HOME > 記事一覧

現代を照射する「ル・ボン」語録(群衆心理)…“愚民化”の先にあるものは!!??

  • 現代を照射する「ル・ボン」語録(群衆心理)…“愚民化”の先にあるものは!!??

 

 今から128年前の『群衆心理』で心理学者としての名声を不動のものとしたフランス人、ギュスタ-ヴ・ル・ボン(1841~1931年)は自著の中で「群衆とは、その構成員すべてが意識的人格を完全に喪失し、操縦者の断言・反復・感染による暗示のままに行動するような集合体である」と述べている。普仏戦争の際は軍医として、ストレスを抱える軍人の行動を観察するなどその幅広い視野は社会学や物理学の分野にまで及んだ。ル・ボンが“群衆心理”と名づけた時代の空気はまさに日本の、そして足元(イ-ハト-ブ)の「今」を照射して余すところがない。公開されているある市民ブログ(「浜名史学」)に「ル・ボン」語録が紹介されていたので、以下にその一部を転載させていただく。

 

 

●集団的精神の中に入り込めば、人々の知能、したがって彼らの個性は消え失せる。異質的なものが同質的なもののなかに埋没してしまう。そして、無意識的性質が支配的になるのである

 

●群衆はいわば智慧ではなく凡庸さを積み重ねるのだ

 

●群衆においては、どんな感情もどんな行為も感染しやすい。個人が集団の利益のためには自身の利益をも実に無造作に犠牲にしてしまうほど、感染しやすいのである

 

●孤立していた時には、おそらく教養のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、したがって野蛮人と化してしまうのだ

 

●単独の個人は、自己の反射作用を制御する能力を持っているが、群衆はこの能力を欠いている

 

●群衆は、思考力を持たないのと同様に、持続的な意志をも持ちえないのである

 

●群衆の中に入れば、愚か者も無学者も妬み深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じに取って代わるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである

 

●群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する

 

●思想は、極めて単純な形式を帯びたのちでなければ、群衆に受け入れられないのであるから、思想が一般に流布するようになるには、しばしば最も徹底的な変貌を受けねばならないのである

 

●群衆が、正しく推理する能力を持たないために、およそ批判精神を欠き、つまり真偽を弁別し、的確な判断をくだす能力を欠いていることは、付け加えるまでもない

 

●群衆は、熟考と推理の能力を欠いているために、真実らしくないことを弁別することができないのである

 

●民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実のあらわれ方なのである。それらの事実が、こう言っていいならば、いわば凝縮して、人心を満たし、それにつきまとうほどの切実な心象を生じねばならない。群衆の想像力を刺激する術を心得ることは、群衆を支配する術を心得ることである

 

 

 

 

《追記ー1》~二元代表制のもうひとつの姿(その1)…「イ-ハト-ブはなまき」との雲泥の差!!??

 

 

 「議会の請願採択を重く受け止めながらも対馬の将来に向けて熟慮した結果、文献調査を受け入れないとの判断に至った」―。原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場選定を巡り、長崎県対馬市の比田勝(ひたかつ)尚喜市長は27日の市議会本会議で、第1段階の文献調査の受け入れをしないと表明した。議場で見守っていた反対派の市民からは喜びの声が上がる一方、推進派市議は、口を真一文字に結んで厳しい表情を見せた。

 

 本会議場の傍聴席約40席は駆けつけた市民らで埋まり、関心の高さがうかがわれた。午前10時半前の開会から2時間近くが経過し、本会議の終盤に市長が壇上に立って「受け入れ反対」を表明すると、傍聴していた市民から「お-」という声が上がり拍手が起きた。市議会は今月12日に調査受け入れを求める請願を賛成多数(10対8)で採択したが、市長と意見が割れることになり、議場の推進派市議からは落胆の声が漏れた。議会後、反対署名を集めた市民団体「核のごみと対馬を考える会」のメンバ-は「核のごみ!! 比田勝市長 反対!!表明」と書かれた手作りの号外約50枚を議会周辺で配布し、通行人にアピールした。比田勝市長は記者会見でこう語った。

 

 「私自身も議会の請願採択は重く受け止めた中での判断。これは私個人の問題ではなく、対馬市で生活する市民の方たち、そして、対馬にこれから育つ子供たちの将来を考えた。議会と反する結果ではあるが、今後議会には丁寧に説明をした中で理解を求めたい」(27日付「毎日新聞」電子版)

 

 

 

《追記ー2》~二元代表制のもうひとつの姿(その2)…「イ-ハト-ブはなまき」との雲泥の差!!??

