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「これって、重大な人権の侵害、あるいは蹂躙ではないのか」…噛み合わない図書館論議と「ドキュメント72時間」のはざまにて~そして、「パワハラ」東西対決の行方はいかに!!??

  • 「これって、重大な人権の侵害、あるいは蹂躙ではないのか」…噛み合わない図書館論議と「ドキュメント72時間」のはざまにて~そして、「パワハラ」東西対決の行方はいかに!!??

 

 「たまには変わった料理を提供したい」と拡大鏡をのぞきながら、レシピ本と首っ引きの老人施設の料理人、「少し株で儲かったら、家を新築しようかと思って」と会社四季報のデータをメモする男性、「私、(コミュニケーションが少し苦手な)アスペルガーなんです」という女子高校生の手には文学書や詩集が。そうかと思えば、朝一で新聞閲覧室に駆け込むお年寄りたち…。最近、NHKの「ドキュメント72時間」で放映された「金沢/大きな図書館で」(8月30日放映)のひとこまひとこまが脳裏を行ったり来たりしている。

 

 まるで、ローマの円形劇場を思わせる「石川県立図書館」は2年前にリニューアルオープンした。蔵書数110万冊、閲覧席500席…。「知は無限にめくり、めぐっていく。そして知はまた、あなたのもとへ」というコンセプトを掲げたこの図書館には老若男女がひっきりなしに行き交う。1日の来館者数は平均で2140人(2022年度)にのぼる。プラネタリウムみたいな読書空間、カフェで談笑を楽しむ親子連れ、「今日は観たい映画があるので」と映画ブースに急ぐ人も…。「図書館とはある意味で人生の隠家」―こんな図書館像を彷彿させる巨大空間である。ところで、当地「イーハトーブ」にもこんな夢のよう図書館がとっくにできているはずだったのだが…

 

 「知の泉/豊かな時(とき)/出会いの広場」―。有志の市民でつくる「花巻図書館整備市民懇話会」が新図書館建設に向けた提言をまとめたのは、平成24(2012)年10月。その約2年後の平成26年、上田(東一)市政が誕生した。それからさらに10年以上の歳月が流れた。そして今、提言が求めた新図書館建設は立地場所さえ決まらないという迷走状態をさ迷っている。

 

 「意見集約さえ自力で出来ないというのはまさに、行政の自殺行為。しかも、肝心の予算の執行がとん挫するに至ってはその責任も問われなければならない」―。開会中の花巻市議会9月定例会一般質問の質疑の中で厳しいやり取りが続いた。発端はこうである。「駅前か病院跡地か」…市側は今年6月議会に新図書館の立地場所に関する市民の意見集約に関し、外部の業者に委託する「公募プロポーザル」方式を提案。必要な経費約1千万円の予算を計上した。賛否がぶつかり合う中で、この予算は僅差で可決された。

 

 ところがである。公募に応じたのはわずか1社で、その業者も各種評価点が低く、不採択になった。さ~て、どうする。市側がひねり出したのがいったん、可決された当該予算の“流用”である。この際の通常の行政手続きとしてはまず、公募プロポーザルに伴う予算執行ができなかった責任を謝罪し、改めて予算措置をするというのが筋である。今回はまるで逆。議会側の議決権を無視した上、二元代表制などはどこ吹く風の“強行”突破の雲行きである。こんな時にひょいと、顔を見せるのが上田“強権”支配の素顔である。この人はこう言ってのけた。

 

 「現在、連携関係にある慶応大学FSC研究所に改めて意見集約をするためのファシリテーターの仲介をお願いしている。公募プロ―ポーザルは失敗したが、結果的にはこっちの選択肢の方が良かったかもしれない。新たな予算措置の必要はない。6月議会で議決をいただいた範囲内の正当な行為だ」―。10年間もの遅れを棚に上げ、こんな暴言も飛び出した。「我々も早く建てたいと思っているんですよ。(原点に戻れという議員の指摘は)ちゃぶ台返しを求めているようなもんだ。もっと遅れていいのか」…”狂気の沙汰”ーまるで、ヤクザの啖呵(たんか)。質疑応答の合間に時の人でもある兵庫県知事が話題にのぼった。それにしても似た者同士の口吻(こうふん)ではないか。最近、上田市政の惨(むご)さにしょっちゅう、キレている。そしてまた、キレそうになった。

 

 「ごめんなさい。ちょっと今だけ、今だけ来させてください」―。「ドキュメント72時間」の最終場面の映像がよみがえった。ひとりの男性が図書館の一角で、じっと外を眺めている。今年元旦の能登半島地震で被災し、いまは珠洲市から金沢市内の仮設住宅で暮らしている。七輪づくりの職人で、自宅も作業場も全壊、再建のメドはついていない。マイクを向けられた冒頭の言葉を引き合いに出しながら、哲学者の鷲田清一さんは以下のように書いている(9月6日付朝日新聞「折々のことば」)

 

 「能登半島地震で家が崩れ、家族とともに金沢市に避難した男性は、先行きが見えない中、石川県立図書館をよく訪れ、窓辺で遠くを眺める。みな『ピシッ』としていて『気が引き締まる』感じになると言う。いつか途(みち)が見つかるまでこの空気の中にいたいと。人それぞれの人生の一ステージを支える図書館。NHKテレビの番組「ドキュメント72時間」(8月30日放送)から」

