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キュウロク&ゴクロウサン

  • キュウロク&ゴクロウサン
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 米坂線と長井線がコラボしたシンポジウムが開かれると知り、想い出したことがある。それは、米坂線に乗って宇津峠を越える時に、猛烈な煙と匂いが客室に押し寄せて来た記憶である。長井線は昭和29年に客車がディーゼルになり、貨車の牽引からも引退することとなった昭和47年10月1日、「さよならSL」が実施された。一方、米坂線での「さよなら列車」は同年3月実施となっている。私が米坂線に乗ったのは高校生の時であるから、米坂線では、山親父と呼ばれたキュウロクが長く仕事をしていたのであろうか。

 さよなら列車の車体番号をみると9634と59634。この数字について知人から教えてもらった。96は9600型という型式を示し、下2桁の数字は頭の数字と共に製造順を示しているとのこと。9634は9600型の34番目に製造された機関車で製造年は大正3年、59634は9600型の534番目に大正10年製造の機関車であることがわかります。写真の59634号はその後、九州の筑豊地区で働いた後に引退し、現在は北九州市の「九州鉄道記念館」に展示されているとのことです。

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【製造年はウィキペディア、引退後の59634号の記事は九州鉄道記念館HPより。カラー写真は「写真で見る致芳のあゆみ」、白黒写真は山形運転所米沢派出所制作「鉄路と共に」より】

2019.10.30:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

わがうちなる長井線 その4

  • わがうちなる長井線 その4
  • わがうちなる長井線 その4

わがうちなる長井線

                芳賀秀次郎

(略)50年前、開通を祝って旗行列をしたぼくらは、いま長井線の存続のために再び旗行列をしたい。蓆旗を立てて、風の中を歩きたい。蓆旗の列は、荒砥の三番坂を下り、黙々と最上川の橋をわたるだろう。鮎貝の城下町を経て遠福寺坂を上り、白兎から成田にでるだろう。葉山おろしの風の中を,重い蓆旗をたててだまって歩き続けたい。歩きながら、ふるさとの村の50年と、ぼくの人生の50年とをもう一度かみしめてみなければならない。

 

【おらだの会雑感】このエッセーが書かれたのは、国鉄改革と地方路線の廃止が俎上にのった時代である。鉄道の50年と自分の50年、ふるさとの50年をもう一度かみしめなければならないとの最後の言葉に重みを感じる。来る10月20日は長井線祭りが行われる。フラワー長井線の誕生を祝い、感謝する日を迎えて、芳賀氏の一文を心のどこかに残しておきたいものだ。

 

【写真:「郷土の文化」致芳郷土史会制作、「写真で見る致芳のあゆみ」より編集】

 昭和30年頃の羽前成田駅

 昭和47年のさよならS?

2019.10.16:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

わがうちなる長井線 その3

  • わがうちなる長井線 その3
  • わがうちなる長井線 その3

わがうちなる長井線

           芳賀秀次郎

この長井線にのって、ぼくは入営した。この汽車にのって、ぼくは父の死の枕辺にかけつけた。この汽車にのって、ぼくは大火で焼け失せたふるさとを後にした。ぼくの青春も、ぼくの人生そのものも、長井線と共にあった。その長井線が、いま赤字線のゆえに廃止されるという。ぼくのふるさとそのもの、ぼくの人生そのものが、いきなり断ち切られるような気持である。(略)

 

【写真:白鷹想い出写真館より】

  出兵兵士見送り 荒砥駅昭和13年(1938年)頃

     就職列車見送り 荒砥駅昭和29年(1954年)3月

2019.10.14:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

わがうちなる長井線 その2

  • わがうちなる長井線 その2
  • わがうちなる長井線 その2

わがうちなる長井線

                     芳賀秀次郎

その頃の汽車は、いかにも小さな箱型で、ぼくらはこれをマッチ箱と呼んでいた。これには本線を走っている立派なボギー車との比較による、やや軽侮の感じもないわけではなかった。しかし、このマッチ箱という呼名には、もっと素朴であたたかい親愛の気持ちがこめられていた。…略…。

 

【写真:白鷹想い出写真館より】

  蚕桑駅昭和28年(1953年)頃

     鮎貝駅から修学旅行に出発  昭和10年(1935年)頃

2019.10.10:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]

わがうちなる長井線 その1

  • わがうちなる長井線 その1
  • わがうちなる長井線 その1

白鷹町蚕桑出身で歌人、詩人でもあった芳賀秀次郎氏が書かれた「わがうちなる長井線」という題のエッセイがある。「やまがた散歩」というタウン誌の創刊号に寄せたものである。この中の長井線の風景に係る部分を、手元にある当時の写真等と共に紹介していきたい。写真は長井市史第3巻(近現代編)より。

 

 

 ぼくの故郷白鷹町は、昔の名を蚕桑村といった。(略)。この村に鉄道が開通したのは大正十二年である。ぼくは小学校の二年生であった。遠い記憶を辿ってみても、汽車が通るということは、ふるさとの村にとって、ほとんど革命的な出来事であった。遥か遠い物に思われていた「都会」の匂いや、「近代」というまばゆいものが、汽笛のひびきと共に突如として村にやってくるのだ。村の大人も、子どもたちも、胸をおどらせながら、鉄道という名の「文明」が石炭の煙をふき上げながらゴトゴトと通る日を待っていた。(略)。長井線開通の日、ぼくらはそろって旗行列をした。桑畑のなかの村道を、日の丸の旗をふりながら歩くと、何かもうすばらしい幸せをつかまえたような喜びがあって、心がはずんだ。(略)

2019.10.08:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]