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小松豊年獅子踊り

  • 小松豊年獅子踊り
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故郷置賜地方では米沢の梓山獅子踊、綱木、川西町小松の豊年獅子踊り、飯豊町、長井市、小国町と獅子踊りが残っている、地元の小松豊年獅子しか観てなかったが、こんどは田舎にUターン他の獅子を観て回れる、そして人形作り、やりがいがあるなー、まずは実家のある小松の豊年獅子踊り、3匹分作成してみた。他にも早乙女や謡も作るからドンだけの数になるか。。それぞれ同じものはなく、興味深い。

2016.07.05:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

上杉鷹山屋敷 餐霞館(さんかかん)

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 上杉鷹山が隠居後に暮らした屋敷,「餐霞館」(さんかかん):名の由来は、霞を食べる事、つまり世俗を離れ仙人のような清貧の生活を営む住居の意味と言われている。なんかこういうところまで、つつましくしていたんだと感心してしまう。ここは城の南に位置するので「南亭(なんてい)」とも呼ばれました。 土地の広さは約3000坪で、餐霞館は上段・二の間・寝間・書斎や奥方の部屋など40あまりの部屋がある大きな平屋の建物でした。ただし、生活は以前と同じく質素を心がけ、生活費増額の申入れを断わったんだそうです、天明5年(1785)に鷹山公は35歳で隠居し、家督を養父重定の次男治広に譲り、米沢城三の丸に建築した餐霞館で72歳で亡くなるまでの38年間藩政改革を指導しました。
   鷹山公の「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉が壁に描かれていたそうです。私の母は米沢市万世で生まれ育っている、小さいころから、よく鷹山の教えを聞かされていました。

2016.06.24:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

上杉家御廟所

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2006年の大河ドラマ『天地人』ひたすら利のみを求める戦国時代に、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。主君・上杉景勝、師と仰ぐ上杉謙信など、利を求める社会において発生する格差など現代社会に通じる問題、といった様々なテーマを盛り込みながら、兼続の生涯を描いた大河ドラマ良かったなー。あれから10年たったんですね、用事で米沢に行くが、お店あくまで時間あったので上杉家御廟所に立ち寄り。

ここは、上杉景勝が亡くなった元和9年(1623年)より上杉家の御廟所とされ、歴代の藩主が埋葬されてきた。明治6年の米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信の遺骸も、明治9年、御廟所へ移されました。廟屋は、上杉景勝から7代藩主・上杉宗房までが入母屋造り(火葬)、8代藩主・上杉重定(藩政を立て直した名君・上杉鷹山の義父)から11代藩主・上杉斉定までが宝形造り(土葬)と、時代により建て方に変化があります、もともと遺体は火葬してきたが、10代の鷹山公の時代になると、親を火葬にするに忍びないとして、それ以降は土葬するようになったようです。受付にキャロライン・ケネディ駐日米大使が米沢市で開幕した「なせばなる秋まつり」­に合わせ訪れた写真がありました、上杉鷹山公を尊敬し­ていた父ケネディ大統領、私たちも小さいころから『なせばなる』鷹山の教えを聞かされ、鷹山公は誇りに思っていました。天地人のとき景勝役(北村一輝)その妻、武田家の娘 菊姫役(比嘉愛未)さんも天地人撮影でおとづれています。

2016.06.19:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

伊達正宗のふるさと(資福寺跡その3)

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移住先の掃除がまだ続いて、毎度毎度の高畠町の千代田クリーンセンターにゴミ出し、帰りに資福寺跡周辺を散策、政宗館跡(夏苅館)から熊野神社あたりまで散策、そこで懐かしい半鐘のある風景がある、夏苅公民館の前にある鉄製の櫓、梯子の半鐘は実家のあるダリア園入り口にあったが今はない、江戸時代に火消が組織され半鐘が普及、寺院の梵鐘に比べ小さいので半鐘と呼ぶ、たたく数によって事件の内容を示す、そばに消防ポンプを納めた小屋もある、今はサイレンなどの通報手段があるために実用性を失った、やがてこれもなくなっていくのかな・・対面には茅屋根の小屋もありなんとも昭和っぽい風景、その昔、政宗君も片倉小十郎君も勉学に励んだ資福寺、この辺りは遊び場でもあったのだろう。

2016.05.26:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

伊達正宗のふるさと(資福寺跡その2)

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東置賜郡高畠町夏茂990

 慈雲山資福寺は、弘安年間(1278~1287)長井時秀西規が、鎌倉建長寺の僧、紹規を招き建立したものである。当時この地は置賜の要所で、関東十刹の1つとして東北の文叢の中心をなしていた。長井氏を滅ぼした伊達氏は資福寺を帰依寺、学問寺とした。伊達政宗が幼少のころ、資福時に住み、その住職に教育を受けました、そのお寺の後が高畠町にあります。千代田クリーンセンターの手前になります。

 伊達家は高畠を拠点として、120年あまりの間統治しておりましたが、天正19年(1591年)、資福寺は仙台に移された、資福寺にあった永仁4年(1296年)鋳造の浩鐘は亀岡文殊堂に寄進されたが、戦後改鋳され幻の鐘となったようです、残念です。現在は伊達家の墓と石積みが名残を残すのみとなってます、千代田クリーンセンターの前なのでよく立ち寄りますがいつ来ても地元の方がよく手入れしていてきれいにされてます。この日たまたま看板写真撮ったらキジが撮れました。

2016.05.22:li-no:コメント(0):[歴史探訪]