HOME > 『卯の花姫物語』 第壱巻

卯の花姫物語 ①作者のことば

 さてさて、成田黒獅子祭りの記事をご覧になった方や、長井市の「黒獅子祭り」をご存知の方は、「もっと黒獅子祭りのことを知りたい。」と思われた方も少なくないことでしょう。そんな皆さんのために、新しいシリーズがスタートしました。
 このシリーズは、かつて昭和30年代に地元長井新聞に連続掲載されていたものを復刻したものです。作者は、五十川地区に住んでいた菊地清蔵さん。そうです、「おせきの物語」の原作者でもあります。
 文語体であり大長編でもあり、読みづらい部分もありますが、頑張って読破してみてください。そして可能であれば、現代語訳にしていただければ幸いです。それでは、始めましょう。

(序) 作者のことば
吾等の郷土長井の里に総宮神社と云う大社があって、昔総宮大明神と称しておった頃には、下長井四十余郷の総鎮守として崇敬されておったのである。そうして此の神社は社号が総宮大明神と云う名称そのままで、たくさんの御祭神社が合祀された神社であるのは云うまでもない事であった。そうした数有る御祭神の一体に卯の花姫の御霊が合祀されてあると云い伝えられておったものである。むしろ一般の民衆などは宮の明神様は卯の花姫を祭祀した神様だと心得ていたのが大たいと云う程度であった。
 処で其一面においてはそれ程尊い郷土守護の神様に事もあろうに、朝敵の大将安倍貞任が娘などを祭祀するとは何事であると疑念をいだくに疑問を抱く人もおる様でもあるが、其次第はこれから項を遂うて述べるので自然判つてくるが、それにしても概要だけを知っておかないと後を読むのに都合が悪いと思う。
 姫は安倍貞任が長女に生まれ源氏の大将鎮守府将軍伊守源頼義が嫡男八幡太郎義家と相愛恋慕の仲となった。二人の間に固い婚約が結ばれておったが、怱ちにして一旦成立した平和が破れて敵味方の身の上となって終わった。奥州前九年の大戦乱とは此の戦争のことである。戦いが終わった後に兼ねて姫が艶色に強烈なる恋愛に陥って来たる機会を狙っていた恋のかたき、出羽ノ国の豪族清原武則が最愛の四男斑目(マダラメ)四郎武忠が戦勝の余威を振って安倍貞任が残党討伐の軍勢として向かう大軍に遂い込められた。降参して我が意に従えば命を助けた上に手活けの花として寵愛を捧げんと云う矢文を幾度も受けたが姫は断固として退けた。義家との恋慕を捨てず吾が身は一旦八幡殿の御寵愛を豪った女である。「死すとも其面目を全うし長く此土地守護の神と化せん」と、遥かに京の空を眺めつつ義家を慕う悲恋の数々を絶叫して千尋の峡谷三淵の深淵にと身を投じて死んで終わった。即ち三淵明神や総宮大明神の祭神たるの由緒はこうした意味に拠るものである。
 之は伝説であるから歴史的真実性には疑わしいのは勿論であるが、古来から吾等が愛する郷土にこうした芳しい逸話の伝説があったと云う事をもって一つの誇りとしてよいと思う。仙境三淵の絶景の地に、姫の追い込められ最後の牙城として建て寵った。一旦寄手の大軍に味方少数の残兵を指揮し智謀略を以て殲滅に打破ったと云う。雲に聳ゆる彼の高嶺(標高10.546)の安倍が館山との二場所は昔を偲ぶに足るものである。
 時正に世の変転に恵まれつつ、やがて完成を相待つ木地山ダムと併せて市内観光地に数えられ、これから観光客や山岳隊の登山客等々を大いに迎えんとしてひたすら待ちわびおるのである。茲に筆者が該小説を試みんと企てた所以も即ちそうした意味に基因したのである。 著者 識

