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老兵の半生(平成の大不況1)

2008年年明けとともに、なにやらアメリカで金融不安
の火がくすぶりはじめたのですが、あまり気にも
とめず過ごしてきましたし、新聞、テレビでも
大きく報道されることもなく、われわれ製造業の
中小企業にとっても、不況の影響もありませんでした。
私どもの仕事は、装置産業で、メーカーが設備計画を
することによって、受注できる仕組みになっています。
大体三ヶ月~四ヶ月のスパンで、設計、加工、組み立て
設置を行います。
常に三、四ヶ月先のメーカーの生産計画を
伺い知ることが、できます。
それによって、業種による好況、不況が、多少判断
できる状況にあると思っています。
お得意様も、設置先も全国、あるいは世界各国に
及ぶこともあり、それゆえ業種ごとの経営戦略等
もおぼろげながら、想像でき、また
私どもの装置は、他業種にわたっていますので
業種、業種によっての四半期先の増産、減産計画が
多少なりとも予測できます。
今年は少しおかしいぞ、そう思ってきたのが
七月に入ってからでした。関東地方の金型業の
業者の中で、受注が減ってきたとの一報を受けたのです
普段なら、クリスマス商戦なり、年末商戦を控えて
新製品の開発のため、金型受注は増えなくては
ならない時期なのです。時を同じくして新潟地区でも
同様の情報です。
(大不況2)につづく

老兵の半生(メーテルの雪2)

私は黙って、週刊誌を読み続けていました。
時々気になって、ちらちらと彼女の様子をみながら
彼女は、暗い車窓を眺めながら、さびしげな
横顔で、じっと座っていました。
列車が黒磯の駅に、止まったときのことです
彼女は、釜飯弁当を二つ購入し、其の一つを
「よかったら食べませんか」私に差し出し、
てくれました。
其のときから二人の会話が、始まりました。
「どこまでですか」「赤湯までです」と私、彼女は
「置賜で降りるんです」
いろいろ話をしているうちに、彼女は横浜の貿易商社
につとめていて、結婚したのですが、
離婚して、職場もやめ、実家に帰るんだそうです
なぜ、こんなに空いている中で私の前の席を
選んだのですか、と聞いてみました。
亡くなった弟の横顔に私が、どこと無く似ていたので
つい座ったのだそうです。
そんな時の時間のたつのは、すごく早いもので
たちまち、彼女のおりる置賜駅に列車は、
停車してしまいました。
無人駅に降り立った彼女。列車が発車するまで私に
手をふりながら、立ち尽くす彼女に外灯の光
を受けながら、心を締め付けるような印象で
雪は降り注いでいました。
今日の庭先に降る雪をみながら、遠い日の無人駅の
光景を思い起こしていました。
つくづく年なのかなと思える、休日でした。

老兵の半生(メーテルの雪1)

12月6日久しぶりに、自宅でごろごろする
夕方から又出かけなくてはならないのだが
昨日、友人より電話があり元気でいるか、との
気遣いの電話でした。実は毎日書いてるブログを
此処一週間くらい、ぴったり止めていたのです。
いろいろ珍しく会社での出番が、多くついつい
止めていたのでした。
炬燵の中に入って、雪の降りしきる庭を見ている内
に、ふと遠い昔の夜の無人駅のホームを
思い出していた。
上野駅発の最終列車の座席で、雑誌を読んで発車
を待っている、「よろしいですか」
と声をかけられ顔を上げると、私より5っ位年上の
年のころ27、8の女の人でした。
「どうぞ」と答えるとあいている私の
前座席に腰を下ろしました。
外套の端が、私の前を翻りとてもいい香りが、再度
顔をその人に向かわせました。
実は列車内は、がらがらに空いていて、空いている
座席は沢山あったのです。
なぜ私の前に座ったのか、其のときは考えもしません
でした。
細身の体に、紺の外套其の襟と袖口には、フワフワした
同色の毛飾りがついており、スカートから下のすらりと
横に揃えた足はロングブーツで、覆われていました。
顔も中々の美形で、今で言うハーフ的雰囲気であり
思わず心の中で「こりゃ銀河鉄道スリーナインの
メーテルだな」と叫んでいました。
つづく

老兵の半生(様々な出会)

これまで、書ききれないほどの人たちとの印象深い出会いがあり
また、多くの別れがありました。
其のたびごとに、必ずしもプラスの影響だけでなく、マイナス
な影響を受け、悩み苦しんだことも数多くあったわけですが
私自身の成長過程では、これらの出会で受けた影響が、
大変勉強になった事は間違いありません。
経営てきには、不渡りをつかまされたり、保障して逃げられたり
お金を貸して、逃げられたり数多くの、弁済をしてきましたが
今こうして生きてこられたのも、みんな人との交流の中で
体験的に、知識を蓄えてきたことに他ならないと思っています。
自分に利のある、人との付き合いばかり望んでは勉強に
成りません。少しはマイナス的な付き合いも、経験しないと
大きなマイナスに、出会ったときに対処できなくなると
思います。
人との付き合いも多少の免疫が、必要でと思います。

私にとって、これからは多くの、次世代の人たちとの出会い
と交流が続いて、行く事となるでしょうが経験の中から
話すことが、少しでも彼らの参考になれば良いなと
思っています。

老兵の半生(坂本九3)

  • 老兵の半生(坂本九3)
1985年8月12日、日航123便の突然の墜落事故
8月13日この時点では安否分からずの状態であった
墜落から95時間後の16日、家族らによって遺体が確認された
と報道されています。
結婚式を挙げた笠間稲荷神社のペンダントを常に身につけて
いたため、確認できたのだそうです。
小宮マネージャーと共に、43歳の若さで亡くなったのでした。
小宮さんも、閉校式のイベントでは、大変お世話になり
私どもにとっては、ただ虚脱感で、何でいい人は、早く逝って
しまうのかなと嘆いたものでした。
戒名は天真院九心現聲居士。葬儀は親族やごく一部の関係者
のみの密葬と言う形で、芝の増上寺で行われ、我々も
芸能関係者と共に、参列してまいりました。
人の出会いの中で、大きく影響を受けた人との別れとは
本当に、悲しいものであります。

写真は葬儀の日、頂いてきた坂本九さんの家族との思い出の
写真集のなかの、一こまです。