HOME > 『卯の花姫物語』 第壱巻

卯の花姫物語 ⑪忠の壱

 忠の壱 

 姫は心の内では、初対面の第一感で好かない男と思ったが、家の行事主催に応援衆の上席の人でもあってみれば、止むを得ない、此場の仕儀である。直ぐに座って恭々しく一礼した上に、「仰せの通り安倍貞任が娘・卯花と申する者で御座います。此度は又御後援として、御遠方態々御越し下さいまして有り難う御座います。只今は又気分少々勝れぬ為め、宿に下がって休もうと取り急ぎました。思わぬ不調法でありました。御免遊ばし下さいませ。」と平あやまりになって詫びをした。
 武忠は、姫を其の場に釘付けにとらえた喜びに勝ち誇った思いで大得意になった。大いに笑って、「いやいや卯花殿、最早御心配には及び申さぬ事。然しながら御座るがのう、八幡殿が御酌の御手並みの御見事さは、とくと拝見な仕っておりました。さり乍らとても、武士の片割れの一人で御座る御当家行事の応援として父武則を代表して出羽の国より参りし者。丸っきりのまんざらでも御座るまい一盃の御酌賜わりとう御座いますが如何なものでありましょうか。」と云うて大盃を突き付けた。
 姫は心に進まぬながらも、まさか否やとも云われぬ場合である。否や否や乍ら数盃の酌をしておったが、彼は始終姫が顔ばり眺めて、いやいや美人の御酌で呑む酒は又一段と味が違うもので御座るようと云い乍ら、にやにや面らでもっともっとと云うて果てしがなかった。どうも仕方のないものである。好きな男の御酌だと盃が干るのが待ち遠しい思いでするのであるが、其反対に嫌いな男にそうどこ迄でも強いられては耐えられない思いになるものである。その様子を悟った桂江は、恐る恐る進み出て、「あの申上げます武忠様。主人卯花姫、少々気分が勝れぬ様子で御座いますので、ここらで御暇戴きまして休ませとう御座います。何卒ぞ御免遊ばし下さいませ。」と云うて願った。武忠大いに笑って「いやいやこれはしたり。否なことを聞くものじや。八幡殿が御酌には御気分が御見事な御手並みに勝れて、某が酌が御病気で出来ないとは扨ても重宝な御病気で御座るわい。早よう御帰りになって御養生が肝腎で御座る。」。
 武忠も、「後程改めて御病気御見舞として御宿を訪ねて参らん。」と云うて皮肉っては見たものの、惜しい鳥を逃がした思いで帰してやった。

卯の花姫物語 ⑫姫と義家の恋愛

 姫と義家が恋愛愈々深し

 これ迄の仲となると若い者同士と云う者は、あたりかまわぬ様な振舞に迄なるものである。義家は毎晩、姫が病気見舞いに通う様になった。少しでも足が遠くなると姫の方で桂江を遣わして、家経が許を訪れさせて、「姫が苦しいから早く来て貰いたい。」と云う催促の使いである。義家が駆けつけて行くと、直ぐに苦しみは癒ってぴんぴんとなって、夜行けばみっしりおさえて翌朝迄帰さないと云う始末。ひどい病気もあったものだし。なんぼ押さえられたからとて、次の日迄、泊まり込んでいるとは、非道い御医者もいたものである。
 其の噂が世間に広まらないでいよう筈がなかった。噂はこんな事になって広まった。「お~い君々、聞いたかい。安倍家の姫で奥州一の美人が、病気で行かれなくて泊まっておったのに、八幡殿が病気見舞いにさえ行かれると直ぐに苦しみが癒ってしまう。御足が少しでも遠くなると直ぐに苦しみ出す。いつも御医者迎えが走る。何でも其の特別な御医者様が駆けつけて注射さえしてくれると直ぐ癒えると云う病気だそうであると云う。あ~~~っと、如何にお偉い人達だとてその道ばかりは変わりがないものよう。あはは・・・。」と云う巻説ふんふんとして伝わった。
 其の有り様では将軍頼義が耳にも入らない訳にはいかなかったようである。重臣からの言上によって知った頼義は、元来深謀遠慮の賢者であったのでつくづく考えた末に、若い者同志と云う者は仕様のないものである。然し乍ら安倍貞任が姫は、人物が優れておることは兼々聞いておったので、吾家の嫁としても不足はない女であるが、一旦彼の家は朝敵となって未だ日が浅い今日である。それを今直ぐに源氏正統の義家が正室として発表すると云う事は出来ない事である。さりとて、それ程本人同志が熱望しておる事を直ぐに破棄して終わると云う事も良い事ではない。いずれ国司陸奥守の任期が満了して、京に帰ってから時節を見て正式に発表するから、当分の間余り人の噂に上るような振る舞いを謹む様に、と云う温情のこもった注意であった。
 其の旨を重臣を通して義家が許えと申し渡したのである。義家父が温情こもった申し渡しに感銘、肝にめいじて有り難く謹んで御受けをしたのである。