卯の花姫物語 ②記述の順序

記述の順序   

 此の物語りは、郷土としては一番の大物語りでありましょう。何は扨て奥州前九年の役と云う大戦乱に纏りついた事に終始したのであるから事は仰山である。其上此物語りは一種変わっている。と云うのは賊軍の大将の長女と、征討大将軍の嫡男との恋愛物語りと云う変り種のものである。
 記述の順序として奥州前九年の役が起こった奥州や其関係の隣国出羽の国と云う処は日本全国にたいしてどう云う程度の価値で、京都朝廷からどの程度に重要視されておった処であったかを判っきりしておかないとあんな大戦乱がなぜ起こったか、又それを平定するに、あの様に長い歳月を費やしてようやく平げ得たと云う事を解るに都合が悪い。もう一つは安倍氏の様な大豪族がどうして起こったか、又彼らが日常の生活状態はどうであったかも明らかにしておかないと、愈々本物語りの際に其真相を掴むにも不都合であろう。
 よって順序を奥羽二カ国の状態を最先きに書いて、次に此地の豪族安倍氏や清原氏等の存在を記して更に本文の物語りに移るを以て順序とするのである。彼の当時の奥羽二カ国を日本全国が六十余州だから其のうちの二カ国で大きな方であるから六十分の五か六位の勢力の価値だろうと考えたならば甚だしい間違いである。彼の当時の奥羽二州の力の価値と云うものはとんでもない事であった。ある意味からではあるが、驚くなかれ日本の半分の力にも該当する価値のある処であったのである。
 其次第は又次の様なものである。此の当時仮に京都政府へ出羽、奥州から年々送られる献馬、貢金がぴったり行かなくなったとしたならば、京都の朝廷が存在していられないと云う唯一の収入であったと云うことである。
 これは文政頃出た本であるが(日本全国石高一覧表)と云う書物がある。これに拠ると最も石高からの価値を云うのであるが、陸奥は百七十二万四千石、出羽は八十七万石で併せて二百五十九万四千石と云うことになる。全国総石高二千二百五十万石に対する一割強の場所であると云うことであった。これは江戸末期の調べであるが其広範の程度は以前から同じであったろう。そんな処を自由に支配して動かす様な豪の者に叛かれた京都の政府がたまったものではなかったでしょう。

卯の花姫物語 ③出羽奥州の砂金

 出羽奥州の二カ国砂金の産額

 出羽奥州に次いで広範の地域であった処は関東地域である。関東一の大国は武蔵で九十四万石である武蔵は今の東京都と埼玉県の処である。あそこは全国的位置が最もよい。奥羽へも京都へも中央の要所に位しておる。全国支配をするのには最も好都合であった。源頼朝の鎌倉幕府や徳川家康の江戸幕府などが皆彼の方面に根拠を置いた狙いは流石英雄の慧眼見上げたものであった。後に明治政府が江戸に還都して東京と改めたのも大たいそれに習ったのであったろう。
 茲に京都朝廷が奥羽二州を重視して常に警戒の眼をはなさなかった事の一つで、最も注意を要する見逃してはならないと云うのは、此国から産出する大量の砂金である。其産額は又とんでもない大量のものであった。全国の総産額を挙げても此処の産額には比べものにならないとほどに大量のものであったと云う事である。
 此当時は未だ鉱山事業と云うものが無かった頃で、金を掘るにはどうしても砂金によるより外無い時代であったから京都政府が重大の中の重大事であつたのも当然である。
 彼の世界的有名文書となっておる(マルコポーロの当方見聞記)の一節に今の中国の東に、弥馬台国(日本のこと)と云う黄金の島国があると云う記事を書かしめた。最も彼自身我が国に渡来して直接見聞したのではない。当時我が国人が大陸の文化製品に憧れて、それを購入するに余りにも砂金を乱費するに惜しまぬ状態を中国に於いて目撃したのがああした記事を成したのだ。云いかえれば即ち奥州から年々京都へ送っていた砂金がそうたらしめたと云うても、あながち過言ではあるまいと云う程に大量の産額であったのだ。其後三百年程の採収で奥羽の砂金は取り尽くして終わった。相次いで日本内地の砂金採収は殆ど尽き果てて終わったのである。
 当時の蝦夷が島と云うた処(今の北海道)は、何故に明治維新まで未開発のままでおったのか。其の最も大きな原因は、あすこにはもとから砂金の産出が大量にはなかつたのである。最も明治時代に北海道の砂金採収がある程度盛んであると云われたが、あれは採り尽くして終わった内地より少し多いと云う程度で、まあどうにか仕事にはなると云う位のものであって、奥州の最盛期の様な大量は始めから無い処であったのだ。

