令和4年度の「中川地区給食サービス」を開催します。
第1回目 令和4年11月26日(土)
第2回目 令和5年 1月21日(土)
対象者の方には食改さん手作りの温かいお弁当をお届けいたします(*^^*)
※諸事情で変更・中止になる可能性もございます。
神明神社へ行く石段の左側に手水石(ちょうずいし)が置かれています。
石に刻まれた年号を見ると、創立された嘉永(1848~1855)のはずですが、寶(宝の旧字)永に見えます。
宝永三年は西暦1706年なので、神社創立から1世紀以上も前になってしまいます。
もっと古い寛永(1624~1645)ということはないでしょうし、嘉の異体字でもなさそうです。
石段の入口にある「奉納御石塔」も「明和七庚寅天」と刻銘があり西暦1770年になります。
(和の字は偏(へん)と旁(つくり)を上下にした異体字)
神明神社の近くには江戸時代※から北ノ沢鉱山があり石祠が残っています。
(刻銘がなく建立年・神様も不明)
また秋葉山への山道を利用して木材の切り出しを行っていました。
神明神社が出来たことで、元々あった石造物を設置したと考えられます。
※寛政4年(1792)の「樹蓄建議」に記載あり
私事ですが、この度転勤となりました。
中川地区の皆様には大変お世話になりました。ありがとうごございました。
「中川地区の歴史」の投稿はこれで最後になりますが、今後も「中川公民館日記」をお楽しみいただければ幸いです。
川樋地区下にある神明神社です。
(画像は昨年撮影したものです)
地域の人は「オスメサマ」と呼びます。
川樋から日影道を進むと、左側に神明鳥居があります。鳥居から社殿まで約300m位です。
途中で道が分かれますが右に進むと神明神社で、左に進むと秋葉神社への参道です。
嘉永(1848~1855)年中創立ですので、地区内では比較的新しい神社になります。
神明神社の総本山は伊勢神宮です。江戸時代に伊勢参りが盛んになり全国各地に神明神社が創建されました。
以前は川樋の法印様、不在になってからは元中山の法印様、現在は川樋松林寺住職がご祈祷を執り行っています。
祭神の一柱が大日如来であることから、神仏習合の形が見てとれます。
赤湯町史(昭和43年)より
神明神社
祭神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
大日如来(だいにちにょらい)
由緒:嘉永年中創立
川樋地区の字天矢場(テンヤバ・テンニャバ)です。
天矢場は一般国道13号上山バイパス改築事業に伴い、山形県埋蔵文化財センターによる天矢場遺跡の発掘調査が行われたことがあります。
調査報告書に
「天矢場遺跡を含む周辺には縄文時代の中期~晩期にかけての集落跡が存在していたものと考えられ、陥穴や石鏃から天矢場遺跡は当時の狩猟場の一部であったと推測される。」
と記載されています。
天矢場を通る通称日影道の近くには昔、秋になると鳥を捕獲するための霞網が仕掛けられていました。(現在は違法で、所持することも違反です。)
それだけ野鳥が集まる場所だったようです。
天矢場の地名の由来は鳥獣を捕獲するため、矢を射たところから名付けられたと考えます。
引用文献:天矢場遺跡発掘調査報告書 山形県埋蔵文化財センター調査報告書第174集
平成21年 財団法人 山形県埋蔵文化財センター
参考文献:中川風土記
中川小唄の原作の作詞者は小関仁四郎先生です。
小関仁四郎先生は明治32年東置賜郡伊佐沢村※に生まれ、大正15年から昭和6年3月まで中川尋常高等小学校に勤務していました。
当時の卒業アルバムがありましたので紹介します。
中川小唄の原作の歌詞は小関先生が、中川村の様子や風景を織り交ぜて作られたようです。
当時の資料がなく、現在の歌詞とは少し違うといわれています。
また、小関先生は岩部山三十三観音について、昭和5年に「北山観世音由来」という冊子を書き著しました。
現在、中川公民館で保管している「北山観世音由来」は手書きの文章をコピーしたもので、判読できない箇所が多数あります。
原本をお持ちの方がいれば、中川公民館までご連絡願います。
※現長井市
当時、伊佐沢村は東置賜郡に属していました。昭和23年4月1日に所属郡が西置賜郡に変更されました。
参考:中川小唄について 後藤嘉一著(元館長代理)