えー、皆さん(これじゃ人生幸朗ですよ!)浪曲を聴いたことはありますか?これがなかなかいいんですよ。
今のところTVで常時聞けるのは、NHKの子供番組でうなりやベベンという名前でやっている国本武春という人のみでしょう。
戦後昭和40年ごろまでは、間違いなく娯楽の一翼を担っていた芸です。私が中学生だった昭和50年代でもまだ浪曲大会のポスターが床屋に貼ってありました。ノルマがあるようなことをおばちゃんから聞きました。
今ではこういうことは少なくなりましたが、床屋と浪曲、蕎麦屋と相撲というふうに、どういうわけか組合がかぶって連携していた時代がありました。今でも蕎麦屋に相撲番付が張ってあることがあります。
またCMの「クリスタルでんなぁー。」(いやぁ、田中康夫氏が小説書いてた頃のねたですね。)といった故廣澤瓢右エ門師が床屋の小僧からプロへの転向でした。当時かなりの大御所でも鋏はもう駄目だが剃刀はまだ扱えるよ、などということもあったぐらいで、根深いものがあります。
アメリカでも男性白人コーラスカルテットはバーバーコーラスといい、これまた床屋の裏稼業なのです。ペリー・コモもイタリア系で床屋出身というところが、洋の東西を問わず、不思議に似通ってしまうところです。
但し蕎麦屋から相撲取りになった人がいるかどうかは定かでありません。
プロレスとパスタ屋は関係ないでしょう。
私が最初に注目したのは、先代廣澤虎造です。森の石松の「寿司くいねぇ。」「神田の生まれよ。」のあれです。
浪曲というのは大きな会場で沸かせる声のいい方と、啖呵(たんか)=会話の内容で聞かせる寄席芸のほうと大きく分かれるわけですが、虎造は声量に乏しいので啖呵に頼った。でも話がべらぼうに面白い。そしてマイクが発達します。
それまでの浪花節は一声二節、三啖呵といわれていました。一枚看板がずらりと並ぶオールスターの浪曲大会のメインステージはその頃の両国国技館でした。
大きなPAがない時代、生声で全ての会場に声は響きません。そこでどうしたでしょうか?
答えは本人が唸っている場所から放射状にピアノ線を張り巡らしたといいます。それで会場いっぱいに声を送ったのです。
水を打ったようにしんとした会場にピアノ線を通して響き渡る浪花節、一度聞いてみたいものです。これが十分響いたらしいんですよ。
写真は冬でも強かった、パキーラです。
HOME > 芸能音楽の50
よっ、人間国宝。
今の仕事になって大きく変わったことといえば、「朝寝坊になった!」ことが挙げられます。決して誉められたことではないのは分かってはいるのですが、実際そういうことになっています。
で、毎日「NHK朝の連続テレビ小説」を見ています。呑気なもんです。略して朝ドラなのですが、全く略になってないと思います。
また連続テレビ小説というフレーズは、あくまでも連続ラジオ小説=新諸国物語=笛吹童子&紅孔雀、とかそういうのに対してテレビ小説なのではないでしょうか。
それが映画になって東千代之介と中村錦之助がヒーローで、高千穂ひずるがヒロイン、高千穂のお父さんが「私がルールブックだ!」といった二出川球審の娘だというのはみんなが知っていた時代です。古い話です。
まあそれは兎も角、今の「だんだん」に桂米朝師匠が出演していらっしゃいます。そしてその奥さん役がかしまし娘の正司照枝が固めています。ちょっと前まで3女の花江さんも施設の入所者の役で出ていました。みなさん、古くからやってらっしゃいます。
この3人に共通することは、関西の芸人だが吉本の所属ではないということです。NHKはよく見ていると吉本の芸人は昔から重用されていないと思います。いろいろな事情があるのでしょうが、吉本がそれだけがっちり民放に食い込んでいるということでもあるのでしょう。そしてNHKには松竹芸能(現在は鶴瓶などを擁する芸能プロダクション)のコネクションがしっかりしていました。当時はかしまし娘は松竹の看板でした。
