卯の花姫物語 3-② 前九年役の後始末

前九年役の戦い終わった後始末
 姫が隠れていた人里離れた古寺の山中へも、戦の情報が入って行かない訳がない。戦の結末を聞いた姫が主従二人の思いはどんなであったろう。二人は、貞任と経清が娘である。たとえ天子の命令であるとしても手を下して戦った人は、彼ら二人がやがて我が夫と頼んで片時も忘れることの出来ない義家と家経主従の二人である。しかも、最も力戦奮闘の戦攻者であったと云うに至っては、云うに言われぬ憂き思いに沈んだことは想像に余りあることであったのだ。
 そうした中に於いても姫が一行は、正徳上人の深い情けの恩情に隠されて、世間に存在を知られぬ様に安隠の生活が保たれておったのだ。一方国府の官軍は、其年一ぱいは戦後の始末に関した京都への交渉連絡の往復ばかりに過ぎて終わった。康平六年の春を迎えたのであった。二月の始めに去年賊将の首共を塩に漬けて貯え置いたのを京へ送ってやった。正式に逆賊追討の報告を上奏してやったのである。
 それでも未だ何にかれの雑用があって、清原家との話し合い等も終わって、ようやく奥州の地を引き上げたのは同年の五月下旬であった。今迄源氏が執っていた官領の事務一切は、新しく任命された鎮守府将軍清原武則に引き継いでいったのである。奥州は引き上げて去ったが、京へ真っすぐには未だ帰らない。元来源氏の故知であった相模の国鎌倉に寄りって由井の郷に鶴ケ岡八幡宮を造営して先勝の報告大祭を執行した。
 其年も鎌倉で暮らして、ようやく京へ帰ったのは翌康平七年の春であった。京を追討大将軍として出発した年から丁度十五年であったと云う。終戦後と始末の二年の間には家経を使者として古寺の山中の姫が許に時折の文通はして置いたが、いよいよ奥州を立つ時の五月上旬に、最後の別れの文み使いを家経として古寺へやったのであった。世が静まってから折を見て忍びやかに越後路を登って京にくる様にと云う意味のものであったと云う。
 朝日別当坊の古寺は、当時非常な登山参詣人で繁昌したものであったと云う。宿坊丈けでも何軒もあって物を売る店もあって何商売もいて暮らしになると云う処で今でも古寺千軒と云う言葉が伝えられておるのである。
2013.01.05:orada:[『卯の花姫物語』 第3巻 ]

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