大正2年(1913年)10月26日の赤湯~梨郷間の開通を祝う米澤新聞に、「鈴木宮内町長の一粒種信太郎君が時めく床次鉄道院総裁の秘蔵娘を貰って喜ぶ間もなく」という記事が載っている。すなわちこれ以前に床次氏と鈴木幸松宮内町長は、顔見知りの関係にあったのである。また山形県議会80年史(P598)によれば、大正3年(1914年)の第31回帝国議会において、床次鉄道院総裁が、村山軽鉄を大正3年度中に着工すると発言した、とある。予算が不成立となり実現には至らなかったが、当時の床次氏の権限を知ることができよう。
鈴木幸松町長は明治40年(1907年)から昭和2年(1927年)まで町長の職にあったが、国政の重鎮とのパイプの一つが宮内町にあったことは注目すべきことではなかろうか。また米澤新聞(明治30年10月27日)には、「長井町の有志者また宮内町の有力者と連合し長井町より今泉を経て宮内町を通過し赤湯停車場に出でんとする計画ありという」との記事がある。長井線建設に向けた民間サイドの動きについても、宮内町の役割は少なからぬものがあったと思われる。
【新聞記事提供:米澤新聞 大正2年10月26日記念号其二(一) 参考資料:米澤新聞(明治30年10月27日)、山形県議会80年史、ウィキペディア】
【写真は赤湯~梨郷開通時に制作された「記念カード」:ふるさと資料館(南陽市宮内)提供】