まあそんなことはどうでもいいのですが、米朝師匠、随分年を取られました。人間国宝なのだからそれはそうでしょうが。もう生の落語を聞くことは難しいと思いますが、こうやってテレビででもお会いできるというのは本当にありがたい。
まだ学校前の子供のころ、木曜日の8時からNHKでやっていた宮田輝司会の「ふるさとの歌まつり」という公開番組を見ていて花菱アチャコがゲストで登場したことがあります。両親がそれを見て「アチャコ、まだいぎで(生きて)だんだなぁ」という反応だったことが忘れられません。
TVを見ていて、自分もそういうことを思う歳になってきたな、と思う昨今です。
今日は 「愛珈琲」を製造しました。
で、毎日「NHK朝の連続テレビ小説」を見ています。呑気なもんです。略して朝ドラなのですが、全く略になってないと思います。
また連続テレビ小説というフレーズは、あくまでも連続ラジオ小説=新諸国物語=笛吹童子&紅孔雀、とかそういうのに対してテレビ小説なのではないでしょうか。
それが映画になって東千代之介と中村錦之助がヒーローで、高千穂ひずるがヒロイン、高千穂のお父さんが「私がルールブックだ!」といった二出川球審の娘だというのはみんなが知っていた時代です。古い話です。
まあそれは兎も角、今の「だんだん」に桂米朝師匠が出演していらっしゃいます。そしてその奥さん役がかしまし娘の正司照枝が固めています。ちょっと前まで3女の花江さんも施設の入所者の役で出ていました。みなさん、古くからやってらっしゃいます。
この3人に共通することは、関西の芸人だが吉本の所属ではないということです。NHKはよく見ていると吉本の芸人は昔から重用されていないと思います。いろいろな事情があるのでしょうが、吉本がそれだけがっちり民放に食い込んでいるということでもあるのでしょう。そしてNHKには松竹芸能(現在は鶴瓶などを擁する芸能プロダクション)のコネクションがしっかりしていました。当時はかしまし娘は松竹の看板でした。
まあそんなことはどうでもいいのですが、米朝師匠、随分年を取られました。人間国宝なのだからそれはそうでしょうが。もう生の落語を聞くことは難しいと思いますが、こうやってテレビででもお会いできるというのは本当にありがたい。
まだ学校前の子供のころ、木曜日の8時からNHKでやっていた宮田輝司会の「ふるさとの歌まつり」という公開番組を見ていて花菱アチャコがゲストで登場したことがあります。両親がそれを見て「アチャコ、まだいぎで(生きて)だんだなぁ」という反応だったことが忘れられません。
TVを見ていて、自分もそういうことを思う歳になってきたな、と思う昨今です。
今日は 「愛珈琲」を製造しました。
田口八重子さんとの接点。
などという大げさなものではないのですが、このアルバムには思い出があります。
田口さんが働いていたキャバレーの楽屋で、老アルトサックス奏者にサインをしてもらったからです。
新聞には飲食店従業員という書き方になっていますが、少し前ならキャバレーホステスという報道になっていたと思います。私としてはキャバレーのイメージが悪いためそのようなことになっているのでは、と思ってしまいます。でもキャバレーはみなさんが思うような、ピンクではありませんでした。小粋な大人の社交場なのでした。
今から20年ぐらい前になるでしょうか、バブルも後期の頃で、駅前にあるキャバレーは土地も十分に使っており、地上げの対象となることが多く、日に日になくなっていきました。
名門といわれた銀座クラウン、モンテカルロ 赤坂ニューラテンクオォーター、ミカドなどを筆頭に、新宿ハイツ、ムーランドール、ムーランルージュ、三光町ハイツ、池袋、銀座、北千住、横浜、新小岩などにあった福富太郎のハリウッド、大井町、鶴見、池袋、大宮、千葉などにあった杯一、鴬谷のスター東京、横浜のパリ、大宮のアポロ、蒲田チャイナタウン等など、まさに百花繚乱でした。