 

 「人それぞれの人生のステージ」という言葉と出会った瞬間、怒りは沸点を超えた。表題のタイトルにその怒りの気持ちが込められている。新図書館の建設が長引けば長引くほど、「人それぞれの人生のステージ」は奪われていく。これこそがまさに「人権」の侵害あるいは蹂躙(じゅうりん)の最たるものではないのか。さらには、品性のひとかけらもない議員個人に対する誹謗中傷も含めて、その責任のすべては行政トップの上田市長にあることをここに記しておきたい。

 

 4年前、市民や議会の頭越しに突然、「住宅付き図書館」の駅前立地という前代未聞の構想が公にされた。のちに、白紙撤回されることになるこの”青天の霹靂”(せいてんのへきれき)こそが図書館建設を遅らせることになった最大の原因であることを、あなた、まさかお忘れになっているんじゃありませんよね。まったくどっちが、ちゃぶ台返しなんだか。当時の議員たちはこの構想に一斉にブーイングを浴びせたが、剣ヶ峰の今議会ではまなじりを決する緊迫した場面はほとんどなし。公募プロポーザルの関連予算にもろ手を挙げて賛成した議員たちは今回の市側の不手際にもっと、怒らんかねぇ。二元代表制などはもう夢のまた夢…当局と議会とが一心同体と化した「一元代表制」の出現である。バカを見るのは市民だけ…

 

 

 

 

 

(写真はプラネタリウムさながらの石川県立図書館。その宇宙観に圧倒される=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記ー1》~「ちゃぶ台返し」発言から、今度は「色眼鏡」発言へ

 

 またもや、「花の東大卒」の“迷言”が…。この人たちには何が共通しているのか。病理学的な観点から、興味がわいてきた。記事中の木幡市長は兵庫県知事と同じ総務官僚の出身

 

 

 10日に行われた福島市の9月議会の一般質問で、再三の計画変更を余儀なくされているJR福島駅東口の再開発事業を巡る市議からの質問に対し、木幡浩市長が「色眼鏡で見ているのでは」と答弁し、いら立ちを見せる場面があった。質問に立ったのは市議会第2会派・真結の会の鈴木正実議員。再開発事業について市民の理解を深める目的で市が開いているタウンミーティングに対し、市民から「形だけのパフォーマンスで、意見がどこに生かされているのか」「意見を聞いたというアリバイづくりでは」などの声が上がっていると指摘した。

 

 これに対し、木幡市長は「(議員は)色眼鏡で見ている。そういう視点ばかりの発言がされているが、丁寧に市民とコミュニケーションを取っている」と強調。議場には一時どよめきが広がった。鈴木議員は「議論というのは賛成意見も反対意見も必要。再開発施設は、一人でも多くの市民に歓迎してもらうため議論を重ねることが大事」として「色眼鏡」も必要だと締めくくった(12日付「福島民友」電子版)

 

 

 

《追記―2》~またも、東大首長…もう、止まらない!!??

 

 今回の登場人物は宮崎県延岡市の読谷山洋司市長。この人も総務官僚の出身。なお、東大出身の首長は親睦団体「赤門市長会」を結成しており、当市の上田市長も名前を連ねている。

 

 

(その1)延岡市の定期人事異動で、読谷山洋司市長と当時議長だった松田満男議員(自民党きずなの会)が異なる人物に議会事務局長の内示を出すなど混乱した人事問題を巡り、11日の市議会一般質問で両者が言い分をぶつけ合った。同事務局人事が“決着”して以降、公の場で同事案について意見を交わしたのは初。議長名で出された人事異動に関する公文書に捏造(ねつぞう)があった恐れがあると主張する市長発言などを巡り、1時間近く応酬が続いたが、議論はかみ合わなかった(12日付「宮崎日日新聞」電子版)

 

(その2)宮崎県延岡市の読谷山洋司市長(60)が勤務中の男性職員に、性的な言葉を使って文章の表現変更を指示していたことがわかった。男性職員は「不快に感じた」としており、市職員労働組合が3月に行った職場の実態調査でも「市長からハラスメントを受けた」との趣旨の回答を行ったという。読谷山市長は読売新聞の取材に発言を認めた上で「不快に思われるのであれば適切ではなく、申し訳ない」としている。

 

 指示を受けたという管理職の男性職員によると、昨年の庁内協議で市長から、所属部署が作成した事業計画書に記載された文章の表現を改めるよう求められた。職員が意見を述べると、市長は男性器を指す俗語を使って「この文章には×××がない。覚悟がないんだよ」と変更を指示。別の資料に関しても後日、市長から同じ俗語を使った言葉で修正を指示されたという(6月7日付「読売新聞」電子版、要旨)

 

(その3)宮崎県延岡市の読谷山洋司市長は7日、上下水道局職員による組織ぐるみでの公文書偽造事案に絡んで昨夏に開かれた庁内の部課長会で、演台をたたき、同局について「ボウフラが集まったような腐った組織」と発言したことを明らかにした。市議会一般質問で猪之鼻哲議員(自民党きずなの会)に事実の有無を問われて認める一方、パワーハラスメントは否定した。取材に対し、読谷山市長はボウフラ発言について「正論をはく職員がすめない職場になっているとの例え話だった」と話した(3月8日付「読売新聞」電子版、要旨)

