山形県の鉄道敷設物語に陰に陽に現れるのが、床次(とこなみ)竹二郎である。床次氏の略歴をウィキペディアなどから見てみる。慶応2年(1867年)鹿児島市生まれ。明治23年(1890年)東京帝国大学を卒業後、大蔵省に入省。明治27年(1894年)に内務官僚に転じ、宮城県や岡山県で勤務。明治29年(1896年)から2か年山形県書記官を務める。なおこの時期に県議会議員であり、その後国会議員となった方に長晴登、戸狩権之助がいる。
床次氏はその後、徳島県や秋田県知事に任じた後、原敬内務大臣に認められて明治39年(1906年)に内務省地方局長に就任。明治44年(1911年)第2次西園寺内閣で再び内務大臣となった原によって、内務次官に起用された。この際に、村山軽便鉄道の建設に係る原との関係は「小林源蔵(その2)」で紹介したとおりである。長井線が開業した大正2年(1913年)に鉄道院総裁、翌年には衆議院補欠選挙に立候補し当選。以後、昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期の当選を果たした。大正7年(1918年)9月に原内閣が成立すると内務大臣兼鉄道院総裁に就任している。まさに、長井駅以北の延長ルートの決定が難航していた時期にあたる。
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【資料:官報第370号(大正2年10月22日)、山形県議会80年史、ウィキペディア 】
官報の写真は「軽便鉄道あれこれ」に掲載したものを再掲しています。
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