私が在籍していた「楽団 魅惑の羽衣」の先輩トランペッターはプロミュージシャンで、演歌バンドに長く在籍していました。そして時々トラと称してエキストラ(臨時)にキャバレーに入ることがあります。で、いつでも吹いているだけではつまらないので、キャバレー遊びをしてみようという計画が持ち上がりました。それで私がお供することになったわけです。
そしてその時選んだのが田口八重子さんが働いていた池袋杯一でした。パイイチと呼んでいましたが、パイチと発音している文章も見受けられます。田口さんはその後池袋ハリウッドに移られたようです。
そして最初で最後のキャバレー探検が始まりました。
確か最初は表口から店内へ、セット2000円とチケット500円のが4枚つづりで2000円だったでしょうか。合計4000円を払って入っていくと、ボックス席に通されました。セットメニューはビールとなんか乾き物のおつまみだったと思います。それからは来るは、来るは、おねえちゃんが!とにかく、とっかえひっかえやってきます。
馴染みになって通ってくれということで、すぐに名刺がいっぱいになりました。その名刺は残念ながら処分してしまいました。先輩はとっているかもしれません。
チケットで水割りとか、少し頼んだらすぐなくなってしまい、延長はできないということでその場を去りました。東大に行っているという振れ込みでやっているお姉さんもおり、とにかく自分の客を確保すべく、一生懸命で圧倒された1時間でした。何を話したのかは覚えていませんでしたが、若い人はいなかったので、面白がっていろんなおねえさんが来てくれたんだと思います。
それから今度は裏口へまわり、バンドの楽屋を訪問しました。バンドは管楽器の入ったバンドと、コーラスバンド(クールファイブみたいな)が30分交替で演奏するようになっており、音楽が途切れることはありません。
「○○ちゃんきてたの?」と海軍軍楽隊の生き残りのバンマスが私の先輩に挨拶してくれました。その時吹いていたアルトサックスが写真のアルバムの鬼敏剛さんで、渡辺貞夫さんの大先輩のその筋では名人と言われた方でした。日本のポール・ディズモンドといった感じでしょうか。
先生のレコードが手に入ったので、ぜひサインをしてほしい旨話して、首尾よくサインをいただきました。そして鬼さんはアルバムの解説を指して「石塚君、ここに書いてあることは全くの出鱈目だ。解説の○浪洋○という人と会ったこともなければ、こんなウソを書かれるいわれもない。だからレコード解説を見てしたり顔で話すやつらはみんなインチキなんだよ。」
それまでレコード解説でいろんな知識を得ていた自分を大きく恥じ、この老名人の言葉を胸に大きく刻んだ一瞬でした。
キャバレーの楽屋の廊下にはコクヨの大判の方眼用紙が3枚も貼られて、下の方にホステスの源氏名がずらりと並び、そのうえに指名の回数が○のシールで貼られていました。いっぱいの方は隣のグラフにはみ出ていますし、何も貼られていない方も結構いらっしゃいました。多分200名ほどはいたでしょうか。なんとも厳しい世界なのです。
その後ここに立った時、その場所は駐車場になって跡形もなくなっていました。私は一瞬でも田口さんと同じ廊下を歩き、その廊下に貼られた、彼女もそれを見て一喜一憂したであろうグラフをみたのです。そのことが忘れられません。
是非、一日も早く日本に帰ってこれることを願わずにおれません。
追伸:レコードデータ タイトル:ミスティー (アルトサックス・ムード)女の夜のシリーズ
アルトサックス:鬼敏剛 編曲:小野崎孝輔 モダンポップスオーケストラ
レコード番号:MR3077 ポリドールレコード 発売元:日本グラモフォン株式会社
見つけたら買いです!!
頑張って、見つけてください!
