HOME > 『卯の花姫物語』 第3巻

卯の花姫物語 3-⑤ 桂江に覚念迫る

古寺山中の2
 桂江は、覚念が無体の恋慕の要求にせっぱづまって、一旦十日の猶予を約束して危難を逃れたが、その後をどうしようと考えると恐ろしい思いがする。
 吾身一人とも違って、今となっては吾等主従は世を忍ぶ匿れ人の境涯である。それに加えて、一朝自分がへたをやったら大恩受けた御上人様が御身に、ご迷惑がかかる事が生ずるのである。
 愈々覚念が毒牙が身に迫って、家経様に申し訳が立たない様な瀬戸際まで押し込められた其のときは、一死を以てこたえるばかりと覚悟を極めておったのである。頭脳鋭い姫は、昨今に於ける桂江が挙動によって、覚念が様子と合わせて桂江が主人をがばって一人で苦しんでおるのをすっかり判っていた。姫は桂江が可哀想でたえられなかった。或るとき、桂江に向かって辛いだろうがどうか頑張ってくれと云う自分も涙を流して泣いたのである。
 そうした憂き思いで暮らしておるうちに早康平六年も五月上旬となったのである。
 大忍坊に一時喜ばせの十日間の日限などがとうに過ぎて終わったのである。日限が過ぎたからとて、やたらな事は出来るものではない。十日間の日限と云うても、二人がそっくり出会う機会のない限りは、彼が毒牙通りの実行が出来るものではない。彼は其の機会ばかりを鷹が小鳥を狙うようにして気を焦らだたせて狙っておる始末。
 処がある日、桂江は他の女衆同僚三人で気晴らし乍ら、裏山へ山菜採りに出掛けて行った。始めの内は三人一緒に採っておったが、遂に分かれ分かれになって一人になった。はてと気が付いてあたりを見回したら、そこの側に一と群ら茂った薮蔭げに六尺余りの大の男がにやにや笑って立っていたのは別人でない。逃れに逃れ通して漸く之迄で無事でこられた覚念であったのだ。
 びっくり仰天したのは桂江であった。あれ貴方は覚念様、と思わず口走ってしまった。にやりと一つ笑った覚念は、正しく拙者は覚念様だが、それはどうしたとおっしゃるので御座いますのだ。まさかあのお約束が嘘であったと云う気では御座るまいなぁ・・。俺が方では待ち遠うて遠うて仕様がない程お待ち申しておりやした。今日と云う今日こそは、先達の日延べの日限果して貰いましょうよと。