 

 

 

《追記―3》~暴走する首長(9月13日付朝日新聞「耕論」より)

 

 

 「あらゆる組織にとって重要なのは、共感性の欠如や強い支配欲、嗜虐(しぎゃく)性など邪悪な性格特性を持つ人に決してパワーを与えないことです。『地位が人を作る』からパワハラをするのではなく、そういう人がパワーを持つからいけないのです。…パワハラは人の尊厳を侵害する、非常にダメージの大きい行為です。危険な人が上に立った時のための事前の備えが必要です」(津野香奈実・神奈川県立保健福祉大学大学院教授=パワハラ研究者、要旨)

 

 

 

《追記―4》~悲鳴を上げる職員たち!!??

 

 

 兵庫県議会で斎藤元彦知事への不信任決議案が全会一致で可決された19日、県民からの意見を受ける広報広聴課では、職員が電話の対応に追われていた。同課によると、問題が浮上して以降、開庁時間中は常に電話対応に追われているような状態で、通常の6人体制では対応できず、ほかの課などから2、3人を補充。多いときには1日200件以上の電話を受けることもあったという。

 

 大半は県の内部調査の正当性や、公益通報として扱わなかった理由を問う声のほか、知事のパワハラ疑惑や贈答品に関する批判だが、「公約を達成している」「県の旧体制を改革した」など、知事を擁護する声もあるという。ある職員は「知事への苦情でも、直接電話を聞くのは職員。1時間半以上の電話や、『職員も知事の犬』『職員も前県民局長を見殺しにした』などと言われることもあり、精神的に参ってしまいそうになる」と話した(20日付「読売新聞」電子版、要旨)

 

 

 

《追記―5》~当世戯作百選から…これも誰かさんとそっくりだなぁ!!??

 

 

 「私は知事だぞ!と言ったかどうかですが、言いました。私は知事ですから。知事じゃないのに知事だぞと言ったとすれば虚偽になりますが、私は知事なんですから、知事だぞと申し上げただけ。まあ指導の範疇とはいえ、先方にとって不快だったとすれば、お詫びを申し上げなければならない。自分で言うのもなんですが、一度手に入れた権限は絶対に手放しません。そのうえ、粘着質。弱いやつらは徹底的に焼きを入れる。なんたら構文のヒト(石丸伸二・前広島県安芸吉田市長)と同じ?あっちは京大か知らんがこっちは東大。しかも、2番じゃなくて1番で選ばれたんだよ、民意で」。これって、“東大話法”っていうんだっけ(9月20日発行週刊金曜日「松崎菊也/あの人の独り言」、要旨)

 

 

《追記―6》~「勧善懲悪省」(徳の奨励と悪徳の禁止の省)!!!???

 

 

 アフガニスタンを支配するタリバン(イスラム主義組織)の「勧善懲悪省」が女性の“歌う権利”を禁止したというニューを見ながら、ふと英国人作家、ジョージ・オーウェルの代表作『1984』(1949年刊)を思い出した。オーウェルはその中で監視社会の近未来の恐怖を描き、「ビッグ・ブラザー」が率いる一党独裁の政体をアイロニカルに「真理省」や「愛情省」などと表現した。その予言が的中したわけだが、待てよ、この風景は日本全体そして海の向こう、いや足元の「イーハトーブ国」にも共通するたたずまいではないのか。思わず、背筋がざわッとしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その5=完)…「東日流外三郡誌」の再現か、はたまた第2の「ゴッドハンド」事件か!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その5=完)…「東日流外三郡誌」の再現か、はたまた第2の「ゴッドハンド」事件か!!??

 

 「立証」「発見」「明らかに」…。旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説の提唱者の各種論考にはこんな断定的な表現が並んでいる。ところが、仔細に読み進めても肝心の宮沢賢治と菊池捍との接点をうかがわせる記述は一切、見当たらない。それどころか「菊池邸は賢治の生家の近く。散歩好きの賢治はこの家の前をしょっちゅう、通ったにちがいない」「いや実際に邸内に入り、内部を見せてもらったこともあったのでは…」―。こんな“憶測”だらけの迷宮をさまよい歩いているうちに、突然、戦後日本を騒然とさせた二つの「捏造」(ねつぞう)事件を思い出した。「モデル説」がこれらの事件と二重写しに重なったのである。余りの唐突さに自分でも驚いてしまった。

 

 「天井裏から落ちてきた」―。1970年代初頭、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)』なる古文書の存在が世間の話題をさらった。「発見者」は青森県御所川原市在住の和田喜八郎(平成11年没)。ヤマト王権から弾圧されながらも北東北地方にはかつて、独自の文明が栄えていたという、ある種のユートピア「幻想」に彩(いろど)られていた。和田の講演会に足を運んだことがあるという知人はこう話した。「ものすごい熱気。まるで、カルトだった」。この“和田家文書”は『市浦村史/資料編』(北津軽郡市浦村)に収録されるなど和田が亡くなるまで、一部では熱烈な支持を受け続けた。死後、“真贋”(しんがん)論争に発展した結果、専門家の間で“偽書”とみなされ、いまに至っている。