田口さんが働いていたキャバレーの楽屋で、老アルトサックス奏者にサインをしてもらったからです。
新聞には飲食店従業員という書き方になっていますが、少し前ならキャバレーホステスという報道になっていたと思います。私としてはキャバレーのイメージが悪いためそのようなことになっているのでは、と思ってしまいます。でもキャバレーはみなさんが思うような、ピンクではありませんでした。小粋な大人の社交場なのでした。
今から20年ぐらい前になるでしょうか、バブルも後期の頃で、駅前にあるキャバレーは土地も十分に使っており、地上げの対象となることが多く、日に日になくなっていきました。
名門といわれた銀座クラウン、モンテカルロ 赤坂ニューラテンクオォーター、ミカドなどを筆頭に、新宿ハイツ、ムーランドール、ムーランルージュ、三光町ハイツ、池袋、銀座、北千住、横浜、新小岩などにあった福富太郎のハリウッド、大井町、鶴見、池袋、大宮、千葉などにあった杯一、鴬谷のスター東京、横浜のパリ、大宮のアポロ、蒲田チャイナタウン等など、まさに百花繚乱でした。
私が在籍していた「楽団 魅惑の羽衣」の先輩トランペッターはプロミュージシャンで、演歌バンドに長く在籍していました。そして時々トラと称してエキストラ(臨時)にキャバレーに入ることがあります。で、いつでも吹いているだけではつまらないので、キャバレー遊びをしてみようという計画が持ち上がりました。それで私がお供することになったわけです。
そしてその時選んだのが田口八重子さんが働いていた池袋杯一でした。パイイチと呼んでいましたが、パイチと発音している文章も見受けられます。田口さんはその後池袋ハリウッドに移られたようです。
そして最初で最後のキャバレー探検が始まりました。
確か最初は表口から店内へ、セット2000円とチケット500円のが4枚つづりで2000円だったでしょうか。合計4000円を払って入っていくと、ボックス席に通されました。セットメニューはビールとなんか乾き物のおつまみだったと思います。それからは来るは、来るは、おねえちゃんが!とにかく、とっかえひっかえやってきます。
馴染みになって通ってくれということで、すぐに名刺がいっぱいになりました。その名刺は残念ながら処分してしまいました。先輩はとっているかもしれません。
チケットで水割りとか、少し頼んだらすぐなくなってしまい、延長はできないということでその場を去りました。東大に行っているという振れ込みでやっているお姉さんもおり、とにかく自分の客を確保すべく、一生懸命で圧倒された1時間でした。何を話したのかは覚えていませんでしたが、若い人はいなかったので、面白がっていろんなおねえさんが来てくれたんだと思います。
それから今度は裏口へまわり、バンドの楽屋を訪問しました。バンドは管楽器の入ったバンドと、コーラスバンド(クールファイブみたいな)が30分交替で演奏するようになっており、音楽が途切れることはありません。
「○○ちゃんきてたの?」と海軍軍楽隊の生き残りのバンマスが私の先輩に挨拶してくれました。その時吹いていたアルトサックスが写真のアルバムの鬼敏剛さんで、渡辺貞夫さんの大先輩のその筋では名人と言われた方でした。日本のポール・ディズモンドといった感じでしょうか。
先生のレコードが手に入ったので、ぜひサインをしてほしい旨話して、首尾よくサインをいただきました。そして鬼さんはアルバムの解説を指して「石塚君、ここに書いてあることは全くの出鱈目だ。解説の○浪洋○という人と会ったこともなければ、こんなウソを書かれるいわれもない。だからレコード解説を見てしたり顔で話すやつらはみんなインチキなんだよ。」
それまでレコード解説でいろんな知識を得ていた自分を大きく恥じ、この老名人の言葉を胸に大きく刻んだ一瞬でした。
キャバレーの楽屋の廊下にはコクヨの大判の方眼用紙が3枚も貼られて、下の方にホステスの源氏名がずらりと並び、そのうえに指名の回数が○のシールで貼られていました。いっぱいの方は隣のグラフにはみ出ていますし、何も貼られていない方も結構いらっしゃいました。多分200名ほどはいたでしょうか。なんとも厳しい世界なのです。
その後ここに立った時、その場所は駐車場になって跡形もなくなっていました。私は一瞬でも田口さんと同じ廊下を歩き、その廊下に貼られた、彼女もそれを見て一喜一憂したであろうグラフをみたのです。そのことが忘れられません。
是非、一日も早く日本に帰ってこれることを願わずにおれません。
追伸:レコードデータ タイトル:ミスティー (アルトサックス・ムード)女の夜のシリーズ
アルトサックス:鬼敏剛 編曲:小野崎孝輔 モダンポップスオーケストラ
レコード番号:MR3077 ポリドールレコード 発売元:日本グラモフォン株式会社
見つけたら買いです!!