 

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画を巡り、斉藤鉄夫国土交通相が軟弱地盤改良に必要な設計変更を承認するよう勧告したことに対し、沖縄県の玉城デニー知事は27日、県庁で記者団に「期限までに承認を行うことは困難だ」と述べた。勧告は27日までの承認を求めていたが、知事は判断を先送りする。国交相は今後、地方自治法に基づき、承認するよう指示する文書を県に送るとみられる。

 

 玉城知事によると、国交相宛てで送った27日付の回答文書では、県民や行政法学者らからさまざまな意見が寄せられていることを挙げ「県政の安定的な運営を図る上で、これら意見の分析を行う必要があることなどから、勧告の期限までに承認を行うことは困難である」とした。判断する時期のめどについては、取材に対し「その都度、対応は検討したい」と明言を避けた。

 

 知事が「指示」にも従わない場合、国交相は、知事の代わりに承認する「代執行」に向けた訴訟を提起する見通し。設計変更は、辺野古にある米軍キャンプ・シュワブ東側の埋め立て予定海域で見つかった軟弱地盤を改良するため、2020年4月に防衛省が申請。県は21年11月に不承認としたが、国交相は22年4月、不承認を取り消す裁決をし、県に承認を迫る是正指示を出した。県は是正指示などの取り消しを求め提訴したが、9月4日の最高裁判決で敗訴が確定した(27日付「毎日新聞」電子版)

 

 

 

《追記ー3》~日本人は国民的規模で「狂っている」!!??

 

 こんなショッキングなキャッチコピーが踊る書籍の広告が目に飛び込んできた(27日付「朝日新聞」)。内田樹(知の巨人)と白井聰(気鋭の政治学者)との対談集『新しい戦前』。「大軍拡、物価高でもまるで無反応」「自己防衛の果てに壊れる若者」…。おどろおどろしい小見出しが続く。「この悲惨な現実を見よ」と二人は訴えている。さっそく注文した。29日には届くらしい。この日はちょうど「中秋の名月」。その月明かりの下でページを繰ってみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

10年ひと昔…新図書館試案検討会議も「開店休業」丸1年~議場というリングで“スイングする質疑”を~そして、行政文書「不在」の仰天!!??

  • 10年ひと昔…新図書館試案検討会議も「開店休業」丸1年~議場というリングで“スイングする質疑”を~そして、行政文書「不在」の仰天!!??

 

 「知の泉 豊かな時間(とき)/出会いの広場」(平成24年10月)―。市民各層でつくる「花巻図書館整備市民懇話会」がこんなキャッチフレ-ズを掲げて、新図書館建設に向けた提言をしてからすでに10年以上が経過した。①郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館、②すべての市民が親しみやすく、使いやすい環境に配慮した図書館、③暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館―この三つを基本コンセプトにすえた“夢の図書館”づくりはいま、真逆の「駅前立地」への道を強引に進みつつある。

 

一方で、「図書館のあり方を」を検討するはずの「新花巻図書館整備基本計画試案検討会議」(座長・市川清志生涯学習部長)も昨年9月20日の会議を最後にこの日でちょうど、“開店休業”丸1年を迎えた。さらに、立地予定の土地所有者であるJR東日本側との「譲渡交渉」について、市側は市議会6月定例会で「前向きの回答をもらった」と明言したにもかかわらず、開会中の9月定例会(会期は21日まで)ではその後の経過に触れることはなかった。機能不全どころか、“機能停止”に陥っているとしか言えない中、新図書館自体の建設さえおぼつかない状態になったという声も市民の間から出始めている。

 

 「新花巻図書館整備基本計画を策定するにあたり、新花巻図書館計画室がまとめた新花巻図書館整備基本計画試案について、専門的な見地から意見を出し合い、新花巻図書館の機能及びサ-ビスを検討し、基本計画に反映させることを目的として設置された」(HPから)―。「試案検討会議」は2年前の4月26日、有識者など20人をメンバ-に第1回目の会議を開催。1年前の9月20日の第12回会議を最後に、“利権”疑惑(9月4日付当ブログ「新花巻図書館をめぐる“利権の構図”(下)」を参照)を積み残したまま、その後1回も開かれないままで現在に至っている。こうした状態に危機感を募らせる市議も現れ、ある新人議員は自らのブログ上(15日付)に議論の活性化を促すための提案をして注目を集めている。

 

 この議員は昨年夏の市議選で初当選した元市職員のN氏で、どの会派にも所属しない「無会派」に身を置いている。N氏は「(アントニオ猪木VSモハメド・アリの対決を例に挙げながら)議場においては、異種格闘技戦のようなかみ合わない殺伐とした、時にはいがみ合うような議論の方が盛り上がる時があります。ただ、そういった議論は感情的になり、『いい』『悪い』の二項対立になりやすく、ただ時間ばかり経過することが多い」と手厳しく批判した上で、その典型的な例が新花巻図書館の(駅前か病院跡地かの)「立地」論争だと断じた。

 

 N氏はこうした平行線を打破するためには“スイングする質疑”こそが有効だし、今議会における自身のある”実践体験“を元にこう説明している。「質問者(議員)は答弁者(首長など)の人格をけなしたり、揚げ足取りをするのではなく、行政課題について住民の声を反映しながら、行政が気づいていない問題などを質し、答弁者は質問者の質問を真摯に受け止め、必要であれば行政の方針を変えながら、よりよいまちづくりを目指す議論」―これこそが「実りのある議論」だと…。つまりは野球用語の「スイング」に通じる感覚である。

 