 

 私自身、『黒ぶだう』モデル説を自然に受け入れてきた経緯がある。その背景にあるのは多分、のちに偽書と断定されたものの『東日流外三郡誌』が振りまいたあの“幻想感”と通底するものだったのかもしれない。自由自在に銀河宇宙を飛翔(ひしょう)する賢治作品が好きな私にとって、奇想天外な展開を見せるモデル説は一時期、イーハトーブ「幻想」さえ想起させるに十分だった。ただ一方で、その舞台を旧菊池捍邸に限定しようとするその執拗さにはずっと、疑問符が付きまとっていた。こんな折しも、もうひとつの捏造事件が頭によみがえった、

 

 「旧石器」捏造事件―。平成12(2000)年11月、世間をあっと驚かせる事件が起きた。前期・中期の旧石器時代の遺物(石器)や遺跡とされていたものが実は発掘調査に携わっていたアマチュアの考古学研究家が事前に埋設し、あたかも新「発見」をしたかのように見せかけていた自作自演の事件である。毎日新聞が現場の動画撮影に成功し、発覚した。この間実に約25年間にわたって捏造を繰り返し、学会筋からも“神の手”と持ち上げられ、お墨付きも得ていた。検定教科書の書き換え騒動にまで発展する一方で、この「考古学的大発見」は一時期、まちおこしや観光振興のスローガンにも掲げられ、まるでお祭り騒ぎに沸いたことを覚えている。

 

 イーハトーブ「幻想」と2大「捏造」事件―。上田東一市長が『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈する一方で、これをふるさと納税の寄付金獲得の“広告塔”に使っていたことを知るに及んで、私の考えは完全に逆転してしまった(8月17日付当ブログ「これって、官製“詐欺”ではないか」参照)。ふるさと納税の寄付金総額は昨年度90億円の大台を超え、全国で13位にランクされた。トップテンは牛タンなど7種類の食肉加工品が独占、この分だけで寄付金総額のざっと85%を占めている。賢治が理想郷と呼んだ「イーハトーブ花巻」はまるで、“食肉市場”に化してしまったかのようである。賢治は父政次郎宛てにこんな手紙も送っている(要旨=大正7年2月23日付、宮沢賢治全集9『書簡』ちくま文庫)

 

 「その戦争に行きて、人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も、皆等しく法性に御座候(先日も屠殺場に参りて見申し候)牛が頭を割られ、咽喉を切られて苦しみ候へども、この牛は元来少しも悩みなく喜びなく、又輝き又消え、全く不可思議なる様の事感じ申し候」―。この手紙を読み返すうちに、上田流“錬金術”がまるであ”神の手”のようにヒラヒラと目の前に舞うような錯覚を覚えた。「許容限度を超えたな」とその時、思った。

 

 「捏造」事件はいずれ、命脈が絶たれることを歴史は証明している。約20年間にわたって、広く受容されてきたこのモデル説もそろそろ。余命が尽きる時なのかもしれない。『黒ぶだう』を下敷きにした動物と人間とのほほえましい交歓劇…こんな“空想”物語だったら、末永くに読み継がれたにちがいない。しかし、場面は急転した。(そんな言葉はないと思うが)賢治の上前をはねるような、これはある種の“空想権”の侵害ではないのか。こんな突飛な思いが頭をかすめた。

 

 最近、こんな話を耳にした。「モデル説がふるさと納税に少しでも貢献しているとすれば、その分、市の財政も潤うことになる。私腹を肥やしているわけではないのだし…」―。いや、事の本質をはき違えることの罪の大きさをこの2大「捏造」事件は教訓として、後世に語り伝えていることを忘れてはならない。このミステリー劇場はここでいったん、幕を下ろす。しかし、わが愛する賢治の”人権”擁護、そしてなによりも菊池捍その人の”名誉”回復のため、これからもペンを握り続けたいと思っている。9月21日、賢治は没後91年を迎える。

 

 

 

 

 

(写真は生前の菊池捍。自邸を舞台とした「黒ぶだう牛」騒動を知ったら、どんな気持ちになるだろうか=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

《追記ー1》~「牛タン倶楽部」と「牛タン王国」という似た者同士!!??

 

 

 パワハラ疑惑などで断崖絶壁に立たされている兵庫県の斎藤元彦知事と副知事(辞職)を含む側近4人は県職員の間で「牛タン倶楽部」という隠語で呼ばれている。東日本大震災の際、兵庫県は宮城県三陸町に支援職員を派遣した。ちょうどその時、総務官僚として同県に出向していた斎藤知事と4人は急接近し、仙台名物の牛タンに因んでこんな言葉が生まれたという。一方、本場仙台のお株を奪う売り上げを誇る「牛タン王国」の当市のトップ、上田東一市長にも同じようなパワハラ疑惑がずっと、付きまとっている。似た者同士は骨の髄まで“そっくり”さん…

 

 

 

《追記―2》~滝沢市では“市長米”が返礼品に!!??