頑張って、見つけてください!
原信夫と#&♭を想う。
今年の夏でシャープが解散することになりました。日本のフルバンドでも最高峰といってもいいでしょう。長い歴史のあるバンドで、解散コンサートが開かれるのはめったにないことだと思います。
私の持っているレコードで見砂直照と東京キューバン・ボーイズ解散記念コンサートの実況録音があります。場所は新宿厚生年金会館、その中に#&♭がゲストで出ており、リーダーの原さんはこんなことを話していたと思います。
「いやぁ、見砂さん、よかったですねぇー。いや、やめるのがよかったというのではなく、世界でもバンドリーダーの末路というものは大概悲惨なものですよね。でも見砂さんはこうやってファイナルを迎えることができた。これはすばらしいことだと思うのです。ー」
まあ、大体こんなことを話されていたと思います。
このコンサートのときから、多分原さんは今日のことを考えていたのではなかったかと思うのです。ギタリストの息子さんもいらっしゃるので、継続も可能であったと思いますが、やはり美学優先という感じがします。
ノーチェ・クバーナ、ブルー・スカイ、ニュー・ハードなんかは本人がいなくとも継続していますし。
そして、原さんは最後にベストのバンドにするべく、今までやってきた人と往年のメンバーとの交換をしました。この辺が原さんの凄いところで、通常の人は今まで頑張ってきたんだから、なんて甘っちょろいことになるのですが。
原さんが言うように、アメリカの偉大なバンドリーダー、たとえばライオネル・ハンプトン、ウディ・ハーマンなどは80歳を超えてなおバンドを維持し続けていましたが、本人の具合が悪くなったとき、スイング・ジャーナルに金がなくて困っているので寄付金を募っております、などという告知が掲載されるのです。
そういう意味では、原信夫はプロだなぁ、と徹子の部屋のインタビューを見ながら思いました。
写真は店にセットしたレコードの数々です。#&♭はあったかなぁーー?
私の持っているレコードで見砂直照と東京キューバン・ボーイズ解散記念コンサートの実況録音があります。場所は新宿厚生年金会館、その中に#&♭がゲストで出ており、リーダーの原さんはこんなことを話していたと思います。
「いやぁ、見砂さん、よかったですねぇー。いや、やめるのがよかったというのではなく、世界でもバンドリーダーの末路というものは大概悲惨なものですよね。でも見砂さんはこうやってファイナルを迎えることができた。これはすばらしいことだと思うのです。ー」
まあ、大体こんなことを話されていたと思います。
このコンサートのときから、多分原さんは今日のことを考えていたのではなかったかと思うのです。ギタリストの息子さんもいらっしゃるので、継続も可能であったと思いますが、やはり美学優先という感じがします。
ノーチェ・クバーナ、ブルー・スカイ、ニュー・ハードなんかは本人がいなくとも継続していますし。
そして、原さんは最後にベストのバンドにするべく、今までやってきた人と往年のメンバーとの交換をしました。この辺が原さんの凄いところで、通常の人は今まで頑張ってきたんだから、なんて甘っちょろいことになるのですが。
原さんが言うように、アメリカの偉大なバンドリーダー、たとえばライオネル・ハンプトン、ウディ・ハーマンなどは80歳を超えてなおバンドを維持し続けていましたが、本人の具合が悪くなったとき、スイング・ジャーナルに金がなくて困っているので寄付金を募っております、などという告知が掲載されるのです。
そういう意味では、原信夫はプロだなぁ、と徹子の部屋のインタビューを見ながら思いました。
写真は店にセットしたレコードの数々です。#&♭はあったかなぁーー?