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散る桜、残る桜も、、、

  • 散る桜、残る桜も、、、
2日は古い友人が時間差で、別々に店を訪ねてくれました。
1人は高校時代のバンドの友人です。現在小国でお父さんのあとを継いで工場をやっています。息子さんを川西まで送ってきた途中に寄ってくれました。今もヴォーカルで頑張っています。

もう一人も高校、大学、社会人と行動を共にしたギタリストで、現在は東京でサラリーマンをやっています。日野市在住で里帰りでやってきてくれました。二人とももう30年来の友人です。

私は、その彼らと高校時代RCサクセションのコピーバンドを振り出しに音楽活動を始めました。この出会いがなかったら、音楽って楽しい!!という感覚を植え付けられなかったら、ここまで音楽にのめりこまなかったかもしれません。感謝、感謝です。

大学1年だか2年だかに横浜文化にRCのコンサートを見に行きました。みんな別々の大学に進学していたものがRCの元に集まりました。
私たちも若かったけれど、忌野清志郎も若かった。汗だくで踊りました。

彼らが帰ってから、その訃報に気付きました。
偶然というものはあるのだなぁー、遠い日のことを少し思い出しました。
そういえば、彼は日野高校出身なのですね。

謹んでご冥福をお祈りします。

写真は、柳町のあるお宅の「兼六園の櫻」です。きれいに手入れされた花々をいつも楽しませていただいております。
2009.05.04:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

昭和48年5月3日

  • 昭和48年5月3日
に川中島の模擬戦は再開されました。
その前はいつ行われていたのか今のところ分かりません。但し絵葉書の明治41年以前には行われており、当然徳川時代にはやっていなかったと思われるので、明治時代に考えられた演習のようなものでしょう。

その日、私は小学3年生でした。
薄れた記憶ですが、そのころNTVにお昼のワイドショウという番組がありました。有名な企画としては新倉イワオの「あなたの知らない世界」、浪曲師玉川勝太郎の「人間シリーズ」などでしたが、この川中島もこの番組の企画からではないかと勝手に思っています。
その日はまず現在の上杉記念館、当時の公民館で青島幸男と八代英太が甲冑を着て武将に扮したのではなかったでしょうか。その後松川河原に場所を移して合戦を観戦するというものでした。家でTVを見ていた私は、「これからTVに写ってくる。」といって自転車で5~6分、野次馬ギャラリーを掻き分けかき分け、まんまと全国の電波に乗ったわけです。

多分NTVディレクターだかプロデューサーを歴任された木村武雄元帥の長男木村尚武氏のコネではなかったでしょうか。とにかくあれからは毎年川中島をやっているわけです。
残念ながら兼継は川中島には行ってません。時代が違うのです。

そして、それから一ヵ月後、八代英太氏は愛知県刈谷市民会館で行われた畠山みどりショウの司会中、事故に遭い車椅子の生活を余儀なくされます。

写真は前田慶次の甲冑です。

2009.05.01:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

私お芝居が好きなんです!

  • 私お芝居が好きなんです!
忘れてました。実は大学のゼミというものがあり、私はお芝居のゼミというところに潜り込んでいたのです。なるべく歌舞音曲の方向を向いているものということで入ったのですが、案の定先輩や同級生は、黒テントやら放送作家やらカメラマンやらオペラ歌手やらみんな濃いことになっています。

で、題名の「私お芝居が大好きなんです!」という台詞は美内ずずえ先生のガラスの仮面に多用されていたのではないでしょうか。この漫画を見たのは、今はなき「蔵」という女子高(現九里)のそばにあった喫茶店です。建物だけは残っていますが。
確か高校のときに土曜日たまたま友人と行き、読み始めたらやめられなくなり、友人は帰ってしまい、結局7時ぐらいまでかけて全巻読みました。そのころは何巻まで出ていたのでしょうか。今から30年前、今も続いていると聞いています。

その後、続きを読む機会があったのが横須賀さいかや(百貨店)の5階休憩室でした。15歳の時に読んでから、25年ほど経過していたでしょうか。あっという間ですよ、年月は。
山形物産展で行っていたのですが、そのときは余りにお客様が来ないためよくみんなでさぼっていて、花より男子もその時しっかり読みました。こういうところは何故か少女マンガなのです。

芝居といえば5月の大阪松竹座は京唄子(81)が骨折のため淡島千影(85)代演とありました。前にも書きましたが淡島先生は一度お会いしたことがあり、(お会いしたといってもバンドの皆さんとご挨拶しただけですが、、)今から15年前もちっちゃなおばあちゃんというイメージでしたが、一ヶ月39公演をやれるだけの体力、気力が充実されているのでしょう。しかも代演をいとも簡単に受けられるわけですから。
亡くなった杉村のお春さんとか、帝劇の森光っちゃんとか、半ば神格化された芸も見ものですが、あくまでも肩肘張らず、しかも商業ベースなのが格好がいいのです。

勿論、芝居がすきなのは分かっています。

写真は去年頂いた寄せ植え鉢に、友人が新たに花を植えてくれました。
2009.04.30:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

南風カオル氏、逝く。

  • 南風カオル氏、逝く。
中野ブラザースという兄弟のタップダンサーをご存知でしょうか。日本の芸人のなかでも、本人たちがマニアックでストイックな感じがよく漂っていて、至芸といえるだけの実力を持った稀有なチームといえましょう。