卯の花姫物語 3-④ 古寺の魔手  

古寺の山中
 遊郭町と云うた処でも同様である。其所の場末の所で夜の金儲けを当て込んだ売春婦の五六人もが夜鷹を張っておった場所を差して女郎町と云う名前が付けられたので、お医者も他の商売も皆その程度のものであったと考えてよいのである。
 卯花姫が囲まれておった古寺の坊舎も同様である。今でも古寺千軒と云う言葉が残っている程繁昌した所であったと云うて見た処で人家の二十か三十戸位のものが関の山であったろう。そうしてあすこは正別当の処で僧兵も何百人の兵力であったと云うが、大たいは五十人位の荒法師がいたら関の山であったろう。
 又其地方に残っておる文献に(大たい旧藩時代に書いたものらしい何等かそうした意味の云い伝いを基として書いたものと思う)拠れば、どれを見ても前九年の役に安倍貞任に味方して、官軍方に不利を与えた に依て焼き打ちに打滅された上に向後千年の間御山を禁じて封じられたので、それ依頼 山の御山となつて終わったと云う意味に書かれておるが、あれは直接貞任に軍事上の味方をしたと云う意味ではないが、貞任が姫を隠してくれたので朝敵の同類と見なされたと判断するのが正しい味方であるのである。
 処が古寺の数いた坊主共の一人に、大忍坊覚念と云う大胆不敵の荒法師がいたのであった。痴漢性の男で日頃の行状が治まらない坊主であった。金さえあれば夜鷹の張り場に行って、酒と女にうつつを抜かしておると云う者であつた。処がどんな所にも六でもない図類が造りと云うものは出来るものである。やっぱり此山にも六でなし仲間で、大忍坊が手下に丁度よい中忍坊に小忍坊、こ木坊にべら坊、つっかい坊に厄介坊に、のっぺら坊の様な類ぐいの、いずれとしても六な者でない奴等がいてあつたのだ。
 姫が同勢は、女ばかりの十人足らずの主従で、ここの坊舎に厄介になって住居いをしておると云う存在であった。とても六でもない事件が始まらないではいられる道理はなかったのである。始めの内はじわじわと折りにふれ、事にふれて近寄って来たい素振りが判ってきたが、こちらはなる可く避る様にとつとめて逃れておった。
 そこで覚念も姫が美人であるのは勿論知らない訳がないのであるが、姫と古寺の一役僧との身分違いでは余り甚だしい相違にも過ぎるので、第二の美人の家来桂江が艶色に目を付けて、惚れ込んで一生懸命片想いに熱を上げていた。燃し戦争最中の間には結局、戦局がどんな事になるか判らない。このため、馬鹿なことを仕しては、万一の場合に後悔を残しては大変だと云う思いの観念もあるので、惚れてはおったが余り露骨なことはしないで通してきた。が、今となっては安倍方は完全に打滅されて、其残党の捜索が厳重を極めている今日である。此の頃になっては大変である。日頃ねらっていた彼が態度はがらりと変わった。桂江を狙って向かってくる彼が魔の手はまるで肉に飢えた飢虎が子羊を狙って追いかけるような露骨ぶりとなってあの手此の手で迫ってくるので、其毒爪を払いのけて身をまっとうする桂江が苦しみは又大変な事であったのだ。
 何とかして払いのけておる内に、彼が毒爪は最後の手段を打ち出して迫って来た。曰く、逆賊である御身が、いつ迄でも俺が要求に応じないとすれば止む得ないから、国府へ訴人して御身主従を国府の軍兵に召捕らせ、俺は訴人の功による御賞賜に願って妻に貰う様にする。それがいやならお前が心一つで主人も家来も助かるのではないかと云う。のツぴきさせない手ずめの迫り方であった。
 事巳にこれ迄でに至っては、絶対絶命の場合となって終わったのである。何んとしても吾等主従は、忍ぶ隠れ人であると云う弱みにつけ込まれた要求であるから、自分が一身ばかりの事ではない。大切なる主人の身にかかわる重大事である。すげなく跳ね付けなどしたならば大変である。どんな事態になるか判らない。愈々、桂江も決心を極めた。其うした要求を一応おさえておくには外の云い分けなどはどんな事を云うたとて効き目があるものではない。最後の手段は色仕掛けで騙しておくより方法がないと覚悟した。そこで一時のがれに、承知をするから身体の要求だけは月の経りによつて十日の間おけ免して貰う事を約束して別れたのであった。

卯の花姫物語 3-③ 御山の様相

当時の山嶽崇拝と御山繁昌の様相
 斑目四郎武忠は厨川落城の際、城中に囲っておいた美人が千人いたと云う噂があったので、必ず其中の一人として卯花姫もいるだろうと思って、そればかり血眼になつて八方を探したがおらなかった。生捕りの軍兵を責めて姫をどこに匿したと云うて聞いても知っている者がいないと云う有り様。いないのは当たり前の事である。絶対秘密にしていた貞任がそのまま死んで終わったから余人が知っている筈がなかったのである。
 当てが外れた彼は焦りに焦って、家来共になどはかり八つ当たりに当たり散らしておると云う。これまでは出羽の豪族清原武則が愛子と云う単なる者でさえもあれ程の強情者の彼は、今となっては段違いの地位である。奥州両州の鎮守府将軍の最愛の末子で、然かも戦勝の殊勲者であると云う地位である。
 八方に家来を放って厳重に捜索したがどうしても捜し当てる事が出来なかった。
 出羽の国朝日山の御山繁昌に付いての伝説や古文書等は其の地方にも随所に残っておるが大たい大同小異のものである。各方面の登山口即ち最上口、庄内口、置賜口、小国口、越後口、等々、其各々宿坊町が繁昌したと云う伝説は後の鉱山が繁昌したと云う説と殆ど同じ様なものである。
 以上述べた伝説の大要を記して見れば其の様なものである。何百軒もの人家が建ち並んで凡ての商店もある、寺町もある、遊郭もある、御役所もあって御仕事もあった繁昌の町になった場所跡だと云う伝説になっておる状態は何ずれの場所も殆ど同じ様なものである。
 今からそれを推察するには大たい何十分ノ一と考えれば当たらずとも外れの程度と考えてよいのである。寺町通りと云うのは宿坊町繁昌の場所だとすれば坊舎の建っておる処其場所の事が即ちそれであるが、鉱山町の場合だとすると死んだ人が出る度毎に里のお寺から和尚様をいちいち頼んでくる様な事は山では出来ないので、そこの内で少しの頭のいい気のきいた人がまあ・・・いい加減の唱い言とをして引導を渡してくれて葬って終うと言う。そこを差して寺町と云う。御仕事場と云っても、同様に悪いことをした者が出たとて一々里のお役人などを呼んで行くのは面倒臭いからそこのおもたった連中相談して重い奴は、殺して埋めて終う軽い奴はひっぱたき付けて追い払って終うと云う其一定の場所を差して御仕事場跡と云う。又そうした相談の場所を御役所跡と云うておるのである。