 「議会と市長は対等の機関として、お互いに抑制、協力することで緊張感を保ちながら、自治体の運営に散り組む制度のこと」―。花巻市議会基本条例は「二元代表制」について、こう規定している。議会の憲法とも言われるこの精神が踏みにじられていることを知り、逆に仰天した。そして、今回の勇気ある“内部告発”に拍手を送りたい気持ちになった。来る12月定例会では“スイングする質疑”を十二分に駆使して、デッドラインに追い込まれつつある「図書館」論議に活路を開いていただきたい。N氏自身もブログの中で「これからはより一層、質の高い質疑による『実りのある議論』を増やしていきたい」と意欲を示している。

 

 

 

(写真は第1回目の検討会議。右側のマイクの人が市川部長=花巻駅前のなはんプラザで)

 

 

 

 

《追記ー1》~「カサブランカ」のあのセリフが!?

 

 1年間も“開店休業”を続けてなお、平然としている役所の怠慢に沸々と怒りがわいてきた。と突然、映画「カサブランカ」(1942年、米国)で、ハンフリ-・ボガ-トとイングリッド・バ-グマンとが交わしたあの名セリフが…。「昨日はどこに?」「そんな昔のことは覚えてない」「今夜会える?」「そんな先のことは分からない」―。そう、「その一瞬一瞬を懸命に生きることが大事なんだ。老い先が短いオレには開店休業しているヒマなんかない」

 

 

《追記―2》~賢治没後90年と図書館”幻想”

 

 宮沢賢治の没後90年の命日に当たる21日、わずか500字余りの掌編『圖書館幻想』を再読した。「おれはやっとのことで十階の床(ゆか)をふんで汗を拭った。そこの天井は途方もなく高かった。全體その天井や壁が灰色の陰影だけで出來てゐるのか、つめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからなかった。(さうだ。この巨きな室にダルゲが居るんだ。今度こそ會へるんだ)…

 

 こんな書き出しで始まる不思議の文章である。場所は東京・上野にあった帝国図書館(現在の国立国会図書館、通称“上野図書館”)で、文中の「ダルゲ」とは生前、一番心を許した親友の保坂嘉内とも言われるが、その交友関係の実相はいまだ闇に包まれたまま。この日、そぼ降る雨音を聴きながら、賢治にとっての図書館とは「夢を描く場」であると同時に心の「秘密」をそっと、隠しておくところだったのかもしれないと思った。賢治の記憶が詰まった病院跡地へ「イーハトーブ図書館」を実現したいという思いがますます、高まった。全文は以下から。

 

 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4884_48380.html

 

 

《追記―3》~100年前と変わらない、いやもっと悪辣な政治家の精神構造

 

 「小汚い格好に加えチマ・チョゴリやアイヌのコスプレおばさんまで登場」「同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」―。ヘイトスピ-チの常習犯として知られる杉田水脈衆院議員(自民党)のこの発言について、札幌法務局は今月17日付で「人権侵害があった」と認定、本人に啓発した。この「空気」発言こそがまさに、言葉による“虐殺”そのものではないのか。

 

 国連女性差別撤廃委員会(2016年)に関する投稿だったが、関東大震災の際の朝鮮人虐殺事件(9月15付当ブログ参照)の教訓が生かされていないどころか、その事実さえなかったことにする形で差別感情がますます、拡散しつつあることにゾッとした。直近では広瀬めぐみ参院議員(自民党、岩手選挙区)の“エッフェル”事件を擁護するなど、自治体議員も含めた公人の資質の低下は目をおおうばかりである。

 

 

《追記―4》~「加虐、しいたげる側の顔というものは存在しません。加虐には顔がないのです」(詩人、(金時鐘=キムシジョン)

 

 差別というものは、遠巻きにするだけで相手に直接かかわらず、相手を対象としてすら見ないでいる中でますます執拗(しつよう)なものになってゆくと、詩人は言う。差別する者はそれゆえ、自分では差別しているとすら思わない。差別を被る側は逆に、そういう形で「離れ小島」のような場所に押し込められ、歪(いびつ)に塞いでゆくほかないのだと。講演「善意の素顔」(1997年)から。(9月23日付「朝日新聞」連載の鷲田清一「折々のことば」から)

 

 

《追記―5》~“異論”封じ、ついにここまで!!??

 

 反戦デモに許可なく参加したなどとして、愛知大は学生自治会役員の学生3人に退学の懲戒処分を通知した。3人は22日、「自治会の運動と組織を破壊するための政治的意図に基づく処分」と不当性を主張し、川井伸一学長に処分取り消しを求める再審査請求書を出した。3人によると、15日付の処分通知書は川井学長名で、「反戦デモに参加し、無断で『愛知大学学生自治会』の旗を掲げて」「本学公認の活動であるかのような外観を作出した」など6~7項目の「不適切な行為」が列挙されていた。愛知大広報課の担当者は取材に「個人情報の面でもコメントは差し控えたい」と述べ、処分の有無も明かさなかった(9月22日付「中日新聞」、要旨)

 

 

《追記―6》~行政文書は“不存在”!!??