 

 

 6日付の河北新報(電子版)は岩手県滝沢市の武田哲市長の家族が栽培する米がふるさと納税の返礼品になっていると報じた。これについて、総務省は「法律上は問題ないが、聞いたことがないケースだ」とし、専門家は「税金で買い上げる返礼品なので、倫理的な問題はある」と指摘した。ところで、当ブログのミステリーシリーズで、上田市長が旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説について、公式の記者会見の場で疑義を呈した一方で、このモデル説を返礼品「花巻黒ぶだう牛」のキャッチコピ-に使っている問題点を詳細に分析してきた。これって、“市長米”案件より悪質な“虚偽”広告にならないのか。

 

 そういえば、上田市長も事あるごとに「社会規範上は問題はあるが、法律には抵触していない」―が常套句だった。市政運営の最上位に「社会規範(倫理)」を据えることこそが、政治家の矜持(きょうじ)というものではないか。

 

 

 

《追記―3》~それにしても、よく似ているなぁ!!??

 

 

 「就任から半年経ち、知事の言動に違和感を覚え始めた。怒りっぽくなり、『瞬間湯沸かし器』とささやかれるようになった。『全国初』を好み、『マスコミに取り上げられるネタ』を探すよう職員に求めるようになり、知事が目立つための施策を優先させる雰囲気が生まれた」(9月7日付「朝日新聞」)ー。斎藤元彦・兵庫県知事のパワハラ疑惑などをめぐる議会百条委員会の関連記事の中にこんなくだりがあった。我がイーハトーブのトップとそっくりな言い回しではないか。エリート首長(ともに東大卒)に共通する“トップ病”なのか…

 

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その4)…ウソの上塗りと賢治“利権”!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その4)…ウソの上塗りと賢治“利権”!!??

 

 「日本中で、いや世界のどこを探しても、二つの玄関を持ち、一方は開かずの(?)玄関だなどという洋館の民家などというものは、他にはありません」(『賢治寓話「黒ぶだう」の素敵な洋館はここです―黒ぶだうメルヘン館ガイドブック』(米地文夫・木村清且編、2016年7月刊)―。旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説が一部でささやかれ始めた約10年後、今度は一般向けの豪華なガイドブックが出回った。ウソをウソで塗り固めると、そのウソはウソではなくなるということなのか。モデル説を裏付けるための執拗な傍証固めではないか―手に取った瞬間、そう思った。

 

 世界で”唯一無二”の「菊池捍邸」の建築様式だけでなく、その傍証固めは実に微に入り、細を穿(うが)っている。たとえば、原文に登場する仔牛や赤狐と人間とのブドウの食べ方を比較したり、執筆時期を検証するために賢治が当時、使用した原稿用紙を点検したり…。さらには当時、教科書にのるなど一世を風靡した白樺派の作家、有島武郎の『一房の葡萄』(大正9年『赤い鳥』)を援用。賢治も芸術家集団「白樺派」に心酔していたという根拠だけで、『黒ぶだう』の主人公であるベチュラ公爵のモデルを有島に見立てたり、かと思えば姿かたちがそっくりだとして、菊池捍その人を公爵に仕立て上げたりと…。もう、「牽強付会」(けんきょうふかい)を地で行く勢いである。その背景には一体、何があったのか。

 

 さかのぼること20年以上前の平成15(2003)年夏、所有者の親族から菊池捍邸を手放したいという意向が示された。これを知った郷土史家や地元住民の間から「由緒ある建物。ぜひ市で買い取って」という保存運動(「菊池捍邸を守る会」)が自然発生的に起こった。当時、私もその運動にかかわり、署名運動に走り回ったことを昨日のことのように覚えている。結局、市側は財政難や他の文化財との兼ね合いなどから取得に難色を示し、「守る会」も4年足らずの運動に幕を下ろした。「まちおこしの起爆剤に」―。単なる保存運動から、賢治作品との関係性を強調した「モデル説」がまたたく間にもてはやされるようになった。

 

 冒頭に紹介したガイドブックに「賢治の『黒ぶだう』からおいしい味も生まれる」というタイトルで、次のような記述がある。「花巻を舞台に書かれたということがわかり、物語が地域の人々に知られるようになりました。そして新しい味も誕生しました。平成24年(2012年)12月、花巻に新しいブランド牛が生まれました。その名も『黒ぶだう牛』です。もちろん、種子まで噛んで食べた『黒ぶだう』の仔牛からとった名前と肥育法によるものです」

 

 この冊子の編集協力者には花巻商工会議所や宮沢家なども名前を連ねている。本家筋の生家を含めた町ぐるみの賢治”利権”…これに群がる人脈の構図が目に浮かんでくる。その極め付きがふるさと納税返礼品へのノミネートであろう。賢治に対するこれ以上の“冒涜” (ぼうとく)があろうか。ガイドブックはこんな文章で閉じられている。読んだ瞬間、体が凍りついてしまった。「自分の作品に因むブランド牛をつくり出したことを賢治が知ったら、きっと喜んでホッホーと飛び上がったことでしょう」―。大正7(1918)年5月19日付で、賢治は盛岡高等農林学校(現岩手大学)時代の友人、保阪嘉内にこんな手紙を送っている。

 

 「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。食はれるさかなが、もし私のうしろに居て見てゐたら、何と思ふでせうか。魚鳥が心尽くしの犠牲のお膳の前の不平に、これを命(いのち)とも思はず、まづいのどうのと云ふ人たちを、食はれるものが見てゐたら何と云ふでせいか。私は前にさかなだったことがあって、食はれたにちがひありません。又屠殺場の紅く染まった床の上を豚がひきずられて、全身あかく血がつきました。これらを食べる人とても何とて、幸福でありませうや」(要旨=宮沢賢治全集9『書簡』、ちくま文庫)

 

 

 

 

(写真は旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を広めるきっかけになったガイドブック)

 

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その3)…「わき(脇)玄関」というナゾ解き!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その3)…「わき(脇)玄関」というナゾ解き!!??

