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ジャングルの中の激闘

  • ジャングルの中の激闘
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 「成田清流のふるさと環境保全会」の皆さんが、線路沿いの草刈り作業を行ってくれました。同会の総勢19名の方が、13日、14日の両日、朝5時から7時までの「朝仕事」以上のハードな作業に取り組んでくれました。場所は野川鉄橋の北側から成田駅北側まで。

 作業にあたった方は、「野バラや桑の木、カヤ、蔓などと格闘しました。特に駅の北側は初めての場所なので、まさにジャングルの中の激闘でした。」と語ってくれました。幾重にも重なって横たわる残骸を見ると、激戦の様子がありありと目に浮かびます。お疲れさまでした。そして、30日は、羽前成田駅・白兎駅協力会の皆さんとおらだの会で、格闘第2弾を実施します。

少しは参考になったのでしょうか

  • 少しは参考になったのでしょうか
  • 少しは参考になったのでしょうか

 本日、関東地区の民間鉄道会社で組織している関東鉄道協会の皆さん方が、視察においでになりました。おいでになられたのは、技術委員会土木部会の皆さん方で、最上川橋梁を見学した後、荒砥から乗車して羽前成田駅で降車されました。おらだの会会長のボーっとした説明にも、あくびもせずに真剣に耳を傾けられていました。少しは参考になったのでしょうか。

 協会には第三セクターの会社も加入しているようですので、お互いに切磋琢磨し、応援し合える関係がつくられればいいですね。それにしても、駅前まで大型バスが入って来られたことに驚きました。

軽鉄人物伝② 小林源蔵(その3)

  • 軽鉄人物伝② 小林源蔵(その3)

   写真は、荒砥駅全通時の米澤新聞に書かれた荒砥町 大貫氏の談話記事である。この中で、長井線に係る幾つかの重要な事実を知ることができる。それによると明治43年の秋頃、長岡不二雄、高山悌次郎、栗和田與吉などと荒砥軽鉄期成同盟会を設立した。(長岡氏を含む4名は、すべて荒砥町長に就任した人物である。)その後、大正3年に荒砥、十王、白鷹、東根の1町3カ村で東部会を設立し、鉄道建設運動を展開することになった。その際、代議士であった長晴登氏を通じ、当時鉄道院理事であった小林源蔵氏を訪ね協力を願ったという。ここで、長氏と小林氏が地元とつながっていたことがわかる。

 次に、大正6年には荒砥まで延長されることが鉄道会議で決定されたという点である。長井から荒砥までの延長が決定された時期を初めて確認することができたのである。ただし、この段階での決定が、最上川の右岸ルートであるか左岸であったのかは、新聞文字がつぶれており明確でないが、その後の流れから類推すると、6年時点では右岸に設定していたものとみられ、それが鮎貝の菅四郎右衛門氏などの運動で、左岸となったのではなかろうか。大村建設局長の「最上川に架橋することはできないから鮎貝駅を終点として荒砥駅と命名せざるをえない」との談に対して、このままでは「今までの奮闘が水泡に帰す」との思いは、かなり緊迫した状況があったことを示している。

 こうした状況において、小林氏が鮎貝の菅氏と荒砥の大貫氏に、「東西の引っ張りこをやめよ」と説得したというのである。この時期、西置賜郡長は清水徳太郎であるが、彼もまた鉄道院出身であったことも、調整役として関わったように思えて来る。清水郡長については、改めて紹介することとして、大正8年4月には成田地内の測量に入り、9年12月には工事に着工していることから、それ以前には念願の荒砥までのルートが決定されていたと考えられる。

 地元の思いと政治家と、鉄道官僚の思いがぶつかり合い、紆余曲折を繰り返しながら到達した一番列車だったのだろう。

 

【新聞記事提供:米澤新聞 大正12年4月22日(二)】

2019.06.13:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]

長井高校写真部展が始まるよ

  • 長井高校写真部展が始まるよ

長井高校写真部の作品展「物語のある風景」が今週末から始まります。全国大会出場を果たした3年生が引退して、2年生4人が新入部員12人を引っ張っていきます。ありふれた景色と時間の中に、眩いばかりのアオハルが見える作品が並んでいます。30年あるいは半世紀前の若者も、ぜひご覧になってください。なお、6月16日の午後は、会場で鉄道写真家・広田泉先生による高校生に対する学習会を予定しておりますことをご了承ください。

 展示期間 6月14日(金)~7月7日(日)の毎週金・土・日

 開場時間 午後1時半から4時まで (入場無料です)

軽鉄人物伝② 小林源蔵(その2)

  • 軽鉄人物伝② 小林源蔵(その2)

   鉄道官僚出身の政治家である小林氏の実力を知ることができる資料が幾つか見つかった。小林氏が当選した明治45年、内相兼鉄道院総裁は原敬。山形県議会80年史によれば、原総裁は当時要望が出されていた村山軽便鉄道、すなわち山形駅から発し出羽丘陵を迂回して荒砥に連結する循環線を梃に、政友会の基盤拡充を目指すことを念頭に置いていた。このため、原総裁は、鉄道院参与を務めた小林に当該路線の企業価値を調査させ、また明治29年から30年にかけて山形県書記にも在職したことのある内務次官 床次(とこなみ)竹二郎に県内の政治状況を調べさせたという。蛇足になるが、原敬に重用された床次竹二郎は大正2年に鉄道院総裁に就任し、その後衆議院議員にもなった人物である。

 また、我が地元・成田地区との関わりも少なくない。横山文太郎著「成田の歴史」によると、大正8年の長井駅以北ルートの測量が行われた後、成田駅の位置を成田区の中央に決定するよう要望していた。当時長井村村会議員となっていた佐々木宇右衛門と小林代議士は親しい友人関係にあり、小林代議士は鉄道院の参事であったから、佐々木から一言「頼む」と言えば、すぐに実現したのではないかというのである。しかしながら佐々木は、鉄道には消極的あり、それを進言するのもはばかられた、とのことである。

 小林氏は大正8年の第41回帝国議会では、予算委員分科会の主査の職にあった。大正9年2月26日までの任期を務め、大正10年(1921年)1月9日に逝去された。長井から荒砥までの延長工事が開始されたのはその前年の大正9年12月15日のことであった。

 


【参考資料:山形県議会80年史、横山文太郎著「成田の歴史」致芳史談会発行、帝国議会会議録データベース】

2019.06.08:orada2:コメント(0):[     軽鉄人物伝]