これまで見てきたように、長井線の建設経過の中で、最もドラマティックな事件の一つは、長井以北のルート決定過程ではないだろうか。これまで、小林源蔵氏、長晴登氏、さらに荒砥町関係者などの動きを紹介してきたが、西置賜郡長にもスポットを当ててみたい。
西置賜郡長には17人が就任しているが、その中で興味深いのは第12代清水徳太郎である。ウィキペディアで清水氏の経歴を概観すると、明治15年富山県出身で東京帝国大学大学院を卒業後、明治43年(1910年)鉄道院書記となる。以後、鉄道院副参事、参事を歴任。その後、内務省に転じ、大正7年(1918年)8月5日から翌年7月まで西置賜郡長に就任。その後、栃木県や奈良県等の職を経て山形県内務部長に着任している。1927年に和歌山県知事に就任するも2カ月で休職した後、昭和3年(1928年)2月の第16回衆議院選挙に山形県2区から出馬(立憲民政党)し当選。以後、第20回選挙まで連続5期当選を果たしたという。
清水氏が西置賜郡長であった時期は、鉄道省の最上川右岸ルート案に対して、左岸側4か村の猛烈な反対運動があり、難航した時期である。この時期に郡長に着任した清水は、鉄道は西通りとし、東根村と蚕桑村の間に架橋(睦橋)を県費で建設することで調整したことが白鷹町史(P1243)に記されている。また、この橋の名前が、蚕桑村と東根村の親睦を願って命名されたとの伝聞も紹介している。
ここに鉄道省出身の小林代議士と清水郡長、さらに原敬内閣発足時(大正7年9月)に内務大臣兼鉄道院総裁に就任した床次竹二郎氏ら、そうそうたるメンバーが会することになるのである。蛇足になるが長井村役場焼討事件で有名な木村信宝氏は、第8代郡長である。
【写真は西置賜郡役所(長井市史第三巻)、参考資料:白鷹町史、長井市史、ウィキペディア】
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