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軽鉄人物伝① 長晴登 (その2)

  • 軽鉄人物伝①  長晴登  (その2)

  長氏は政治家である共に実業家としても活躍している。「日本のタクシー自動車史」によれば、長氏は明治45年(1912年)有楽町に設立された日本初のタクシー会社の社長に就任。また、地元金融機関の監査役をはじめ、陶器会社の社長なども務め、「末は大臣とされた」人物である、と記述されている。

 大正3年の長井線開通祝賀会での祝辞が米澤新聞に載っている。時代の変化に対応する「弾力」の必要性を訴えていることに、長氏の事業家としての信念が感じられ、現代にも通じるメッセージであるように思える。氏は、大正5年(1916年)に逝去された。

 

【参考資料:南陽市史、日本タクシー自動車史】

【新聞記事提供:米澤新聞大正31117(二)】

2019.05.21:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

長高生卒展のご案内

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地元の長井高校芸術(写真)部の3年生引退作品展が、今月25、26日、長井市高野町の小桜館で開催されます。3年生は部を牽引して、初の全国大会出場も果たしました。3年間の集大成となる作品がどのようなものか楽しみです。来月からは、写真部の在校生による写真展を羽前成田駅で予定していますが、加藤弘一さんの写真展も5月26日が最終日となりますので、こちらもどうぞお見逃しなく。

軽鉄人物伝① 長晴登(その1)

  • 軽鉄人物伝① 長晴登(その1)
  • 軽鉄人物伝① 長晴登(その1)

 明治から大正にかけては、日本が西欧に追い付き追い越せと、近代化に向けてひた走った時代でした。それは同時に、開発の波に乗り遅れまいとして、国内の各地方が競い合った時代でもありました。この当時、地域振興の切り札と考えられたのが鉄道でした。そうした時代にあって、軽便鉄道長井線の実現の陰には、どのような人物がいたのであろう。鉄道建設にかけた故郷の先人を探ってみたい。

 第1回は長晴登氏。南陽市史に「奥羽線赤湯駅の命名者」として登場する人物であり、慶應2年赤湯生まれ、米沢興譲館、慶應義塾大学を卒業。明治28年8月から32年9月まで山形県議会議員、明治37年3月1日から大正3年12月まで衆議院議員でした。この時期は、明治39年(1906年)に鉄道国有法、明治43年(1910年)には軽便鉄道法が公布され、明治44年(1911年)第22回鉄道会議で赤湯~長井間の軽便鉄道予算が承認された時期にあたります。大正3年(1914年)第31回帝国議会、第35回帝国議会においては、長氏が委員長となり置賜・上白軽便鉄道建設建議案の審議・可決にあたっており、国会においても実力者であったことが伺えます。

【参考資料:南陽市史、帝国議会会議録データベース】

2019.05.18:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

ありがとう長井駅!

  • ありがとう長井駅!
  • ありがとう長井駅!
  • ありがとう長井駅!

長井市役所と長井駅が合築されて新たに建設されることに伴い、現在の長井駅は解体されることになりました。解体作業が始まる前に長井駅に感謝するイベントが、5月25・26日の2日間にわたって行われます。長井駅は、それぞれに多くの思い出がある場所であり、街のシンボルでもありました。改めて、感謝したいものです。30年前の長井駅は、山形鉄道のHPに掲示されていました。

山形鉄道HP(30年前の長井駅) → http://flower-liner.jp/yamatetsu_history/nagai/

木造駅舎と撮り鉄の聖地

  • 木造駅舎と撮り鉄の聖地

懐かしい絵はがきシリーズの最後に、川西町の知人にいただいた絵はがきを紹介します。大正3年11月15日の開通(紀)念の絵はがきです。裏面には「『西大塚駅を木造駅舎の聖地にしよう』2010.12.25 主催:置賜まちづくり学校川西班」という記載があり、事業の一環として絵はがきを復刻したようです。

駅舎を活用した事業に昔の絵はがきを活用しているアイデアに感心します。また松川鉄橋と西大塚駅という2大撮影スポットが写っているのも素晴らしいですね。まさに「木造駅舎と撮り鉄の聖地」と言えますね。

 

2019.05.14:orada2:コメント(0):[停車場の記憶]