 

 「この公爵別荘の西洋館のモデルが花巻・菊池捍(まもる)邸であった。…特にわき玄関は、通常の西洋館の民家にはないものである。この地方の上級武士や豪商・豪農の家屋は、通常用いるわき(脇)玄関と高貴な身分の客を通す本玄関とが別であったので、菊池邸の場合には、昔からの伝統を、洋風建築であるにも拘(かか)わらず、取り入れている。その菊池邸をモデルとしたため、(宮沢賢治の)『黒ぶだう』の洋館にも『わき玄関』があるのである」―(「賢治童話『黒ぶだう』の西洋館モデルとしての花巻・菊池邸の発見(要約)=「花巻市文化財調査報告書第32集」、花巻市教育委員会編、2006年3月」

 

 長々とした引用になったが、原文中の「赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました」―という部分についての論考で、旧菊池捍邸が『黒ぶだう』のモデルとされるようになった初出の根拠である。ひと言でいうと「まず、菊池邸ありき」…この寓話は賢治が菊池邸を現認したのがきっかけで誕生したという論理立てである。論文の共同執筆者である賢治研究家の米地文夫氏(故人)と花巻市文化財調査委員の木村清且氏は膨大な資料を駆使しながら、モデル説を構築している。たとえば、両氏は北海道型西洋館に「わき玄関」がなかった例として、札幌の洋風邸宅(明治18年ごろの建立)を紹介している(出典は越野武著「北海道における初期洋風建築の研究」、北海道大学図書刊行会1993年)

 

 しかし、その一方で同じ著者は明治5年(6年説も)に竣工した「ガラス邸」と呼ばれる開拓使の官舎(勅奏邸)も例示し、こう記している。「最初は長官滞在中の宿舎などにあてられた最大規模のものである。表玄関、脇玄関を構え、客座敷をそなえた中級武家住宅に他ならない」(越野武著「札幌生活文化史(明治編)」、札幌市教育委員会文化資料室編、1985年)―。モデル説の提唱者とされる両氏がなぜ、こうした事例に言及しなかったのか。

 

 建築主の菊池捍(明治3年=1860年~昭和19年=1944年)は札幌農学校(現北海道大学)に学び、台湾やスマトラ勤務を除く人生の大半を農業技術者として、北海道で暮らした。この間、菊池自らも西洋風の洋館に居住しており、脇玄関つきの構造を熟知していたはずである。だから、余生を送るためのふるさとの家に脇玄関を取り付けたのはけだし、当然の成り行きだったのであろう。大正15(1926)年、待望の菊池捍邸が完成した。同じ年、もう一人の「主役」である賢治は花巻農学校の教職を辞し、農業技術の普及や芸術の啓発を目的とした「羅須地人協会」の設立に奔走(ほんそう)していた時期に当たる。

 

 その賢治は生前、北海道を3回旅行している。1回目は大正2(1913)年、旧制盛岡中学5年の時の修学旅行で、道南地方を中心とした1週間の旅程。2回目は大正12(1923)年7月31日から8月12日まで道内を縦断し、樺太(サハリン)まで足をのばしている。妹トシの追憶を兼ねた樺太行である。この翌年には6泊7日の日程で生徒たちの修学旅行を引率。菊池捍の義兄に当たる北海道帝国大学(当時)の初代総長、佐藤昌介を表敬訪問している。洋風にあこがれ、好奇心が旺盛な賢治がこの旅程の中で、あちこちに林立する洋風建築に目を奪われなかったはずはない。

 

 『黒ぶだう』の執筆時期はこれまで「大正12年」前後と言われてきた。北海道旅行で見聞した事物を賢治の持ち味である想像力を駆使して、一気に書き上げたのがこの掌編ではないのかーというのが私自身の見立てである。活動拠点となった羅須地人協会の建物は窓ガラスをふんだんに使った開放的な作りになっている。ひょっとして、賢治は旅の途次、札幌にあった脇玄関つきのガラス邸を実際に目にしていたのかもしれない。

 

 版画家の「たなかよしかず」さんの作品『黒葡萄』(原作は賢治の「黒ぶだう」、未知谷刊)の発行日はモデル説が一般に流布(るふ)される3年前。ページをめくってびっくりした。現存する旧菊池捍邸と見まごう洋館が目に飛び込んできた。ハイカラで牧歌的な風景こそが北の大地の象徴だったことをこの版画の数々は物語っている。逆に言えば、賢治は菊池邸を見聞する機会がなくても『黒ぶだう』を作品化できたのであり、現にそうであろうというのが私の確信めいた結論である。

 

 

 あらゆる状況証拠(傍証)を重ねながら、旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を構築しなければならなかった理由が別にあったのではないか…「ミステリー」はますます、深まるばかりである。

 

 

 

 

 

(写真は現存する旧菊池捍邸の「脇玄関」。通用門として、家人や親しい人たちが日常的に出入りした。本玄関は普段は使われず、”開かずの玄関”とも呼ばれた=花巻市御田屋町で。敷地外からズーム撮影)

 

 

 

 

《追記ー1》~チグハグな危機対応、男やもめのため息を聞いてくれ!!??
 