 

 「2023年6月13日付でJR東日本から花巻市宛てに発出された『土地譲渡』交渉の回答(メ-ル送信)以降の交渉経緯を明示する各種公文書の開示」―。今月19日付のこの文書開示請求に対して25日午後、「当該文書は不存在」という回答が電話であった。ということは、この間3か月以上の間、JR東日本との「土地譲渡」交渉はなかったということか。はたまた、「非公式」つまり“秘密裡”に交渉を続けてきたということなのか。新図書館をめぐる“闇(やみ)”の構図は深まるばかりである。

 

 

 

 

 

映画「福田村事件」…「いま」を照射する関東大震災と朝鮮人虐殺

  • 映画「福田村事件」…「いま」を照射する関東大震災と朝鮮人虐殺

 

 花巻祭り初日の8日、コロナ禍を経て4年ぶりの全面開催となったお祭り広場の喧騒(けんそう)を避けるようにして、私は宮古市の映画館に向かった。100年前、同じように村祭りを祝ったはずの地方の寒村でなぜ、あのような凄惨な事件が起きたのか。“群集心理”の暴走を描いた映画「福田村事件」(森達也監督、2023年9月1日公開)にその記憶の根っ子を探りたいと思ったのだった。道中、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた海岸沿いの防潮堤が実は災害防止というよりも、巨大な記憶の“忘却装置”のようにさえ見えた。歴史から消された「過去」を知りたいと思う渇望がいや増しに強くなった。

 

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。首都東京を含めた近県で、死者・行方不明者が10万5千人をかぞえる大惨事となった。戒厳令が発令される中、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた。略奪や放火をしている」といった流言飛語(りゅうげんひご)がまたたく間に広がった。監督官庁の内務省(当時)も暗にこのことを認め、マスコミもこのデマ情報をいっせいに垂れ流しした。民間人で組織された「自警団」などによって殺害された朝鮮人は最大で6千人に達するというデ-タもある。

 

 「福田村事件」は大震災発生の5日後の9月6日、首都圏から約30キロ離れた千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で起きた。映画の前半では村の寄り合いや冠婚葬祭、無念の帰還をした出征兵士の出迎えなど、当時は全国のどこにでも見られた光景が延々と映し出される。同じころ、四国・香川から親子や縁者など15人で編成する薬の行商団が内地に向けて出発した。前年の1922年には被差別部落の解放を目指した「水平社」宣言が発せられている。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」…日本で初めての人権宣言と言われるこの宣言文がまるで、通奏低音のようにスクリ-ンに流れる。その頃、一方の福田村にも首都圏からの避難民が続々と押し寄せ、あのデマ情報があっという間に口伝えで拡散していった。

 

 利根川沿いの村境に達した時、異変が起きた。「(讃岐弁を耳にした村人が)聞いたことのない言葉だ。朝鮮語だ。こいつら朝鮮人だ」―。このひと言が村人たちの疑心暗鬼に火をつける結果になった。にわか仕立ての「自警団」が襲いかかり、幼児や妊婦を含む9人が殺された。村の駐在が「(鑑札を調べた結果)この人たちは日本人だ」と仲裁に入ったが、すでに遅かった。行商団の団長が殺害される直前、宙を仰ぐようにしてつぶやいた言葉が耳にこびりついている。「朝鮮人なら殺してええんか」―。映画の中で自らを「エタ」(被差別部落民)と呼ぶ行商団と日本の植民地下にあった朝鮮人…。その「差別」の重層構造に打ちのめされた。

 

 「群れは同質であることを求めながら、異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする。この場合の異質は、極論すれば何でもよい。髪や肌の色、国籍、民族、信仰、そして言葉。多数派は少数派を標的とする。悪意などないままに、善人が善人を殺す。人類の歴史はこの過ちの繰り返しだ。だからこそ、知らなくてはならない。凝視しなくてはならない」と森監督は語り、パンフレットには「これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語」という言葉が刻まれている。

 

 そう、私たちはつい半年前まで「自粛警察」とか「マスク警察」などといった現代版「自警団」に翻弄(ほんろう)されていたのではなかったか。その意味では、100年前の福田村事件こそが足元を照らし出す貴重な記憶ではないのか。

 

 花巻祭りの最終日、私はその時に目にした光景を正直な気持ちでつづった(10日付当ブログ参照)。祭り好きは人一倍のつもりであるが、目の前の祭りの“熱気”と当時の福田村の村人たちの“狂気”とが一瞬、重なり合うような気持になったからである。たとえば、それがひとつの塊(かたま)りになった時の”熱狂”みたいな…

 

 風流山車の先導役を務めるその人物を見つけた市民が「あれ、なんであの人が」と口走った言葉を私は耳に聞き取っていた。“エッフェル”事件で批判の渦中にある国会議員が”神域”ともいうべきその行列の中にいた。しかも、神輿まで担いでいたとは。本来なら、この種の神聖な場に身を置いてはならないはず…その市民の不信感に私も同意した。「“不都合な真実”はなかったことにする」―。気の遠くなるような時空を経てもなお、あの時と同じような「空気」の色合いにギクリとした。福田村事件の犠牲者追悼慰霊碑が建てられたのは事件から80年が経過した2003(平成15)年のことである。

