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当時の客車はマッチ箱!?

  • 当時の客車はマッチ箱!?
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   長井市史第3巻には、当時の客車について次のように記述されています。「乗客用の車両は、俗にマッチ箱といわれたもので、乗客用の腰掛は向い合せに横に区切って作られており、その区切りごとにドアがついていたから、発車停車の際は車掌がいちいちドアのカギを外したり掛けたりした。乗降口は、腰掛の数だけあった。」「軽便鉄道の象徴ともいわれる側面乗降式客車(旧式4輪車)は、一名マッチ箱とも蔑称されていたが、長井線にも本線並みのボギー車が運転されることになった。それは昭和5年10月1日のことである。」

  マッチ箱と呼ばれていた客車の映像を探しあぐねていましたが、ようやく京都にある加悦sl広場に同じ形式と思われる車両(ハ4995)が保存されていることを知りました。上の写真は、広場を運営している宮津海陸運輸㈱の方から提供いただいたものです。お忙しい中、有難うございました。

【写真提供:宮津海陸運輸㈱加悦sl広場 http://www.kyt-net.jp/kayaslhiroba/

※sl広場のホームページもぜひご覧になってみてください。

600形はこんなかなぁ

  • 600形はこんなかなぁ
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  長井市史では次のように記されています。「軽便鉄道は・・略・・レール(軌道)の幅は国内鉄道と同じであるが、機関車も車両も小型のものであった。・・略・・本線を走る汽車がボギー貫通式になっているのに、軽鉄はマッチ箱列車と煙突の長い豆機関車であったから、赤湯駅に出て本線の機関車が入ってくると、思わず引き込まれるような恐怖を感じたものだった。」

  奥羽本線を当初走っていたのは2120形機関車(全長10,439㎜、全高3,810㎜)のようですが、その後、急こう配に対応して4100形(全長11,483㎜、全高3,787㎜)が導入されたとのことです。上の写真は、ウィキペディアに「600形の形式図」、「総武鉄道3(後の鉄道院630)」として掲載されていたものです。長井線を走っていた645号機と全く同じかは確かではありませんが、豆機関車のようには思えず、結構品格があるように見えるのですが如何でしょうか。

 

【出典・資料】写真及び機関車諸元はウィキペディア、記述引用は長井市史第3巻より

長井線を走っていた機関車は

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  さて、長井線を走っていた蒸気機関車では、96(きゅうろく)がよく知られていますが、軽便鉄道時代に走っていた機関車はどんな機関車だったのだろう。「当初の列車は汽かんも小さく、客車もボギー車と違い横腹に七つも八つも出入口のある極めて旧式なもので文字通りの軽便鉄道であった。」と、荒砥町史に記述されています。

 上の長井市史の写真では判然としませんが、白鷹町史に掲載された「開通当時の長井線機関車」の写真では645の番号を確認することができます。鉄道に詳しい知人からは、当時の機関車について次のようなコメントをいただきました。

 

 「写真から見ると長井線に配属されたのは600形機関車の645号機のようです。この車両はイギリスのナスミス・ウイルソン社製で、1887年(明治20年)から1904年(明治37年)までに78両が輸入され、日本各地で主力機関車として活躍しました。1906年(明治39年)の鉄道国有法公布後、形式が「600形」と改められ、600から677号機となり東日本に集められました。長井線を管轄する仙台管区には22両が配属され、主にローカル線や入れ替え用に活躍したそうです。長井線で活躍した後は、同じ仙台管区内であった新潟県の西吉田へ転属となったようです。たぶんそこで、最後の活躍(戦後間もなくの頃まで)だったのかもしれません。」

 ということは、大正11年の全線開通時は、イギリス生まれの機関車が同じイギリス生まれの最上川橋梁(平成21年 近代化産業遺産に認定)の上を走っていたということですね。

 

【写真と参考資料】 荒砥町史、白鷹町史・白鷹想い出写真館、長井市史

第22回鉄道会議で承認

  • 第22回鉄道会議で承認
  • 第22回鉄道会議で承認

   長井市史では、「軽便鉄道は、かつて『軽便鉄道法』によって定められた鉄道のこと」とありますが、事業決定の経過等については記載されていません。他の市町史などもほぼ同じ内容になっています。そんな中、長井線対策協議会が平成元年3月1日に編纂した「走れ!フラワーライナー」に、次のように明記されていました。

  ・明治44.12.28 第22回鉄道会議で軽便鉄道予算として承認される。

  「軽便鉄道法」(明治43.4.21 法律57号)に基づいて建設

 軽便鉄道法による建設は、予算の計上によって決定されるものであり、計画路線等の形で法律上に規定されるものではないようです。ここにも当時の鉄道行政を巡る複雑な政治状況が現れているようですが、それはさておき、鉄道会議の第1回の委員名が載っている資料が見つかりました。衆議院議員からの委員に「佐藤里治」氏の名が見えますが、佐藤議員は山形県西村山郡選出であり、鉄道庁関係委員会で重要な役割を果たしていたようです。鉄道会議の動きと地元のフィクサーが誰だったのか、気になります。

 

 【参考資料】「走れ!フラワーライナー 長井線転換の記録」 長井線対策協議会

       「新聞集成明治編年史 第8巻」 朝野新聞

 

長井軽便線はいつ決定されたのだろう

  • 長井軽便線はいつ決定されたのだろう
  • 長井軽便線はいつ決定されたのだろう

   軽便鉄道長井線が国有鉄道線路に登場したのは、開業4日前の鉄道院告示第97号でした。けれどもその前の段階で、計画路線としての検討や決定があるのが当然だろうと思えます。例えば、明治25年(1892年)鉄道敷設法では、奥羽線と米坂線が予定路線に指定され、その中でも奥羽線は第1期間内に着手すべき路線と規定されています。つまり、整備されるべき鉄道路線を、法律の中で明示しています。

 その手法は、鉄道国有法制定後の大正11年(1922年)に公布された改正鉄道法も同じ体系になっています。この法律では、第1条に「帝国に必要なる鐡道を完成するため政府の敷設すべき予定鉄道線路は別表に掲げる所による」として、別表25号に山形県左沢より荒砥に至る鐡道(左荒線)、26号に山形県米沢より福島県喜多方に至る鐡道(野岩羽線)が掲げられているのです。

 左荒線や野岩羽線といった路線が法律の中に規定されているのに、長井軽便線の名前は何処にも見つけることができません。我らが長井軽便線は、忽然と歴史の中に登場したのでしょうか。

 

【写真部分を2回クリックすると、拡大された写真を見ることができます。】