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川西ダリヤ園その2

  • 川西ダリヤ園その2
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開園翌年の昭和36年8月(1961)、昭和39年、昭和51年、昭和53年とダリヤ園の写真があるので投稿、現在はハーブ園になっており、場所を特定してまた写真を撮ってみようと思う。

 ダリヤ園は実家のすぐ近くで、小さいときから庭みたいにして育っている、最後の写真は丸い芝生に照明があり、中学の頃、この芝に胡坐をかいて照明の下でよく、お兄さんたちがギターを弾いていた、芝に座り聞いていて、かっこいいなーと思い憧れた、ギターがほしくなり、初めて街の館金さんというところでバイトをしたのである。中学を卒業した春のこと、吉田拓郎、猫、井上揚水、財津和夫、かぐや姫、ガロとか次々に新しいフォーク系の歌手が誕生し、夢中になった、いまでも拓郎を聞くと胸が熱くなる。 ダリヤ園はちゃんばら遊びや、ざっこ釣り、つるつる川での川遊びなどいろんな思いの詰まった場所なのである。

2016.03.05:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

川西ダリヤ園その1

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昭和35年9月21日国内初の鑑賞型ダリア庭園『川西ダリヤ園』が開園された、平成10年まで開園されていたが平成11年に現在のダリヤ園になっている、昔のところは現在ハーブ園である。

 川西町誕生当時、町を代表する観光地づくり、町民が親しめる公園づくりが目指され、話し合いが進められ、その結果、町内の「花の会」でダリア栽培が楽しまれていたことからダリヤ公園を設営することになったとの事です1975年(昭和50年)には町の花をダリアに制定している。(川西町HP参)

 ダリアは、日本に1842年(天保13年)頃、オランダより長崎出島を経由して江戸巣鴨に導入されたと言われる花であるが、その頃は天竺牡丹と呼ばれ、ダリアと呼ばれるようになったのは徳川末期になってからとのことである。ところでDahliaの発音は日本においては「ダリア」が一般的であるが川西町では、看板、案内板、旗、ダリアに関する商品もすべて「ダリヤ」となっている『ダリア』と変更することなく『ダリヤ』の名で慣れ親しまれているのである。町田は『ダリア園』である、都会では相模原市に住んでいて、その町田ダリア園もなじみがある、町田ダリア園は障がい者の働く場として町田市が設置し、まちだ福祉作業所が運営しています。

町田は昭和60年6月開設し、開設にあたっては、日本一のダリア園である我が故郷の「川西ダリヤ園」から、球根を寄付するなど協力関係にある。私の母は昭和50年から13年にわたり町のダリヤ園でダリヤの栽培・管理に携わっていた。自分もこの公園はいつもの遊び場であった。 

 昭和35年開園直後の写真が(置賜の昭和)いき出版にあったので投稿、それと現在の箇所を撮影(現ハーブ園)を掲載する、開園翌年昭和36年に弟が生まれ、公園で私の母と兄、ばあちゃんそれと母の姉が写っている写真がある、これらは水害でも残ったもので懐かし風景が見れる。

 因みに私のばあちゃんは8人も子を生んだ豪傑ばあちゃん、母の一番上の姉が今ならばあちゃんのようだ、母が小学3年で父が急逝した、4つ下にも双子の弟、妹もいて、母子家庭になったばあちゃんは、子にぼろを着せては恥ずかしいと、寝る間を惜しんで働いたそうだ、それを見ていた姉も母も出来ることは進んで手伝いをした、仕事で忙しい母(私のばあちゃん)に変わり姉は下の子をおんぶして学校に通ったそうです(ほんとにドラマ『おしん』の世界で泣けてきます。その姉が嫁に行くとき母も妹弟も行かないでと泣いて頼んだと聞きました、その姉は私の弟が生まれた昭和36年、子供が既に高校生で当時珍しくカメラを持っていた、写真好きで私たちの写真もよく撮りに来てくれたそうです。

2016.03.05:li-no:コメント(1):[歴史探訪]

新山神社(小松城止)その2

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新山神社は小松城の城郭の一部になっていて、新山神社前は新山公園で城の本丸には新山中学(昭和59年3月で閉校し川西中学として合併している)が建っていた、近くにある小松幼稚園の卒園アルバム1963(S38)に新山公園の滑り台の写真があったので掲載、新山中学の卒業アルバム1972S47)には新山中学の校舎写真が載っているので掲載,門の前にはスバル360の車が見える、丸太写真館さんが町に寄付した写真1936(S11)はあやめ公園になっていたころのものである、長井市のあやめはここから分かれたものらしい、現在の新山公園にもあやめ群生地保護の協力看板が立っている。現在本丸はグラウンドゴルフ場、北の丸は町営団地になっている。町出身の直木賞作家井上ひさしさんは幼少のころこの新山神社は遊び場で野球をやった場所でもある。

2016.03.04:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

新山神社(小松城止)その1

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  • 新山神社(小松城止)その1
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小松城は、鎌倉時代の創建とみられ、長井氏家臣の船山因幡守や、伊達時代には大町氏、桑折氏、牧野氏が城主を務めた。
元亀元年(1570年)牧野久仲、父、中野宗時とともに伊達家に反旗を翻した、この内乱で首謀者の牧野、中野が死亡したことにより小松城は廃城となるなど、伊達家の歴史の舞台となった。福島県桑折町の町名の由来となる桑折播磨守景長が居城した城でもある。(川西町史参)現在も土塁の一部が残っている。

2016.03.03:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

川西町営小松スキー場

  • 川西町営小松スキー場
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山形県内のスキー場として最も早く作られたスキー場に上げられる、川西町営小松スキー場、地元では“三本松”の愛称で呼んでいた。ロープ搭といってロープにつかまり上っていく、途中で傾斜が変わり急になるので、小さい時は手を上に上げて必死でつかまって頂上に上がっていた、昔は2本のロープがあり、第一と第二があったが今は第二のみ、中央に一本だけになったようだ、コースも設備も非常にシンプル、ゲレンデもコンパクト、地元の小、中、高校生が主に使用していた、ナイター設備もありクラブ員は遅くまでやっていた。写真アルバム『置賜の昭和』に昭和18年置農生スキー部のようだ、ゲートルを巻いており当時の世相を現している、また小松スキー場全景写真があり昭和31年とある、同じ場所で昨年撮影したが昔の写真どれもそうだが、雑草がなくきれいに刈り取られている、山もきれいに芝刈りしているせいだろう非常にきれいに見える。あと中学卒業アルバムに新山中スキー部が小松スキー場山小屋前で撮っていたのがあったので投稿、昭和47年のものである。

2016.03.03:li-no:コメント(0):[歴史探訪]