写真は、荒砥駅全通時の米澤新聞に書かれた荒砥町 大貫氏の談話記事である。この中で、長井線に係る幾つかの重要な事実を知ることができる。それによると明治43年の秋頃、長岡不二雄、高山悌次郎、栗和田與吉などと荒砥軽鉄期成同盟会を設立した。(長岡氏を含む4名は、すべて荒砥町長に就任した人物である。)その後、大正3年に荒砥、十王、白鷹、東根の1町3カ村で東部会を設立し、鉄道建設運動を展開することになった。その際、代議士であった長晴登氏を通じ、当時鉄道院理事であった小林源蔵氏を訪ね協力を願ったという。ここで、長氏と小林氏が地元とつながっていたことがわかる。
次に、大正6年には荒砥まで延長されることが鉄道会議で決定されたという点である。長井から荒砥までの延長が決定された時期を初めて確認することができたのである。ただし、この段階での決定が、最上川の右岸ルートであるか左岸であったのかは、新聞文字がつぶれており明確でないが、その後の流れから類推すると、6年時点では右岸に設定していたものとみられ、それが鮎貝の菅四郎右衛門氏などの運動で、左岸となったのではなかろうか。大村建設局長の「最上川に架橋することはできないから鮎貝駅を終点として荒砥駅と命名せざるをえない」との談に対して、このままでは「今までの奮闘が水泡に帰す」との思いは、かなり緊迫した状況があったことを示している。
こうした状況において、小林氏が鮎貝の菅氏と荒砥の大貫氏に、「東西の引っ張りこをやめよ」と説得したというのである。この時期、西置賜郡長は清水徳太郎であるが、彼もまた鉄道院出身であったことも、調整役として関わったように思えて来る。清水郡長については、改めて紹介することとして、大正8年4月には成田地内の測量に入り、9年12月には工事に着工していることから、それ以前には念願の荒砥までのルートが決定されていたと考えられる。
地元の思いと政治家と、鉄道官僚の思いがぶつかり合い、紆余曲折を繰り返しながら到達した一番列車だったのだろう。
【新聞記事提供:米澤新聞 大正12年4月22日(二)】