大正3年の長井線開通祝賀会に出席したのは長晴登、小林源蔵の両代議士であったが、長氏は大正5年に、小林氏も大正10年(1921年)1月9日に逝去した。長井鮎貝間の開通を報じた米澤新聞には、「故小林及び高橋代議士の徳を称す」との見出しがつけられている。小林源蔵氏を追ってみよう。
小林氏は、米沢市史によると、慶應3年(1867年)米沢市生まれ。東京帝国大学卒業後、鉄道院理事を勤め、鉄道事業視察のため欧米各国を視察。帰国して弁護士を開業し、米沢で日刊米澤新聞を発刊。政治家を志して明治45年(1912年)第11回衆議院選挙に出馬し当選したと記されている。一方、ウィキペディアによると、東京帝国大学卒業後、逓信省に入り、明治30年(1897年)、鉄道事務官に昇進。明治35年(1902年)から翌年にかけて欧米各国の鉄道事務を視察した。日露戦争が勃発すると野戦鉄道経理部庶務課長に任命され、戦地に赴く途中、乗船していた佐渡丸がロシアの攻撃を受け捕虜となる。1年半にわたって虜囚生活を送り、明治38年(1905年)に帰国。帰国後は鉄道庁参事、鉄道院理事(注)を歴任した。明治45年(1912年)第11回衆議院選挙に出馬し当選したとある。山形県議会80年史によれば、もと代議士山下千代雄(政友会)、米沢市長であった二村忠誠(国民党)を破って初当選したという。
小林氏の経歴についてはこれ以上確認することはできないが、鉄道事務官であった明治30年頃から初当選した明治45年の時期は、鉄道国有法(明治39年)、軽便鉄道法(明治43年)が公布され、明治44年12月末の鉄道会議で赤湯~長井間の軽便鉄道予算が認められた時代である。鉄道官僚でもあった小林氏は、県内の鉄道建設運動を支援してくれていたのではなかろうか。また、鮎貝村長 菅四郎兵衛氏の式辞に、小林代議士への感謝の言葉がありますが、この背景については改めて紹介したいと思います。
(注)鉄道院は鉄道国有法を受けて、明治41年(1908年)に鉄道庁と逓信省鉄道局が統合して発足した。
【新聞記事提供:米澤新聞大正11年12月13日 (二)】
【参考資料:米沢市史、ウィキペディア、山形県議会80年史】