

この前夜には、家族や親族だけでの別れの宴があったろうと思います。また、見送る人々の顔を追いながら、召集地に向う車中での胸中は如何なものであったろうか。太平洋戦争の際には、徴用工として、名古屋の軍事工場で働きに出かけて行ったという話も聞きました。停車場は、最も大事な人々との、最後の別れを強いる場所だったのかもしれません。

【出展:『写真で見る致芳のあゆみ』 致芳地区文化振興会平成14年11月発行】

 

2018.07.18:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]