卯の花姫物語 ⑬姫と義家の別れ

姫が義家との別れ

 其の趣を姫が所へも伝えられたのは云う迄もない事であった。たとえ一旦の別れですと云うても、あれ程恋しい八幡殿がお側から離れて故郷に遠く帰っていくのは、姫が胸の中は血を吐くばかりの悲しい思いであったのだ。でも頼義公が厚い温情のあふれた御取り計らいを考えて見れば、之れ皆恋しい、可愛い殿御の御身の為め。ひいては私共の身の上まで思うて下さるからこそのご教訓である。八幡殿の御身の為になる事でさえあったならば、どんなつらい事でも忍のばねばならないと思うのだった。元より賢い生まれの姫は、胸に分別して茲に涙を呑んで、一旦別れて帰る事を承知したのである。
 愈々出立の前夜は、義家を迎えて一晩中名残り尽きせぬ寝物語りに、飽かぬ別れを惜しみつつ夜を明かした。其の翌日、高木新三郎家経に送られて桂江と荷物を背負った下部二人とを従えた五人連れで、故郷の衣川へと出立した。其のようにやがて来る義家が正室となる希望を前途に描きつつ、一旦の別れの心づもりで別れたのが、一生の別れとなって終うとは神ならぬ身の知る由もない。後にぞ思い知られたのである。
 其の年も早くれて天喜三年(西暦1055年)となった。姫が毎日指折り数えて待ち兼ねておるのは、一時も早く国司の満期が来て、八幡殿が京に帰還して頼義公のお計らいをもって、八幡殿が正室として迎えの使者が晴れて堂々と来て貰う楽しい日がくるばかりを唯一の希望として暮らしていた。いつでも文の御使いとして家経が来たときは、必ず返事の文をやる。返事をやるとしても向こうから返り言ばかりでなく、家経から君が近況について色々聴いたのによっても書き加えてやらなければならないから、いつでも三四日の逗留になるのは普通のことであった。
 夜分に主従三人で話し語りの折りにふれて、姫はじょうだんに漏らすのに、「早く八幡殿の御側に行きたい。御身達ばっかり時折遇って楽しそうな様子を見ると羨ましうて仕様がない。ほほ・・・。」なんと云うて笑い興ずる事などもあったと云う。愈々其の年も天喜四年(西暦1056年)はやって来た、鎮守府将軍兼陸奥守源朝臣頼義が陸奥の国司満期完了の年となったのである。

卯の花姫物語 ⑭国司満期の年

 奥州国司満期の年

 愈々天喜四年(西暦1056年)の年こそは姫が待ちに待ち兼ねておった。前記の望みなどがなかったならば、之れ迄で別れてなどはおられない仲であったのだ。恋しい恋しい八幡殿が京へお帰りになる年。そのうえで、改めて迎えの使者を御遣し下さる可くの固い々お約束の仲である、と思い廻せばまわす程、我が身の前途は希望に輝く。世にも稀れなる高徳の君子八幡殿が正室と恵まれて、愉しい此の世が送られると思えば思うほど、此の世に女と生まれた甲斐があると、春から秋へと一足飛びにもなれかし思いで暮らしておった。
 しかし其の秋のことであったのだ。奥州多賀の城下に一大凶変が茫然とした。即ち今世にまでも有名な『奥州前九年の役』と称しておる大戦乱の導火線が発火したのである。此故によって折角、姫が愉しい思いで前途に望みをかけておった其の望みと奥州の仕官が頼義将軍が善政の治下に於いて、泰平鼓腹の生活の喜びと併せて木葉微塵に粉砕して終うと云うことになるのである。それは又次の様な次第であったのだ。
 茲に頼義将軍が幕下の部将に藤原光貞と云う人がおった。其の館へ或晩突然、闇に乗じて夜襲を仕掛けた。何者の仕業とも判らなかった。味方が必死の防戦によって追い払ったので、味方に死傷者が極く僅かしか出なかったのは幸いであったが散々に暴れ廻って引き上げた。厳重なる調べの結果、其の犯人は計らずも安倍貞任が仕業であると云う事が判明した。それは又、女故の事からであったのは誠に遺憾の至りである。
 藤原光貞が娘に非常な美人の女がおったのに、貞任が恋慕して自分が妻に貰いたいと云うて様々に手を尽くして見たが、光貞が承知しなかった。と云うのは今こそ源氏に従って家来になってはおるが、元を洗って見れば朝敵であった。たとえ金があっても力があっても、家柄が悪いから吾が家の娘をやる訳にはいかないと云うて承知しなかった。貞任は癪にさわって、今に見ておれ復讐をしてくれるからと思って其隙を狙っていた。しかし今度愈々此地を引き上げて京に帰って終う、と云うのでは仇を返す機会がなくなると思って、鬱憤晴らしにやったのであると云う事が判ったのである。
 卯の花姫物語 第壱巻はこれを持って終了。いよいよ戦乱の世が始まる。第弐巻をお楽しみに!!