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30年前の鮎貝駅

  • 30年前の鮎貝駅
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四季の郷駅は2007年(平成14年)の開設ですから、荒砥駅の次は鮎貝駅です。正面には長井線存続期成同盟会の看板があり、「今日もあの娘は長井線―夢を運ぶ長井線を利用しましょう」と書かれています。「今日もあの娘は長井線」は、地元のフォークグループ・影法師が同名の曲で存続運動を応援していました。気をつけて見ると、ホーム側の柱には、地酒の銘が入った灰皿が設置されています。壁はモルタル造りのような色合いになっています。枕木を利用した柵と花壇も素敵に見えます。

2017.02.22:orada:コメント(0):[停車場の追憶写真帳]

30年前の荒砥駅 ②

  • 30年前の荒砥駅 ②
  • 30年前の荒砥駅 ②

改札口付近の写真です。男の子が興味深そうに見ているのは何だったのでしょうか。ホームには応接セットが置かれ、腰板部分に赤い旗と「生活を明るく伸ばす国民年金」の看板があります。国鉄色のディーゼルカーが映る窓には、「国鉄の改革を」の文字が見えて、この当時の社会のざわめきが見えるようです。もう一枚には、「蒸気機関車時代の給水塔、保線、除雪用車両車庫」との記載があります。30年前の長井線を巡る旅、次は鮎貝駅に向います。

【写真提供 山形鉄道(株)】

2017.02.21:orada:コメント(0):[停車場の追憶写真帳]

30年前の荒砥駅 ①

  • 30年前の荒砥駅 ①
  • 30年前の荒砥駅 ①
  • 30年前の荒砥駅 ①

1986年(昭和61年)9月5日撮影の荒砥駅です。駅前の雰囲気はかなり変わっていて、当時の面影はほとんどなくなっています。看板を見ると「内陸に光を・・・内陸循環線 荒砥―左沢で」の大看板。駐輪場には 「ラブ白鷹 私のふるさと ゆるぎなき発展の主役はわたしたち 生きがいは白鷹町で」と、若者向けのメッセージが掲げられています。正面に掲げられている駅名看板「荒砥駅」は、他の駅の写真にはないデザインです。ホーム側からの駅舎の写真をみると、成田駅と同じような構造になっていますが、この時点で壁面はトタン張りになっていて、早くから修繕されていたことが伺えます。「屋根の痛みが大きい」「柱の下部が腐食」「天井に雨漏りの跡があった」などのコメントが記載されていました。

【写真提供 山形鉄道(株)】

2017.02.21:orada:コメント(0):[停車場の追憶写真帳]

30年前の成田駅 ③

  • 30年前の成田駅 ③
  • 30年前の成田駅 ③
  • 30年前の成田駅 ③
  • 30年前の成田駅 ③

待合室には「ビール祭り」のチラシが貼られている。30年前は駅員さんが委託ではあっても常駐していたようであり、駅長室も明るく見える。ホーム側の雪囲いは、通年設置していたと思われるが、ビニールトタンが真新しい。「便所は老朽化が激しい」「かつての貨物ホームは花壇になっている」とのコメントが記載されている。木造のトイレに趣きを感じるのは私だけであろうか。

【写真提供 山形鉄道(株)】

2017.02.16:orada:コメント(0):[停車場の追憶写真帳]

30年前の成田駅 ②

  • 30年前の成田駅 ②
  • 30年前の成田駅 ②
  • 30年前の成田駅 ②

この三枚の写真は、いづれも正面入り口の写真です。窓はアルミサッシ、腰板は木張りです。基礎の部分は腐朽していますが、魚が入っていたと思われる発泡スチロールに、マリーゴールドが植えられています。そう言えば羽前成田駅は、長井市の「花いっぱい運動」で最優秀賞の常連だったそうです。窓にもさまざまな花の姿が映っているのが見えるでしょうか。

2017.02.14:orada:コメント(0):[停車場の追憶写真帳]