 

 車で片道3時間も要した映画鑑賞の帰路、映画館がひとつもない足元の貧しさにハタと我に返った。まるで、文化が果てるまちではないか。その「イ-ハト-ブはなまき」ではいま異論を排除するかのような形で、新花巻図書館の「駅前立地」が強引に進められようとしている。森監督は「集団に埋没しないためには、一人称で自分を語ることが大事だ」とテレビのインタビュ-で話していた。ネット社会のいま、フェイクニュ-スは瞬時に世界を席巻(せっけん)する。船頭の「倉蔵」や元教師の「智一」が意を決したように止めに入る場面が大写しになった。「二人の勇気」に身震いを覚えながら、「一人称」の大切さを改めて実感した。

 

 

 

 

(写真は映画「福田村事件」のポスタ-)

 

 

<註>~事件の背景やその後(ウキペディアなどより)

 

 この事件に関連し、8人が騒擾(そうじょう)殺人罪に問われたが、被告人らは「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と主張した。全員に実刑判決が言い渡されたが、昭和天皇の即位による恩赦で釈放された。出所した中心人物の1人は後に選挙を経て村長になり、村の合併後は市議会議員を務めた。背景としては事件の4年前、日本からの独立を求める「三・一運動」が起きた際、それを弾圧するためにメディアを総動員して、日本に歯向かう「不逞(てい)の輩」という宣伝が流布(るふ)された。関東大震災時、朝鮮人虐殺につながった流言飛語の背後には「権力」に従順な善良な国民たちの“群集心理”が潜んでいた。

 

 

 

《追記―1》~伊藤野枝・大杉栄没後100年記念シンポジウム

 

 関東大震災の混乱に乗じ、社会主義者や自由主義者などが検束・殺害される事件(亀戸事件や甘粕事件など)が相次ぎ、社会運動家の大杉栄と妻の伊藤野枝、甥の橘宗一の3人は9月16日、憲兵大尉の甘粕正彦らによって殺害された。今月24日には明治大学(東京)駿河台キャンパスで、作家の森まゆみさん(「『青踏』時代の伊藤野枝」)とルポライタ-の鎌田慧さん(「大杉栄 自由への疾走」)らが自著をベ-スに「現代における震災100年」を語る。なお当時、自警団などによる犠牲者は朝鮮人と間違われた中国人や言葉のなまりを疑われた沖縄や秋田の人まで広範囲に及んだ。

 

 

 

《追記―2》~「分断すらない日本人」

 

 公開中の映画「国葬の日」を監督した大島新監督が「世論を分断させたかのように報じられた(安倍元首相の)国葬を映画化してみて、むしろ『分断』すらなかった実態が明らかになった」と次のように語っていた。顕在化しない分だけ、事態は100年前もより深刻なのかもしれない。「お上が決めたら素直にすべて従う『お上主義』の人は、かなりいると思う。周囲と違うことをやらない。同調圧力が強い。日本全体の『ムラ社会』的な空気や土壌が影響している。もっと一人ひとりが自立している世界。そういったことを望みたい」(9月17日付「朝日新聞」)

 

 

 

《追記―3》~市民力、全開!!

 

 花巻市内でフェアトレード店を経営する新田史実子さんが主宰する「暮らしと政治の勉強会」が今回の岩手知事選で全開、“市民力”の大切さを教えた。次は夢の図書館を目指した全国規模の署名運動へとフットワークの軽い市民運動を展開中。以下のアドレスからどうぞ

 

おいものブログ:SSブログ (ss-blog.jp)

 

 

 

 

 

新花巻図書館をめぐる”利権の構図”(番外編)…(道義的には)不適切だが、違法ではない!?、~そして今度は“エッフェル”女子が山車の先導役に!!??~旧統一教会の“悪夢”、ふたたび!!!???

  • 新花巻図書館をめぐる”利権の構図”(番外編)…(道義的には)不適切だが、違法ではない!?、~そして今度は“エッフェル”女子が山車の先導役に!!??~旧統一教会の“悪夢”、ふたたび!!!???

 

 「新しい風は、市政の風通しをよくしたいということです。すなわち市民への情報提供に努める。そして市民の皆様、市議会及び議員の皆様の声をよく聞く。それから、市政の決定過程の透明性を高める。どうしてそのような市政を行ったのかがきちんと説明できるように。市長が決めたということではなく、市長がなぜ決めたかということをしっかり残すことが大事だと。そのようなイメ-ジを持っております。それで、市民と一緒に花巻市をよくしていこうと、そういう風を吹かせたいということでございます」(平成26年3月開催の花巻市議会3月定例会の会議録から)―。

 

 上田東一市長は初当選後の初議会で、私の質問に対してこう答弁した。何度読み直しても初々しい決意表明である。ところが、ふと足元に目を転じると新花巻図書館をめぐる“利権”疑惑に見られるように、忘れてはならないはずのその“初心”は霧の彼方にかすんでしまっているではないか。

 