 

 30日午後、花巻市全域に土砂災害警戒警報や高齢者などに避難を呼びかける「警戒レベル3」が大迫町亀ヶ森、内川目地区に発令されたのに伴い、9月3日に宮野目体育センタ—で予定されていた胃がん検診が翌日に延期されるなど災害対応に大わらわと思いきや…。31日から9月1日にかけて宮沢賢治童話村で開催予定の賢治関連のイベント「イーハトーブフェスティバル2024」は予定通りの開催に向けて準備中とのHP告知(最終判断は当日正午)。北上川の増水を遠目に見ながら、足がヨボヨボな男やもめは「どうしたらええんじゃ」とため息をつくばかり。

 

 

 

《追記ー2》~高齢者避難指示が発令される中、「イーハトーブフェス」は強行。そんな中、雷注意報も!!??

 

 

 「対象地域では命に危険が及ぶ災害がいつ発生してもおかしくない非常に危険な状況となっています」―。31日から9月1日にかけて開催される「イーハトーブフェスティバル2024」は初日のこの日午後3時、予定通りにオープンした。ちょうど同じ時刻、高齢者などへの避難を指示する緊急メールが届いた。市内3地域が指定され、その中には「フェス」が始まった宮沢賢治童話村に隣接する「矢沢地区」も含まれていた。

 

 さらに、気象庁は今月28日から当市全域に雷注意報を発令し、とくに野外でのイベントなどへの注意を喚起してきた。今年春には宮崎市内で雷注意報を知らずにサッカ―の練習試合中、落雷で部員が救急搬送される事故があった。大雨警報(土砂災害)が発令される中での今回の雷注意報。大会関係者の危機意識の欠如がさらけ出された形だ。こんな災害最前線で「フェスにどうぞ」と呼びかけるこの倒錯した神経が理解できない。入場無料というパフォーマンスもその魂胆はミエミエ。

 

 そう言えば、この作法は「金集め」には手段を選ばないという上田流”錬金術”(8月17日付当ブログ参照)と見事なまでに通底している。これが「イーハトーブ花巻」のトップ(上田東一市長)の姿である。この人って、兵庫県の知事のあの人とそっくり。本当に往生際が悪いなぁ…

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その2)…Corresponds to the original(ミステリーを解明するためにはまず、原典に当たれ)!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その2)…Corresponds to the original(ミステリーを解明するためにはまず、原典に当たれ)!!??

 

 (旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈した)上田(東一)市長「発言」をずっと、引きずっている(8月17日当ブログ参照)。で、「そんな時は原典に」というわけで、十数年ぶりに宮沢賢治の掌編『黒ぶだう』を手に取ってみた。仔牛(こうし)がキツネに出会い、誘われて無人のベチュラ公爵の別荘に入り込む。二階に上り、テーブルの黒ブドウを食べていると、公爵らが帰宅。キツネは素早く逃げ出すが、仔牛は取り残されてしまう。

 

 広大な牧場の周りで(キタ)キツネがはね回っている。白樺林が続く道の向こうにはしゃれた洋館の二階建が…。北海道勤務が長かったせいか、読後に目に浮かんだのは北の大地に広がるこんな風景だった。ある意味、目に沁みついた記憶である。ところで、仔牛はとがめられるどころか、幸せのシンボルである“黄色いリボン”を巻いてもらう。ほのぼのとしたラストシーンである。

 

 さて、このミステリー劇場での仔牛の運命はいかに…。黒ぶだう牛を食べたことがある人でも案外、この寓話を読んだことのある人は少ないかもしれない。そこで、皆さんと一緒に考えを巡らしてみたいと思う。では、ご一緒に。

 

 

 仔牛が厭(あ)きて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤狐(あかぎつね)が風のやうに走って来ました。「おい、散歩に出ようぢゃないか。僕がこの柵(さく)を持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。」仔牛は云(は)はれた通りまづ前肢(まえあし)を折って生え出したばかりの角を大事にくぐしそれから後肢をちゞめて首尾よく柵を抜けました。二人は林の方へ行きました。
 

 狐が青ぞらを見ては何べんもタンと舌を鳴らしました。そして二人は樺(かば)林の中のベチュラ公爵の別荘の前を通りました。ところが別荘の中はしいんとして煙突からはいつものコルク抜きのやうな煙も出ず鉄の垣(かき)が行儀よくみちに影法師を落してゐるだけで中には誰(たれ)も居ないやうでした。そこで狐がタン、タンと二つ舌を鳴らしてしばらく立ちどまってから云ひました。
 

 「おい、ちょっとはひって見ようぢゃないか。大丈夫なやうだから。」犢(こうし)はこはさうに建物を見ながら云ひました。「あすこの窓に誰かゐるぢゃないの。」「どれ、何だい、びくびくするない。あれは公爵のセロだよ。だまってついておいで。」「こはいなあ、僕は。」「いゝったら、おまへはぐづだねえ。」
 