卯の花姫物語 ④卯の花姫の誕生

愈々本文 卯花姫の誕生

 豪族生活の状態は既述の様なものであった。そうした安倍の頼時を父として生まれた、貞任が育ち方であった。子守専務の女の子一人を付けて置かれた、貞任より十位い年上の女子供であった。処でそれは子守りと云うても只子守りばかりではない。食事の世話から着せ冠むせ、起き伏し一切がっさい世話をする付き添えの家来であった。夜は抱き寝して育てておったのである。
 処が貞任が十一の年であった。其子守女が妊娠した。生まれた児は玉の様な女の子であった。即ち卯花姫と云う名前が付けられた。
 頂度妹の様な年違いの娘であったと云うことである。そうした例は当時の豪族や貴族の生活にはおうおうにして見られたものであったと云う。更に項を進めて愈々安倍の一族が豪勢に任せて国司を無視した、不敵の振舞に如何なる国司と雖も責任上看過を許す可き筈がないのは勿論であるが、又それと同時に、制するにはそれに対抗する実力を有するを要すと云うのは絶対の条件である。そこに困った事があるのである。
 いったい当時の国司と云うのは今の県知事のことで、大体の場合は京都の文官出の官吏で武官ではなかった。(全国的に諸国の領主が頼朝幕下の将士をもって配置されたのは鎌倉幕府創立以後である)奥州の国司陸奥守藤原登任(ノリト)にも其実力が無かったのである。
 さりとて打捨て置かれる可きではないので、早速隣国出羽の国司出羽介平重成に応援を頼んだ。しかし火急の場合だから俄か仕立ての応募兵を駆り集め、両国司連合の軍勢で向かってみたものの、とても問題にならない対抗であった。
 遂々鬼切部と云う処の一戦に官軍は惨澹たる大敗で、再起が出来ない惨状に陥って終わった。今や両国連合の軍勢を粉砕した安倍家の勢力は、奥羽一帯悉く其勢力範囲におさめて終わった。しかし勝つには勝ったが、こうした場合の勝ち方は勝てば官軍、負けた方が賊軍とはいかない勝ち方であった。両国司連合の官軍を粉砕した安倍家は完全の叛賊となって、日本全国を向こうにまわして対抗する立場を自らこしらえたと云う事になったのである。京へは奥州の豪族安倍頼時謀叛すの注進は、櫛の歯を引く如くにとんで行った。

卯の花姫物語 ⑤征伐の大軍 京を出発

朝敵征伐の大軍京を出発

 頼義即座に、「御意の如く、頼綱がそれだけの自信ある力があるならば、向こうは吾家の本家嫡統であるから、自分は彼に喜んで大将軍の権利を渡します。」と、きっぱり答えた。
 そこで改めて、此度奥州征伐の大将軍に御下賜品として、必用の旨による伝家の宝刀を朝廷に献納する様に、と云う勅命が頼綱が許に降下された。それがいやなら汝が行って奥州の賊徒を追討してくるか、と云う意味の命令であったから驚いたのは頼綱であった。勅命に逆むけば偉勅の大罪人として取り扱われる。口惜うて仕様ないが、謹んで御受けをしたが、仲々献上の実行が遅れた。さりとて自分には智仁勇三徳兼備の大将たるの実力あるとは考えられない。
 御上からは再三再四の勅諚である、刀が惜しいならば汝が追討の任にあたるがよい、今や国家火急の一大事に大切なる宝刀をいたずらに因循するとは何事だと云う厳重な催促である。遂々諦めて献納した。改めて頼義に御下賜になったのである。これ以来頼義義家の系統は晴れて源氏の正統となったのである。
 茲で愈々奥州征伐の官軍は大軍をもって出発進軍の場面と云う処であるが、軍の勢揃いの様相、将軍幕下の将校級の姓名、顔触れ、等々を悉く詳述するには相当の長文を要する。其上そうしたことは他の歴史の諸書に依って世上周知の通りである。該小説は卯花姫恋愛物語りが専らの主体である。本文に直結のことを詳述することを要旨とした進め方にしたいので、戦争軍記の方は極く筋書程度に省略する事をおことわりしておく次第である。
 安倍の一族追討の大将鎮守府将軍兼陸奥守源朝臣頼義、同副将軍嫡男八幡太郎源義家が率いる猛将勇卒の大軍は、永承七年六月七日京を出発。威風堂々と進軍の途についたのである。
 此噂を聞いた諸国の軍勢は、吾れも俺もと東海、東山、北陸の三道から駆せ集まって参軍したので、雲霞の如き大軍となって刻々追ってくるの報告が、次から次へと安倍が本拠衣川の城へと伝わって行った。流石の賊魁安倍の頼時も奥州にいて、文官出の国司が官軍などこそを打ち負かして威張っては見たものの、源氏の大将父子が天下の大軍を率いてくると聞いては、全く怖気がさしてきたのであろう。