実力通りの評価を得ているとは思えませんが、これまたコアなファンに支えられており、70歳を越えた今も現役で踊り続けているダンスユニットです。EXILEあたりが大きく取り上げても遜色のないダンスです。家の息子は「イグザエル」と言ってましたが。

彼らの振り出しは中野弘子という人が座長を勤めた剣劇劇団で、中野チンピラ劇という少年歌舞伎が振り出しでした。その時彼らの長兄も一緒にちびっ子俳優として座長を勤めており、それが後の南風カオル氏でした。

大阪ミナミに寄席の名門松竹角座が無くなり、浪花座という元映画館の舞台で営業を続けていた時のことです。松竹芸能は今では鶴瓶、オセロ、ますおか、よゐこ、安田大サーカスなどがおり、一定の地位を確保していますが、当時はまあ、吉本に押され押されてマイナー&年寄りのイメージが定着しておりました。私はそのいなたい感じで好きで、出張の折3回ぐらい見に行きました。
暁伸・ミスハワイ、夢野タンゴ・園ひとみ、正司敏江・玲児、若井はやとなどなど私好みのゆったりした芸風を楽しんでいました。そしてある日その寄席の番組に南風カオル氏のお芝居が入っていたのです。役柄が座長で若い歌手を売り出すというような出世物語なのですが、これが手馴れていて小芝居の感じが出ていてうまいのです。元吉本新喜劇の方が一人と、あと数名の座組みでしたが軽い30分ぐらいのお芝居を見せていただきました。
その後あまり名前を聞くことはありませんでしたが、東京に場所を移して活躍されていたそうです。ご冥福をお祈りします。
かたや、丁度そのころ吉本新喜劇は山田花子が売り出していた頃で、10日替りの初日に行ったりすると花子はせりふが入っておらず、石田靖や未知やすえなんかが「もう少し覚え!」といって突っ込みながらフォローしていました。

新聞の御悔み欄はどういったどういった基準でクレジットされるのか、という疑問が以前よりあります。
この人は皆さんにお知らせすることはあまりなくてもいいのでは、という人が掲載されたりします。ビッグバンドのリーダーならまだしも、たまに有名バンドのリードトランペット奏者やリードアルト奏者がのっかる事があります。業界自体ではもちろん有名人なのですが、ご近所の皆さんは余りご存じないし、全国紙でお知らせしてもしょうがない様にも思えるのですが。

昨日お客様の葬儀に参列してきました。
友人のお母さんだったのですが、珈琲とジャズが好きなモダンな84歳でした。祭壇には数々の音符がちりばめられ、優しい笑顔の遺影がありました。
店を開いて少ししてから来てくださり、「よく思い切ったなぁ、でも人生一回きりだがらなぁ。」「もういっぺん生のナベサダ聞くまでは死なんに、、」と言っておられたのですが、残念ながら旅立っていかれました。
多分ご本人が深くかかわっていたであろう、通町町内会の婦人コーラスが滝廉太郎の「花」と団伊久磨「花の街」でお送りしました。これが素晴らしかったです。


ご冥福をお祈りするばかりです。
2009.04.23:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

バド・シャンク逝く。

  • バド・シャンク逝く。
アメリカ西海岸のサックス奏者の中では、なんでも器用にこなすというイメージの強いマルチリード奏者でした。
日本でも有名なのはママス&パパスの夢のカリフォルニアのフルートソロです。
私の印象としては、ショーティー・ロジャース&ヒズ・ジャイアンツのコーツ・ザ・カウントというアルバムのティクル・トゥーのバリトンソロがかっこよかったです。
4月2日に亡くなったとのことですが、前日までレコーディングをしていたそうです。3年前仙台に来たときは聞きにいけませんでした。
ご冥福をお祈りします。

「夢のカリフォルニア」という曲には想い出があります。
東京に出て二番目のバンドのとき、その時一部の人たちは「完全プロ志向」だったため、何がしかのコネを利用してプロとの接触を図っていました。
今もやっている新宿ルイードというライブハウスにキングトーンズの内田さんを訪ねたときのことです。
いまでもお元気で活動されているようですが、そのときはもう大御所の雰囲気がありました。マネージャーだったのか、ただの業界関係者だったのか「ジョージ岡」という方の紹介を受け名刺を頂戴しました。残念ながらその名刺は手元にないのですが、その後多分タモリ倶楽部か何かでジョージ岡氏はあの有名な東京ビートルズのヴォーカルだったことが判明しました。

それはそれとして、その時セカンドテナーの成田邦彦氏がソロで一曲歌いました。そのときの曲が「夢のカリフォルニア」で、この歌がなんともいえずクラブ歌手の風情で、日本のショウビズここにありというものでした。バンドのテナーサックスの方もこの曲はフルートに持ち替えていたような気がします。

写真のサックス奏者の並びは、右からバド・シャンク、ボブ・クーパー、ボブ・ハーダウェイ、ジャック・ニミッツ、ビル・パーキンス、ジョン・ロウというウエストコースト勢揃いのアルバムで、サマー・サンバ、サイドワインダー、テイクファイブなどの有名曲をボブ・フローレンスのアレンジでさりげなくハモっております。
2009.04.17:mameichi:コメント(1):[芸能音楽の50]