昨日は天気よく外出日和でしたが、たまには体をいたわる休養日にして、なんもしない日と決めて一歩も外にでませんでした。雪も降ってないし家の周りの雪かきも一昨日で終わって安泰な一日、納戸の工作室で読書、少しだけ5月の萠展向け作品つくり、ストーブの火がもったいないんで、我が菜園でとれたカボチャのこり、戻しておいた小豆とカボチャをそれぞれ煮て、それから合体してあずきかぼちゃ煮にしました、今日は米沢スキー場でスキー授業お手伝い明日、明後日は仕事、もうすぐ65歳、昨年4月までは週一の休みでよく体が持ったなとおもうこの頃、昨年5月から仕事は週3か4に減らして、休みは元気に外に出ていたけども、全く何もしない休養日がないと少し堪えてきた65歳・・ここからまたさらに体力無くなって行くのか?やんだね・小豆カボチャは今日のおやつに持参いつものスキー友3人も滑りくるようだから分けて食べます。
団子の木
こないだの24日月曜日、上杉伯爵亭でランチした時、目にした団子の木、これも昭和の30年40年代まで、どこに家でも飾っていたように思います、町に出店が出て団子の木を売っていた、昔旧暦の1月15日は望月(もちづき・満月のこと)にあたりこの日を正月としていたなごりで、元日は『大正月』、15日を『小正月』と呼び大正月は年神様を迎える行事、小正月は農作業の安全や豊穣を祈る家庭行事としていたことからきている、団子を木にさして、ふな菓子は糸で下げていました・・だいたい20日までか1月いっぱいは飾っていて、団子餅は油で揚げて砂糖に塩かけたりして食べてました・・昭和の30年代までは昔の風習をどこの家庭でもやっていた・・小学生のころの思い出は消えませんねなつかしい
ミシン
小学生の家庭科で習ったお裁縫、そん時の裁縫やり方はしっかり覚えていて、ボタン付けやほころびを縫う程度は出来る、独身時代・・念願だったワーゲンビートル(かぶとむし)を購入し、グリーンのタータンチエックの布買って、自作でシートカバー作ったことがある、しかしそれ以降はボタン縫い程度で裁縫はしなくなった・・定年還暦迎えて田舎の古民家(米沢市窪田)に移住したのは2017年2月(60歳)誕生日に引っ越して、丸5年となりました、半自給生活始めて大豆に味噌、納豆作るようになりました・・お家の修理もなるべく自身で行う、あと足りないスキルが裁縫・・従妹も自作するのは何でも好きでクッション、ソファーベットのシート縫い頼んだけどもこの際、少しできるようにミシンあったら買おうかと従妹に話していたら・・余分にあるミシン持って来てくれた・今のは縫い方もパターンが豊富で、名前なんかも刺繍で入れるのも簡単だそうです・・でもミシンは触ったこともなく、これから習ってみます・・
上杉伯爵亭でランチ
上杉伯爵亭、明治29年に、元米沢城の二の丸跡に上杉家14代の伯爵亭として建てたという、大正8年米沢大火で焼失し、同14年に再建完成した・・当初は敷地5000坪、建坪530坪と壮大な大邸宅であったと言うことです、昭和20年に進駐軍の宿舎として使用され昭和25年に接収が解除されて、市が上杉家より譲り受け、市内観光の施設として開放、郷土料理の提供、資料展示など米沢の伝統を見て米沢の料理を味わうことができます・・昨日は従妹とのんびりランチ、地元食材で懐かしい郷土の味堪能しました、今年従妹が還暦、弟は昨年還暦でした、あと新潟に2人従妹がいるが来年、再来年と還暦を迎える・・私は来月で65歳みんな60代に突入・・子供には世話にならんと老後の生活どうするかというのがどうしても話題になる歳になりました・・
納豆その2
藁納豆したとき茹でた大豆の残ったのがあり、今度はタッパに入れて市販の納豆を入れてこたつで一晩、これでも納豆菌が回って納豆になってました、こっちの方が簡単ではありますが、藁の風味が好きな方は物足りないかもです、味噌用に植えた大豆はデカくて納豆としては私は小さいほうが好きかな、そんなわけで・・この納豆はまな板の上で刻んで味噌入れて寝かせてみました・・納豆より保存利きますかね、少し調べんとわかりませんが、ひきわり納豆というんですかね・・ご飯に載せて食べてみました、まぁまぁですかね、ここ置賜地方で農家の保存食として”五斗納豆”というのがあるようです、納豆菌による発酵の後に、米麹と塩を入れて2回目の発酵をさせて長期保存させるもの・・ここらへんで雪割納豆として販売してます・・値段も手ごろで都会生活の頃お土産で何回か雪割納豆もっていきましたが、食べてことない人には特別にという感じでしたが・・小さい頃から雪割納豆は食べていたんで私は好きですね・・今度麹と塩入れて作ってみます。