HOME > 変な民族学4巻 若者達へ

若者達へ ④体罰問題

 わが町・長井で体罰問題が発覚した。ある中学校の教師が、クラブ活動の際に生徒の鼓膜に損傷を与える暴力をふるったというものである。 学校教育法の第11条において、「校長および教員は、懲戒として体罰を加えることはできない」とされている。この規定に対する刑事上の罰則はないものの、教員以外の者と同じく、スキンシップと解せないものについては、暴行罪や傷害罪(死亡した場合は致死罪)となる。また、教員が職権として体罰を加えた場合は、刑事上の責任とは別個に民事上の責任も問われることもある。
許される懲戒権を超える体罰について次のように定めている。
1.身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る・蹴るの類)は体罰に該当する
2.被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(お端坐・直立等・特定の姿勢を長時間にわたって保持させる
 法務省では、体罰を日本国内における主な人権課題の一つとみなし、「(愛のムチなどと言って)校内における体罰や暴力容認の雰囲気を作り出したりすることは、いじめや不登校を誘発する原因と考えられる」との見解を示している。
 法として規定するには、上のような規定が当然なのかもしれないが、私には少し納得がいかない部分がある。人が人に対して、本当に向き合った時に、そんなに冷静でいられるだろうか。私のように還暦を迎えるような年寄だったら可能かもしれない。しかし20代や30代の若い人が、「お前らもっと真面目に頑張れよ、なんで真面目に生きないんだ。」と思った時に、冷静ではいられるのだろうか。教育者とはそれほど難しいあり方を要求されるものだろうかと思うのである。
 皆さんはどうお考えでしょうか。

若者達へ ③川を下った少年達

 そしていよいよ、最終日に最大の難所が待ち受けていた。岩が両岸にせまり、ちょっと間違えば大怪我をするかもしれない場所があったのだ。中学生を中心にクルーを組んだが、東京からたった一人で参加した男の子が、体調を悪くしてしまった。彼に「お前、行くか」と聞いた。彼は、目に涙を浮かべながら「行きます。行きます。」と訴えてきた。「よし、行け。頑張れ!」と言って送り出した。後から聞いた話では、皆がボートを降りて引いて歩いた浅瀬から、急な深みに入るときに、彼は小学生を先にボートに乗り込ませ、彼が最後にボートに滑り込んだそうである。
 いよいよ酒田まで到着したとき、一人一人に感想や俳句を発表してもらった。その中の一人は「酒田には希望というものがあり」と詠んだ。自然との感動体験は、詩人にさせるものだと感じたものである。
 今、心が荒れていると言われ,親子の関係も、子供同士の関係も異常としか思えない事件が報じられている。しかしながら、生まれてきた子供達は、純真無垢なものである。体に障害を持って生まれようと、「たった一つの宝物」の世界がある。子供が荒れるのは、大人のウソを見抜くからではなかろうか。初めて出会った押切さんに涙を流したのは,押切さんの心に触れたからであろう。
 「あー、夏休みになって子供達の顔を見ないですむ」と言ってスタッフとして参加した学校の先生は、最後に「子供は少しも変わっていなかったんだ」とポツンと語った。あるスタッフは「この旅は、自分探しの旅だったんだ」と語ってくれた。最上川が教えてくれたものは,それぞれに,大きいものがあったのだろう。
 こんなことが,これを読んでくれた人にとって,何かの役に立ってくれれば幸いである。人生には早瀬もあれば澱みもあるさ,広き野を巡って生きれば,綺麗な夕日が見えるさ!苦難を乗り越えた者のみが見える虹があるんだ。

若者達へ ②父なる川・最上川

 「悲しすぎる子供達」の続編として,「最上川冒険の旅・200キロ」について書いてみたい。平成10年に行われたこの事業は、山形県の子供達を募集し、2泊3日で最上川源流の地・長井から酒田までボートで下るものである。キャッチコピーは「最上川よ、父の強さをこの子達に与えたまえ。母なる心を持ってこの子達を守りたまえ」。長井と新庄市の子供、さらに東京の子供も参加し、15人になった。スタッフは、職場の同僚や坊さん、学校の先生、そして万全を期すために国土交通省、建設協会のバックアップもいただいた。
 初日は、長井に集まり、ボート から落ちたときの練習をやり、長井の参加者の自宅に民泊。翌朝、緊張した顔の子供たちは、それ以上に心配げな両親に見送られていよいよ出発。その日は、村山市の松田清男さんが主催する「卒業のない学校」に宿泊。カレーライスを自分達でつくり、楽しく過ごさせた後に、松田学長の講話の時間である。子供達には、「先生から足をくずして良いですよ」と言われるまでは、正座しなさいと伝えていた。板の間にである。その姿を見て、松田学長は「君達の姿勢は素晴らしい。背骨は人間の柱である」と話して、「山形県民歌」を教えてくれた。県民歌は、昭和天皇の句に島崎赤太郎が曲をつけた歌であり、超レアものである。
 「広き野を流れゆけども 最上川 海に入るまで 濁らざりけり」
 そして2日目は、新庄市の本合海が終着点。そこで、最上川観光会社の会長である押切六郎さんの講話を聞き、本合海地区の人達が作ってくれたバーべキュー大会と花火大会を楽しんだ。子供達が宿舎に帰る時間が近づき、押切さんが子供達を集めて話をした。
 「最上川は山形県の背骨である。君達はその最上川を下って、ここまで来た。君達よ山形県を背負う人間になれ。私が、南洋の戦地にいた時に戦友と共に県民歌を歌ったんだ。その歌を君達と一緒に歌いたい。」と。
 押切さんを中心にして「広き野を、流れ行けども、最上川」と歌い始めたときに、子供達は涙で声を詰まらせて歌を歌えなくなっていた。宿舎に帰るときに、一人一人が、押切さんと泣きじゃくりながら、握手をしていた。
 

若者達へ ①上を向いて歩こう 

  • 若者達へ ①上を向いて歩こう 
「上を向いて歩こう」と「悲しすぎる若者へ」

 とある学校で起きた事件は,大変ショックであった。寂しすぎる子供や若者の姿が見えて悲しい。そうした若者に伝えたい思いに駆られている。
 坂本九の「上を向いて歩こう」という歌をご存知であろうか。歌詞をそのまま読めば,「上を向いて歩く」その理由は「涙がこぼれないように」である。この「涙」とは、嬉し涙でないことは間違いないが、どうも悔し涙でもないようなのである。例えば働きながら定時制高校に通っている若者が、故郷の両親を思い、あるいは里親の冷たい仕打ちを思い、涙を流して帰る風景が思い浮かぶのである。思いっきり泣いた後に、空を見上げて星を見ながら、「それでも明日から頑張るんだ」という思いの歌でなかろうかと思うのである。
 さてさて、この勝手な推論の適否は別として、現代は「涙の意義」を考えるべき時代ではなかろうかというのが、私の持論である。親子が殺しあう、子供同士が傷つけあう、という今日の社会環境において、加害者である大人や子供達が、大声を出して泣いたことがあったのだろうかと思うのである。私には、何かしら、吐け口が見つからないままに、寂しく壁を見つめている彼らの姿が思い浮かぶのである。
 坂本九さんのヒット曲は、「上を向いて歩こう」⇒「見上げてごらん夜空の星を」⇒「明日があるさ」と続きました。若者達よ、泣きたいときは泣けばよい。涙は、いつも温かいんだ!。そしたら、また朝が来るんだぞ。死ぬんじゃないぞ,死なないでくれ!!