オダマキ属は、北半球の温帯に分布する宿根草です。日本にも数種自生し、春から初夏に独特の形の花が俯くように開花します。日本に昔から自生する『みやまおだまき』は、本州中部の高山地帯から北部に分布し、直径3cmほどの青紫色で花弁の先が白色を帯びた花をつけます。昨年市内の山野草展で買ったオダマキが咲きました。山に咲く”苧環”おだまきという名がついている、このオダマキ(苧環)とは、紡いだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの・・おだま)ににているとこからその名がきている。
越後瞽女(えちごごぜ)
相模原市に住んた頃、子供も大きくなり、自由な時間ができ、なんか習い事しようかと思い立ち、絵が好きだったこともあることからり、市内にある絵画教室に通い始めました。しかし、物足りなくなって相模原市の絵画サークル”どんぐり”に入りなおす。そこは毎年町田の版画美術館を主にグループ展を開催しており、ほぼ5月の連休に行います。
昨日までこの作品つくりしてました、ぎりぎり完成です。ことしは”越後瞽女”を題材に作りました、この”ごぜ”は米沢市万世に住んでいたころの母から聞いた幼少期の話、実家のある川西の玉庭地区のごぜ宿も知人から知ることができたことからこの題材にした。
一昨年は”むかさり行列”を題材にし、昨年は”ぼて娘”と、いずれも昭和の30年ころまでにあった風景とした、このごぜというのは、幼いころから病気が原因で失明する子どもが多かった時代、幼少から瞽女の弟子になるケースが多く、幼子ながら唄と三味線の厳しい修業を積みました。受け継ぐ方法は、すべて口伝え。唄の伝承は一日中続き、道を歩く時も風呂に入る時も、ひたすら暗唱させていたといいます。双方とも目が見えないのですから、教える親方にも労力がかかります。親方は弟子の背後に回り、棹(さお)を持つ弟子の左手の指に自分の指を添えて糸の押さえ方を、右手には撥(ばち)を持って弾き方を教えました。 1年のうち300日は旅をしていたといわれている瞽女さんたちは、遠い昔から村々を訪ね、一軒、一軒に唄を運んだ、暑い日も、寒い日も、よほどのことがない限り、自分の足だけが頼りの旅であった。
明治の初め、新潟には700人ほど目が不自由な女性の旅芸人”ごぜ”がいたと言われている、生活の糧として三味線をもち村々を回る、私の母は昭和4年生まれ、小さい頃、米沢市万世地区で育つ、毎年ある時期になると”ごぜ様”来ると言って地区の世話人が教えに来て、今日はごぜ様が来るから着替えて(一応よそ行きの服装があったんだと母)準備しとけと言われ、それを楽しみにしていたそうです・・唄に語りがあって、時に悲しく・・時に笑わせる・・行ったこともない旅先での話は娯楽も少なく旅に出ることもまるでなかった母には新鮮で面白かったと言います。
無償で瞽女たちを泊めて世話をしてくれる家は「瞽女宿」と呼ばれていました。瞽女宿となるのは地主などの旧家です。しかし戦後になると、ラジオやテレビの普及により瞽女の活躍の場が次第に奪われ、廃業に追いこまれる瞽女が多くなっていく。越後瞽女は主に「高田瞽女」と「長岡瞽女」が知られ、明治時代後期をピークに、戦後には「高田瞽女」とうとう一軒となってしまいます。