 「19,194,190円」―。今年4月26日付で公表された上田市長の「所得等報告書」によると、非上場株式の譲渡所得名目で約2千万が計上されている。配偶者(妻)が経営する大手廃棄物処理業「(株)サンクリ-ン」が昨年6月15日付で他業者に営業権が移ったのに伴った株式所得で、法的には問題はないとされる。一方、市民の間では「市側と請負関係にある企業からの利得になることに道義的な疑義は生じないか」という声が上がっている。

 

 同社をめぐってはかつて「花巻温泉郷廃棄物処理組合」の安藤昭組合長(花巻温泉社長)が会計担当の監査役を兼任するという「委任―受託」疑惑が浮上した。当時、実際の処理業務はサンクリ-ンに一括委託されており、委託料の2分の1が市側からの補助金で年間1,100万円から1,600万円の幅で交付されていた。残りの相当分が組合負担で多い時は総額4千万円(令和元年度)に達していた。

 

 「コンプライアンスは、一義的には法令遵守と訳されているところでございまして、広義のコンプライアンスとしては、法令はもとより、県や市町村の条例、規則等、さらには社会的な規範の遵守まで含まれているものと存じているところでございます」(平成28年6月開催の花巻市議会6月定例会の会議録から)―。上田市長は一貫して、初心に加えて“コンプライアンス”の重要性をことあることに強調してきた。ところが一転、手の平返しのような手法が大手を振るい始めた。たとえば、黒塗り文書(いわゆる“のり弁”)の乱発や新図書館をめぐる「利権の構図」、市民から疑念の目が向けられる“不労所得”…

 

 「上田」語録をつらつら、反芻(はんすう)しているうちにハタと思い出した。就任直後の最大の懸案だった「新興跡地」の売却問題に際し、上田市長は「利活用の目的がはっきりしない土地の取得に市民の大切な税金を使うわけにはいかない」と言明した。瓦礫(がれき)の荒地と化してすでに5年以上。そういえば、その口から「市民の大切な税金…」という言葉がつとに聞かれなくなったような気がする。とくに、新図書館の「駅前立地」が表面化した以降は…。駅前立地に伴い、新たな税金(土地購入費や建物の解体費用など)の投入が避けられなくなるという事実はなるべく、表ざたにはしたくないということかもしれない。その意味では、正直な人ではある。

 

「(道義的には)不適切だが、違法ではない」―。3期目を迎えたいま、自らが“公約”に掲げてきた「社会的な規範の遵守」を破り続けてなお、恬(てん)として恥じない強権姿勢がますます、顕著になりつつある。

 

 

 

 

(写真は開会中の9月議会で、強気の答弁を繰り返す上田市長=花巻市議会議場で。インターネット中継の画像から)

 

 

 

 

《追記ー1》~えっ、あの“エッフェル”女子が!!??花巻まつりの先導役に出現!!!???(コメント欄に写真を2枚掲載)

 

 

 「まさか、禊(みそぎ)のつもりじゃあるまいな」―。花巻まつり最終日の10日午後、風流山車のパレードを先導する一群の中にその姿を見つけた時、一瞬、わが目を疑った。自民党女性局のフランス研修旅行で国民の顰蹙(ひんしゅく)を買った“エッフェル”女子のひとりで、参議院議員(岩手選挙区)の広瀬めぐみさん(57)に似た姿が目に飛び込んできたからである。「でも、まさかな」と思ったが、周囲の「あれ、あの人、あの広瀬さんじゃないの」という声で、あわててシャッタ-を切った。確認したら、やはり本人に間違いなかった(広瀬スキャンダルについては、8月11日付当ブログ参照)

 

 この人は先の知事選で落選した千葉絢子陣営の最大の支援者と目されていたが、例のスキャンダルが足を引っ張ったのではないかとうわさされている。そのご当人が今度は花巻市民が待ちに待った「ハレの日」に現れたのを知り、この厚顔ぶりにまたびっくり仰天。「自分の過ちの禊のつもりで、祭りを利用しようとしたのか。有権者を裏切っておきながら、縁起でもない。だとすれば、まるで疫病神」という厳しい声も聞こえてきた。

 

 それにしても、上田東一市長や藤原伸市議会議長のほか、隊列に加わった名士のお歴々が誰ひとりとして、この「是非(理非曲直)」に無頓着だったとすればむしろ、そっちの方が大問題である。お祭り騒ぎに乗じて「(スキャンダルは)なかったことにしよう」という魂胆がミエミエ。「禊」には元々、「水に流す」という意味が込められている。「不適切だが、違法ではない」(上記当ブログ参照)という上田流がこんな形でまつり最終日に披露されるとは予想だにしなかった。

 

 ふと目の前の光景に先日、観た映画「福田村事件」の画面が二重写しになった。100年前の関東大震災の直後、千葉県のある寒村で行商人を朝鮮人と見間違えた虐殺事件が起きた。流言飛語(デマ)に踊らされた“群集心理”の危うさを描いた作品である。この気の遠くなるような時空間の根っ子で何かが通底しているように思った。ひと言でいえば、”人権感覚”のマヒとむき出しの差別感情や排除の思考、そして歴史の隠ぺい…単なる「錯誤」なのだろうか。その辺の考察については後日、ブログに掲載したい。

 

 

 

《追記ー2》~”女変幻”(旧統一教会→エッフェル塔→花巻まつり→?)