 赤狐はさっさと中へ入りました。仔牛も仕方なくついて行きました。ひひらぎの植込みの処(ところ)を通るとき狐の子は又青ぞらを見上げてタンと一つ舌を鳴らしました。仔牛はどきっとしました。赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました。仔牛もびくびくしながらその通りしました。
 

 「おい、お前の足はどうしてさうがたがた鳴るんだい。」赤狐は振り返って顔をしかめて仔牛をおどしました。仔牛ははっとして頸(くび)をちゞめながら、なあに僕は一向家の中へなんど入りたくないんだが、と思ひました。「この室(へや)へはひって見よう。おい。誰か居たら遁(に)げ出すんだよ。」赤狐は身構へしながら扉をあけました。
 

 「何だい。こゝは書物ばかりだい。面白くないや。」狐は扉をしめながら云ひました。支那(しな)の地理のことを書いた本なら見たいなあと仔牛は思ひましたがもう狐がさっさと廊下を行くもんですから仕方なく又ついて行きました。「どうしておまへの足はさうがたがた鳴るんだい。第一やかましいや。僕のやうにそっとあるけないのかい。」狐が又次の室(へや)をあけようとしてふり向いて云ひました。
 

 仔牛はどうもうまく行かないといふやうに頭をふりながらまたどこか、なあに僕は人の家の中なんぞ入りたくないんだ、と思ひました。「何だい、この室はきものばかりだい。見っともないや。」赤狐(あかぎつね)は扉(と)をしめて云ひました。僕はあのいつか公爵の子供が着て居た赤い上着なら見たいなあと仔牛は思ひましたけれどももう狐がぐんぐん向ふへ行くもんですから仕方なくついて行きました。
 

 狐はだまって今度は真鍮(しんちゅう)のてすりのついた立派なはしごをのぼりはじめました。どうして狐さんはあゝうまくのぼるんだらうと仔牛は思ひました。「やかましいねえ、お前の足ったら、何て無器用なんだらう。」狐はこはい眼をして指で仔牛をおどしました。
 

 はしご段をのぼりましたら一つの室があけはなしてありました。日が一ぱいに射(さ)して絨毯(じゅうたん)の花のもやうが燃えるやうに見えました。てかてかした円卓(まるテーブル)の上にまっ白な皿(さら)があってその上に立派な二房の黒ぶだうが置いてありました。冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。「さあ、喰べよう。」狐はそれを取ってちょっと嗅(か)いで検査するやうにしながら云ひました。
 

 「おい、君もやり給(たま)へ。蜂蜜(はちみつ)の匂(にほひ)もするから。」狐は一つぶべろりとなめてつゆばかり吸って皮と肉とさねは一しょに絨鍛の上にはきだしました。「そばの花の匂もするよ。お食べ。」狐は二つぶ目のきょろきょろした青い肉を吐き出して云ひました。「いゝだらうか。」僕はたべる筈(はず)がないんだがと仔牛は思ひながら一つぶ口でとりました。
 

 「いゝともさ。」狐はプッと五つぶめの肉を吐き出しながら云ひました。仔牛はコツコツコツコツと葡萄(ぶだう)のたねをかみ砕いてゐました。「うまいだらう。」狐はもう半ぶんばかり食ってゐました。「うん、大へん、おいしいよ。」仔牛がコツコツ鳴らしながら答へました。そのとき下の方で「ではあれはやっぱりあのまんまにして置きませう。」といふ声とステッキのカチッと鳴る音がして誰(たれ)か二三人はしご段をのぼって来るやうでした。
 

 狐はちょっと眼を円くしてつっ立って音を聞いてゐましたがいきなり残りの葡萄の房を一ぺんにべろりとなめてそれから一つくるっとまはってバルコンへ飛び出しひらっと外へ下りてしまひました。仔牛はあわてて室の出口の方へ来ました。「おや、牛の子が来てるよ。迷って来たんだね。」せいの高い鼻眼鏡(はなめがね)の公爵が段をあがって来て云ひました。
 

 「おや、誰か葡萄なぞ食って床へ種子(たね)をちらしたぞ。」泊りに来て居た友だちのヘルバ伯爵が上着のかくしに手をつっこんで云ひました。「この牛の仔にリボン結んでやるわ。」伯爵の二番目の女の子がかくしから黄いろのリボンを出しながら云ひました。

 

(『宮澤賢治全集6』の「黒ぶだう」から=ちくま文庫)

 

 

 

 

 

(写真は共同通信の新聞連載「黒ぶだう」のイラスト=インターネット上に公開の「いっちゃんのイラスト」から)

 

 

 

《追記》~「想像の王国」(第23回=2013年=宮沢賢治賞受賞の富田勲さんの言葉)

 

 「作曲家の冨田勲さんは毎冬、ハワイのマウイ島に残る日本人移民の墓を訪れた。苛酷(かこく)な農場労働を強いられ、故郷への思慕の中で亡くなっていったあまたの人々の痛みを冨田さんは自ら己の心に刻もうとした。煤(すす)けた墓標に手を合わせていると、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』や『よだかの星』がきこえたという。戦時中、自分に想像の王国のありかを教えてくれたのが賢治だった」(8月25日付朝日新聞コラム「日曜に想う」から)