卯の花姫物語 3-② 前九年役の後始末

前九年役の戦い終わった後始末
 姫が隠れていた人里離れた古寺の山中へも、戦の情報が入って行かない訳がない。戦の結末を聞いた姫が主従二人の思いはどんなであったろう。二人は、貞任と経清が娘である。たとえ天子の命令であるとしても手を下して戦った人は、彼ら二人がやがて我が夫と頼んで片時も忘れることの出来ない義家と家経主従の二人である。しかも、最も力戦奮闘の戦攻者であったと云うに至っては、云うに言われぬ憂き思いに沈んだことは想像に余りあることであったのだ。
 そうした中に於いても姫が一行は、正徳上人の深い情けの恩情に隠されて、世間に存在を知られぬ様に安隠の生活が保たれておったのだ。一方国府の官軍は、其年一ぱいは戦後の始末に関した京都への交渉連絡の往復ばかりに過ぎて終わった。康平六年の春を迎えたのであった。二月の始めに去年賊将の首共を塩に漬けて貯え置いたのを京へ送ってやった。正式に逆賊追討の報告を上奏してやったのである。
 それでも未だ何にかれの雑用があって、清原家との話し合い等も終わって、ようやく奥州の地を引き上げたのは同年の五月下旬であった。今迄源氏が執っていた官領の事務一切は、新しく任命された鎮守府将軍清原武則に引き継いでいったのである。奥州は引き上げて去ったが、京へ真っすぐには未だ帰らない。元来源氏の故知であった相模の国鎌倉に寄りって由井の郷に鶴ケ岡八幡宮を造営して先勝の報告大祭を執行した。
 其年も鎌倉で暮らして、ようやく京へ帰ったのは翌康平七年の春であった。京を追討大将軍として出発した年から丁度十五年であったと云う。終戦後と始末の二年の間には家経を使者として古寺の山中の姫が許に時折の文通はして置いたが、いよいよ奥州を立つ時の五月上旬に、最後の別れの文み使いを家経として古寺へやったのであった。世が静まってから折を見て忍びやかに越後路を登って京にくる様にと云う意味のものであったと云う。
 朝日別当坊の古寺は、当時非常な登山参詣人で繁昌したものであったと云う。宿坊丈けでも何軒もあって物を売る店もあって何商売もいて暮らしになると云う処で今でも古寺千軒と云う言葉が伝えられておるのである。

卯の花姫物語 3-① 前号までのあらすじ

 将軍・源頼義の武将 藤原光貞の館が夜襲をうけるという事件が起こった。前9年の役の勃発である。その原因が、安倍貞任が、光貞の娘を妻にしたいと申し出たのを、光貞が「過去に朝敵であった者に、嫁にやることはできない。」とはね付けられたのを逆恨みしたものである。頼義は、安倍貞任一人の責任として処理をしようとしたが、安倍一門は戦の道を選んだのであった。
 卯の花姫は、父・貞任に「頼義殿に哀願をすべし」と諫言したが、貞任曰く「義家の色香に迷ったか。」ととりあわない。戦の命運を分けるのは、奥州の一方の雄・清原武則がどちらの側につくかということであった。清原は、将軍についたのである。義家の恋敵・斑目四郎武忠が、この陰にいたことは疑いのないことであった。
 安倍氏の本拠地・衣川の居城は攻略され、安倍貞任、藤原経清以下は討死。安倍宗任は降参して義家の家来となった。清原武則は、論功により出羽奥州2国の鎮守府将軍に任ぜられたのである。
 長井に伝わる卯の花姫伝説は、「姫が、父の戦略を敵将・義家に伝えたために敗れた。姫は、それを悔いて身を投げた。」というのが多い。その中で、菊地版物語は、義家と姫の清純な愛を基調としていることに特徴があると思う。
 それはさておき、第3巻は、逆賊の姫と桂江が、斑目四郎の毒牙に命危うしという物語である。