 

 

 広瀬議員は初当選(2022年7月)した選挙の際、「世界平和統一家族連合」(旧統一教会)との関係を取り沙汰されたのに対し、イベントへの出席や祝辞、祝電などのかかわりを認めたうえで、「参院選前の今年5、6月ごろ、支援者に誘われて盛岡市の教会を訪れ、責任者にあいさつをした」(2022年10月8日付「朝日新聞」)と答えている。

 

 一方、「花巻家庭教会」がある地元花巻選挙区からに立候補し、3回目の当選を果たした川村伸浩議員(自民党)も当時、「教会へあいさつに回ることがあった。何度かあいさつに行くうちに宗教団体であることは理解したが、問題がある団体という認識はなかった」(同上)と語っている。広瀬議員は今回の県議選に際しても川村議員の総決起大会(7月21日付当ブログ参照)に駆けつけるなどその“蜜月”ぶりはFB上でも話題になっていた。そして、上田東一市長や市議会与党の「明和会」の面々と嬉々として、“お祭りショット”に収まる二人の姿を見て、その深いつながりに改めて納得をした。

 

 なお、「明和会」所属議員9人(うち1人は議長職)の中の3人が議会事務局が行ったアンケート調査に対し、「(旧統一教会側から)機関紙などが一方的に送られてくるが、関わりは一切ない」としている。その一方で、私の手元には「協会に出入りしているのを見た」という目撃情報が寄せられるなど、”虚偽”回答が疑われるケースもあり、全貌は闇に隠されたままである。

 

 

 

《追記ー3》~市民力、全開!!

 

 花巻市内でフェアトレード店を経営する新田史実子さんが主宰する「暮らしと政治の勉強会」が今回の岩手知事選で全開、”市民力”の大切さを教えた。次は夢の図書館を目指した全国規模の署名運動へとフットワークの軽い市民運動を展開中。以下のアドレスからどうぞ。

 

 ・おいものブログ:SSブログ (ss-blog.jp)

 

 

 

 

 

 

 

 

新花巻図書館をめぐる“利権の構図”(下)…イ-ハト-ブに巣食う「ステ-クホルダ-」~利権に群がる人脈図!!??

  • 新花巻図書館をめぐる“利権の構図”(下)…イ-ハト-ブに巣食う「ステ-クホルダ-」~利権に群がる人脈図!!??

 

 「もし可能なのであればスポ—ツ用品店敷地を市有地にして、図書館を建てるというのが駅前案の中でも最も望ましい方向だということを私は主張させていただいている。…あの場所に図書館を建てて橋上化と一緒に西口の利用も皆さん交渉してもらったプランを反映させてつくりあげて行くというのが 一番良いんじゃないかなと」(会議録から原文のまま)―。この発言は昨年9月20日に開催された「新花巻図書館整備基本計画試案検討会議」(座長・市川清志生涯学習部長)で、有識者委員のひとりである公益財団法人花巻国際交流協会の佐々木史昭理事長が「駅前立地」を主張した際の内容である。佐々木理事長は同じ会議で次のような発言も口にしている。

 

 「商工会議所の一員としてコメントさせていただくと、地方経済というのは、やっぱりどうしても安心を求めたり名前を求めたりして大手、大手というように行きがちなんですけれども…岩手県内でも立派な仕事をしている建設会社はありますし、花巻市内の会社でもあるので、ぜひそういう皆さんにおかれましても、できれば地域のしっかりした会社ができるのであれば地域の会社にやってもらって、そこに皆さんもコンタクトしていただいてつくり上げていくというマインドを大事にしていただきたいというように思います」(会議録から原文のまま)―

 

 「ステ-クホルダ-」という業界用語ある。“利害関係人”という意味で、端的に言えば「委託―受託」関係がそれにあたる。ところで、花巻国際交流協会の佐々木理事長は一方で花巻商工会議所副会頭の肩書を持ち、同時に鉄道事業などに実績がある「(株)中央コ-ポレ—ション」(花巻市内)の代表取締役社長の地位にもある。上記の二つの発言はこうした立場の違いが言わせしめた内容で、正直と言えば全くその通りである。

 

 主として、JR側の鉄道事業などを請け負う独立行政法人「JRTT鉄道・運輸機構」(前身は日本鉄道建設公団)は鉄道周辺の工事の安全確保のため、「線路近接工事安全対策」を定め、工事に参入できる有資格名簿を公表している。花巻市内で工事資格を有する企業は全部で11社でこのほか、コンサルタントなどの役務資格のある企業が2社となっている。この中の1社が「(株)中央コ-ポレ-ション」で、図書館の駅前立地が実現した場合、優先的に工事を請け負うことができる立場にある1社である。さらに、同社は駅自由通路や橋梁工事にも実績があり、上田東一市長が強力に進める「JR花巻駅橋上化(東西自由通路)と図書館の駅前立地」がワンセットで実現すれば、この二つの巨大プロジェクを同時に受注できるという仕組みにもなっている。

 

 また、有資格企業13社の中には前・元副市長が役職者として名を連ねる2社が含まれているほか、ほとんどが市側と深い請負関係にある。ちなみに今回、文書開示請求をして入手した「JR交渉」の回答書(8月17日付当ブログ)にも立地場所に予定されているスポ-ツ用品店の撤去に当たっては「線路近接に係る施工方法について、当社と確認を行う」―との条件が課せられている。

 

 市当局がなぜ、これほどまでに「駅前立地」にこだわるのか―。その謎を解くカギのひとつが本件の“利害関係人”であるJR東日本と花巻市、事業参入の資格を有する企業の三者の「利害」関係である。分かりやすく言えば、「自社所有地をなるべく高値で売却したい」(JR側)―「駅橋上化と図書館のワンセット効果で駅前活性化(賑わい創出)を実現したい」(市側)―「(駅橋上化と図書館を合わせた)総事業費がざっと80億円にのぼる巨大プロジェクトを受注したい」(有資格企業)…この三者の利害が一致する場所は「JR花巻駅前」しかないというわけである。

 

 新図書館問題が迷走を繰り返すきっかけになったのは3年以上前の「住宅付き図書館」の駅前立地(2020年1月29日)という“青天の霹靂”のような突然の計画発表だった。立地場所に50年間の定期借地権を設定し、上階に住宅を併設するという手法に議会や市民から反対の声が上がり、結局は住宅と定期借地権の部分は撤回された。その直後から突然、高校生たちが駅前立地を望んでいるという、確たる根拠もないままの“若者待望論”が市側から盛んに喧(けん)伝されるようになった。いま考えれば、若者たちも結局は利権行政の“人質”(政治利用)だったということが言える。

 

 「駅前を希望する意見が多かった」―。上田市長が最終的に図書館の駅前立地を決断したのは冒頭の検討会議の意向を受けてのことだった。その方向性を主導したのが「国際交流協会理事長兼商工会議所副会頭」の肩書を持つ人物だったことがHP上などで公表されている公の事実から明らかになった。仮にもうひとつの候補地である病院跡地に立地する場合、制限なしの「一般競争入札」に付さなければならない。その分、入札機会もオ-プンになり、透明性のある競争原理が期待できる。これに対し「駅前立地」の場合、最初から建設業者や設計業者が限定されるといういびつな構造になっていることが今回、浮き彫りになった。

 

 背後にもっと複雑は事情があると思いきや、実際は「図書館はどうあるべきか」という本質論をそっちのけにした、利害関係者による“利権争い”だったということが白日の下にさらされた格好である。文化の殿堂ともいわれる「図書館」を食い物にした“利権人脈”はその経緯を市民(納税者)に明らかにすべきであろう。

 

 

 

 

(写真は「風の鳴る林」など宮沢賢治をイメージしたメルヘンチックな駅前は“利権争い”の舞台になっていた=花巻市大通りで)

 

 

 

《追記ー1》~「もう、タオルを投げたくなった」!!??

 

 花巻市議会9月定例会の一般質問が4日から始まり、伊藤盛幸議員(はなまき市民クラブ)が懸案の新花巻図書館問題について、「JR交渉のその後の動きはどうなっているか。駅前立地に伴うまちづくりの展望をどう描いているか」などとただした。これに対し、市川清志生涯学習部長が「花巻の玄関口として、集客効果が期待でき…」と例の“耳だこ”答弁を繰り返すと、伊藤議員は「その内容は以前にも聞いている。質問に答えていない」と食い下がった。でも、“百万遍念仏”を聞かされているようで、どっちもどっちもだなとため息がもれた。私を含めた市民が一番知りたいのは、市側がなぜこれほどまでに駅前立地にこだわり続けるのか。誰もが納得できるその合理的な理由は何なのかーということなんですよ。

 

 

《追記―2》~ホテルも活性化にひと役!!??

 

 「銀河ル-ム」や「山猫ル-ム」それに賢治ゆかりの品々を集めた「宮澤賢治探検本部」…。JR花巻駅前の目と鼻の先に位置するホテル「グランシェ-ル花巻」が今年3月、賢治を模したメルヘンチックな雰囲気に姿を変えてリニュ-アルオ-プンした。同ホテルは30年前、国土交通省(当時建設省)の駅前開発事業「レインボ-プロジェクト」を導入し、花巻商工会議所会頭などを歴任した故宮澤啓祐氏が起業した。

 

 その後、老朽化やコロナ禍の中で営業不振に陥っていたが、「駅前活性化に寄与したい」というホテル業界大手の「(株)リオ・ホ-ルディングス」の意向を受け、花巻市当局が全面支援する形で国の「高付加価値化事業」補助金などを運用して再建にこぎつけた。「駅前活性化」という観点では図書館の駅前立地の位置づけと軌を一にしている。「新図書館×駅橋上化×新装ホテル」―この“三位一体”のまちづくり構想を背後で支えているのが実は「利権の構図」であることがここからも見て取れる。